老武士の「おもてなし」

さほど有名ではない事実を誰でも知っているかのように扱ってしまうのは私の悪い癖です。先日、大興善寺を建立したのは能の「鉢木」で有名な佐野源左衛門、と書きましたが、多くの方が「鉢木(はちのき)」も佐野源左衛門もご存じないでしょう。

鉢木のあらすじは次のようなものです。

ある雪の夜、片田舎で貧しい暮らしをしている老武士、佐野源左衛門のところに旅の僧が訪れ、一宿一飯を求めます。

源左衛門は薪すらも事欠いていたのですが、大切な鉢植えの木を火にくべて僧をもてなします。

そして、このように貧乏をしてはいるが、一旦緩急あらば鎌倉に馳せ参じるつもりだと語ります。

その後、実際に事が起こり、源左衛門が鎌倉に駆けつけると、何とあの時の僧は執権北条時頼だったのです。

時頼は言葉通り馳せ参じた源左衛門に恩賞として広大な領地を与えたのでした。

この話はあくまで伝説であって、史実とは異なります。常識で考えても執権は諸国を行脚して回るほど暇ではないでしょう。

しかし、鉢木は我々に二つのことを教えてくれます。

一つ。真の「もてなし」には鉢木の精神が必要、ということ。「おもてなし」が一時流行語のようになっていましたが、観光収入を当て込んだ上滑りな「おもてなし」には鉢木のような暖かみがありません。

観光収入を得るなと言っているのではありません。大いに得て結構。ただ、例えば高級ホテルがいかに快適であったとしても人は容易には感動しません。それだけのお金を払っているわけですから。一方、友達がタダで泊めてくれたら感動します。そういうものです。

もう一つ。こちらの方がより重要ですが、言ったことを守るというごく単純な、しかし、忘れられがちな徳目です。

いざ鎌倉となったとき、父が危篤だからとか子供が病気だからと言って結局馳せ参じない人がよくいます。それどころか、親や子供をほったらかして戦場に赴くのは人としていかがなものかなどと、まるで馳せ参じなかった自分が正しいかのような理屈をこねる人さえいます。

もちろん、いざ鎌倉より家族を大切にという生き方もあるでしょう。それなら「馳せ参じる所存」などと言わなければ良いのです。言ったからには守らねばなりません。

武士に二言はないのです。

大興善寺に詣でながら、そのようなことを考えました。

態度の悪い店員

滅多にないことですが、スーパーやコンビニの店員の態度を不快に思うことがあります。

今日もそんなことがありました。1,135円を払おうとして、千円札一枚と百円玉一枚、そして十円玉が3枚ないことに気づいて五十円玉一枚、プラス五円を出しました。するとレジのおばさんにつっけんどんな調子で「この十円いらない!」と言われました。

どうやら五円と間違って十円玉を出したようで、確かに余計な十円です。しかし、ものには言い方というものがあります。「十円多いですよ」でもなく「この十円はいりませんね」でもなく「この十円いらない!」です。

まあ、レジのおばさんの虫の居所が悪かったのかもしれません。

しかし、このように不快な対応をされると自然とその店へは足が向かなくなります。店長や正社員はそのことをよく知っているので、客をぞんざいに扱うことはまずありません。態度が悪いのはほぼ例外なくパートやアルバイトです。

パートやアルバイトの人は、客に丁寧に接しても給料は一円も増えません。一方、店長は客がまた来てくれるか否かが自分の利益に直結しますから、自ずと対応は良くなります。

中間は正社員で、アルバイトと同じように接客の質は給料とは関係ないと短絡的に考えていればそれなりの接客しかしないでしょうし、店舗やグループ全体の利益を増やせば自分にも還ってくるという視点があれば経営者並みの接客となるでしょう。もちろん、出世という利益もあります。

もしかすると人は言うかもしれません。「アルバイトなら、客に親切にしても疲れるだけでなんの意味もない」と。

意味はあります。

良い接客をすれば店が儲かるだけでなく、あなたへの人物評価も上がります。それは勤務の査定という狭い意味だけでなく、文字通り「世間の見る目」が変わるのです。

逆に評価が下がることもあります。私が件のレジのおばさんを見る目は間違いなく「くそババア」です(笑) 一事が万事で、他の人も大方そうに違いなく、そのおばさんへの世間の評価はくそババアということになってしまうのです。

案外、人は人をよく見ているものです。

なんでもかんでも「共有」、「シェア」

最近、「共有」、「シェア」といった言葉をよく聞きます。Facebook に投稿することを「シェアする」というのは象徴的です。

確かに「分け合う」という言葉には美しい響きがあります。乏しい資源、例えばおにぎりが一個しかないのを、自分もお腹が減っているのに他人と分かち合うというのはある意味理想でしょう。

ただ、どうにも釈然としない使われ方をしているのを見かけることもあります。

古い記事で、しかも重箱の隅を突くような話で恐縮ですが、例えば毎日新聞の「勝間和代のクロストーク」の一文。

ご自身のお子さんがいじめに遭い、学校には弁護士まで立てられて逃げられ、かえって追い詰められたという体験談を共有させていただき、私たちに現場での現実と、対応の必要性を強く再認識させてくれました。

言いたいことは分かるのですが、体験談を聞いただけで体験はしていないのですから、「共有させていただき」はないでしょう。「話を聞かせていただき」などとすべきです。

このように考えると、冒頭のFacebookの「シェアする」もやっぱり変ですね。「今日、これこれこういうことがあった」と投稿する、言い換えれば自分の体験したことを文章にして表現する行為は、やはり「シェア」ではないと思います。

なぜならば、他の人は投稿を読んで「へー、そんなことがあったんだ」と理解することはできても、同じ体験をすることはできないからです。

なんでもかんでも「共有」、「シェア」というのも考え物です。

最近の若い者はダメか

「最近の若い者は」と嘆いてみせると、たいてい「その台詞が出るのは歳を取った証拠」、「ピラミッドの内部にも同じことが書かれている」といった反応が返ってきます。

なるほど、年寄りが若者の言動に馴染みがたいものを感じるのは古今東西同じということなのでしょう。

しかし、「だから、嘆いてみても仕方が無い」という結論に至るのは論理的にも正しくないし、社会を良くするわけでもありません。

むしろ、最近の年寄りの「物わかりの良さ」が却って若者を軟弱にしているように思えてなりません。冒頭に書いたように「ピラミッドの内部にも……」などという台詞が出ること自体、「物わかりの良い大人」に見られたいという下心がある証拠です。

年寄りはもっともっと若者を押さえつけるべきです。そうすればこそ、若者はそれをはねのける強さを持つはずです。

そういう意味では、ニワトリが先か卵が先かで言えば、ニワトリが先です。つまりダメなのは最近の年寄りの方だと言えます。

ところで、私の身の回りではダメどころか感心な若者が多く、「俺があのくらいの歳のころはもっとフラフラしてたけど、最近の子はずいぶんしっかりしてるな」と思うこともしばしばです。

まあ、これについては若者がしっかりしているのではなくて、しっかりした若者が世の中に出てくるというだけでしょうね。

つまり、ダメな若者はニートかなにかになって家で母親に悪態をついているのでしょう。しかし、社会からは彼らの姿は見えません。なので、目に映るのは感心な若者ばかりになるという寸法です。

例えば幕末。旧体制は簡単に新しい世代に政権を明け渡したでしょうか。否、明治維新は激越なる闘争の末に成ったのです。当時の若者は、自分たちが生まれる前から存在していた鉄の檻、幕藩体制を打ち砕いて新しい世の中を作ったのです。

今日、我が国は幕末に劣らず停滞しています。

若者には、下手に空気を読んだり、塩分を控えたりせず、もっと血の気を多くして社会を変革していって欲しいものです。

英語のChoiceは自由意思で行う選択を言う

Ruby1.8.7 から 1.9.0 までの Array には choice というメソッドがありました。

fruits = ["banana", "apple", "orange"]
puts fruits.choice

と書くと、いずれかの要素をランダムに選んでくれるというものです。

これが、1.9.1 以降は sample という名前に変わり、また、引数を取るようになりました。例えば2を与えると、[“banana”, “apple”] だとか[“orange”, “banana”] のように二つの要素を含む配列を返します。

メソッドの名前を変えたのは、複数の抽出に対応したからというのが第一の理由でしょうが、 choice が英語的に正確でないというのもあるでしょう。

choice とは自分の自由意思で行う選択です。どれかを無作為に抽出するのであれば、やはり sample が適切でしょう。

Ruby を開発したまつもとゆきひろ氏は海外の開発者との連絡や面談も多いでしょうし、なにしろ頭の良い人ですから、普通の人よりは英語に堪能なはずです。

それでも、英語を母国語としない人にとって細かいニュアンスは掴みづらいものです。それがまつもと氏その人かどうかは分かりませんが、Ruby の Array に choice を加えたのもたぶん日本人に違いありません。

いっそのこと、日本語によるプログラミング言語を作ってしまえば良いとも思いますが、やはり難しいのでしょうか。

「餃子の王将」と「大阪王将」の違い

B級グルメの話が続きます。

「餃子の王将」は割と好きで良く行きます。正直に言えば、特別美味しいわけではなく、値段も意外に高いです。しかし、さすがに看板メニューだけあって餃子の完成度は高く、毎回期待通りの味で全くブレがないのには感心します。

一方、「大阪王将」の方は長いこと縁がなかったのですが、先日ついに入ってみました。

頼んだのは「天津飯」と「焼き餃子」。私の貧しい舌からすれば、どちらも「餃子の王将」と非常に近い味でした。

唯一、決定的に違ったのはタレに関するポリシーです。

「餃子の王将」では「餃子のタレ」という容器が一つ(と好みによって辣油)置かれているだけですが、「大阪王将」では「酢」と「醤油が分かれており、客が自由に混合比を決定できるのです。

餃子のタレは酢3に醤油7に限るとか、いや酢7で醤油3だとか、人によって好みがかなり違います。ちなみに私は酢9醤油1です。辣油も入れない人もいれば、目一杯入れる人もいるでしょう。

これは実に訴求力の高いサービスであると言えます。

「大阪王将」の創業者は、現在「餃子の王将」を運営する「王将フードサービス」の創業者と親類で、店舗の名称も最初は「餃子の王将」だったそうです。その後、商号を巡って訴訟となり、「餃子の王将」は「王将フードサービス」だけが使えるということになり、「大阪王将」に変更したという経緯があります。ややこしいですね。

なんにせよ、酢と醤油を好きな比率にできるというのは気に入りました。今後は「大阪王将」を贔屓にしようかと思っています。

鉄がくっつくわけでもないのになぜ「磁器」というのか

殆どの日本人にとって中国語の会話は全く分かりませんが、文章は漢字で書かれるだけに何となく理解できたりします。特に古文は日本でもなじみ深いものが多くあります。

少年易老学難成

「少年老い易く学成り難し」と読み下すことは中学生でも知っています。ちなみに日本に於ける「音読み」は漢字が輸入された当時の中国語の発音を示しており、「少年易老学難成」は「ショウネンイロウガクナンセイ」に近い発音だったようです。

「国破れて山河あり」とか「春眠暁を覚えず」もそうですね。学校で教わる「漢文」は中国語の古典にあたります。

けれども、現在の中国語は独自の発展を遂げており、容易に理解できません。「手紙」はトイレットペーパーのことだし、酒店は酒屋でなくてホテルのことです。打字机(タイプライター)は発音を誤ると打自己(わたしをぶって)になってしまいます。

最近興味深いと思ったのは、日本語では「磁器」というところを、中国語では「瓷器」ということです。

瓷器

「磁」といえば真っ先に思い浮かぶのは「磁石」であり、鉄を引きつける鉱物です。磁器にはそのような性質はないのになぜ日本では磁の字が使われるのか。一説には中国の河北省磁県から多く産するためとも言いますが、必ずしも明らかではありません。

その点、瓷は見慣れない字ではありますが、次の瓦、かわらけのネクストバージョンという感じでイメージとしてはぴったりですね。

一生牛丼マン

安上がりな人間なもので、B級、いやC級グルメに舌鼓を打つ毎日です。先日、コンビニのおでんに感動している話をしましたが、今日は、すき家でメガ牛丼とお新香+豚汁セットを食べました。

牛丼は頼んだらあっという間に出てくるのが良いですね。

ところが、牛丼屋で680円以上使う人は出世しないという話です。ああ、どうりで……。

でも、メガ牛丼、これでもかと肉が入っていて、ベネフィット・コスト・レシオは良好なように思います。しまいにはちょっと飽きてくるのが難点と言えば難点でしょうか。

ただ、今日行った店舗は、入り口で自動的に「いらっしゃいませ」と音声が再生され、帰りにも「ありがとうございました」と再生されました。あれはちょっと感心しませんね。なんとも無機質な感じで、まるでジョージ・オーウェルの小説のようです。

入店すると店員が一斉に「いらっしゃいませ!!」と言うのも少しわざとらしいですが、機械に言われるのに比べたらなんぼかマシです。

今の時代、牛丼屋に肉声で「いらっしゃいませ」と言って欲しいというのは贅沢なのでしょうか。

スタンピード!

1995年のアメリカ映画「ジュマンジ」。街中をゾウやサイやキリンなどの大型の動物が暴走するシーンが印象的でした。

あれのことを作中の人物は”stampede !”と言っていました。スタンピード。あまり耳慣れない言葉です。「アメリカン・ヘリテイジ英英辞典 第3版」には

A sudden frenzied rush of panic-stricken animals.

とあります。「恐怖に突き動かされた動物たちの、突然の熱狂的な暴走」ですね。

なぜこの言葉が耳慣れず、また、一言で日本語に置き換えることができないかというと、日本ではスタンピードがまず起きないからです。

一方、開拓時代の南北アメリカ大陸ではバッファローなどのスタンピードがしばしば起きており、現在でも危険な現象として認知されています。一旦あの状態になると、その先にあるものをみな踏みつぶしていきますからね。

stampede
CC BY 2.0 (c) Jay Aremac

ちなみに、”stampede”はスペイン語(estampida)由来ですが、スペイン語はスペイン語でも、メキシコ・スペイン語です。estampidaは爆発などを意味します。アメリカ大陸に来て初めてあの夥しい数の動物の暴走を見たスペイン人は、あれを爆発と表現したのでしょう。

スタンピードを表す日本語はないと言いましたが、漢字ならあります。

日本では「ひしめく」と訓じますが、音読みは「ホン」で「奔」と同義です。

中国大陸でもしばしばスタンピードは起きており、彼らはそれを「犇」という漢字で表したわけですね。

チンタラした車にクラクションを鳴らす? 鳴らさない?

先日車で大分に行きました。途中、赤信号で直進可の矢印が出る信号があり、先頭で止まっていた私はボケーッとしていて矢印が出ているのに発進しませんでした。

初めての道だったことに加え、右折可や左折可、あるいは左折+直進可の矢印はよくあるけど、直進のみ可は珍しいですからね。普通の青信号とどう違うんでしょうね。

で、数秒後に慌てて発進して思ったのが「あれ、クラクション鳴らされなかった?」ということです。普通だったら絶対鳴らされるタイミングだったのに。

バックミラーをチラ見すると、スーツにネクタイのサラリーマン風の人でした。

やはりサラリーマンや公務員は敢えてクラクションを鳴らさない人が多いのだろうと思います。思わぬことがトラブルの引き金になるもので、現にクラクションがきっかけの殺人事件も起きています。

うっかり鳴らして、相手がヤクザだったら……。あるいは、会社の上司や取引先の偉い人だったら……。近所の人とケンカになるのも面倒です。一歩間違えば、何十年もの住宅ローンで買った夢のマイホームが一転して苦痛きわまりない場所になります。

そういうわけで、会社や役所など、組織の中で生きる人はクラクション一つ鳴らすのもためらいがちです。

その点、賃貸アパートに住むフリーターなどは気楽なもので、ムカつくことがあればさっさと仕事を変えたり引っ越したりすれば良いわけです。

ややもすると、だからフリーターは我慢を知らぬ、マナーが悪い、という偏見にも繋がりますが。

もちろん、実際には労働環境よりも個人の性格によるところが大きいでしょうけどね。公務員でも鳴らす人は鳴らしますから。