やっぱり努力は必要

ずいぶん久しぶりの更新です。

最近、中野信子さんの「 努力不要論」を読みました。副題には「脳科学が解く!「がんばってるのに報われない」と思ったら読む本」とあります。私の信念とは真っ向から異なるので、いったいどのような内容なのか興味がわきました。

読み終わってみると、結局のところ「無駄な努力」や「他人に押し付けられた努力」はやめようということのようです。言い換えれば「自ら望んでする合理的な努力」はどんどんやるべきとのことです。刺激的なタイトルの割には穏当な主張ですね。

さて、同書の中でも引用されていましたが、今から10年前、爲末大さんの以下のようなツイートが話題になったことがあります。

なるほど、「成功者」の定義がオリンピックでメダルを獲得するレベルのアスリートということなら、爲末さんの言うとおりでしょう。しかし、私の考える成功とは必ずしもそういうことに限りません。

部活でレギュラーになる。市民マラソンに参加して完走する。資格試験に合格する。好きな人と結婚する。子供を幸せにする。

これらも立派な人生の目標です。何もノーベル賞を受賞したり、オリンピックで金メダルをとることだけが有意義な人生で、それ以外は無意味だとは思いません。

そして、これらを成し遂げるには何ほどか努力が必要なのです。

努力は不要と言う人々

昨今、「努力など不要」あるいはさらに進んで「努力などすべきではない」といった言説が流行ります。

彼ら曰く、「我々凡人がいくら努力してもイチローや大谷のようにはなれない。だから努力など無意味なのだ」と。これについては既に反論しました。確かにそのような大それた目標に対しては努力は殆ど無意味ですが、我々庶民が抱くささやかな夢を叶えるには努力は依然として有効であり、且つ必要です。

また、ブラック企業でこき使われている人などを例に「努力しても報われることはない」と言う人もいます。しかし、努力と忍従は違います。努力とは他人に強制されてやるようなことではないし、不当な扱いを受けているのであればそこから抜け出す(あるいは戦う)努力をすべきです。私に言わせれば、これこそ努力が必要な場面であって、努力不要論の根拠にはなりません。

なぜこれほどまでに努力を嫌う人が多いのでしょうか。

一つには「努力」という言葉の捉え方の違いがあります。ある人は「努力とは苦痛に耐える事」だと思っている。またある人は「努力とは欲しいものを我慢すること」だと思っている。これらも努力の一側面ではありますが、本質ではありません。

もう一つは、『山月記』の李徴のように、努力してなお世間に認められないことを恐れる心理です。努力していないうちは「俺はやればできる」と言っていられたものが、下手に努力してダメだったときは「やってもできない」になってしまう。つまり、自分の無能さを証明することになってしまう。確かに辛いことですが、ちっぽけなプライドを守るために何もしないのは一番やってはいけないことです。

「偽りの努力」をしてしまう人も多くいます。本当にやらなければいけないことを放っておいて、やらなくてもいいことを一生懸命やる。逃避のための努力は本当の努力ではありません。

努力とは

私は、努力とは「理想を叶えるための合理的な行動」であると思っています。さらに言うと、それは単に目標を達成するために必要なだけでなく、己の矜持を保つために必要なのです。

無論、簡単なことではありません。まず、理想が見つからない。何かおぼろげな理想があったとしてもなかなか形にならないものです。

それでも理想は持つべきだし、それに向かって努力すべきです。なぜなら、それこそが幸福の条件だからです。考えてもみてください、望むものは全て与えられる人生があったとして、それだけで幸福と言えるでしょうか。本人は何の努力もしていない。賢くもない。周囲は腹の中では軽蔑している。そんな裸の王様のような境遇は私なら真っ平です。

やはり人生に努力は必要というのが私の結論です。

「少女革命ウテナ」は人間の解放の物語だった

たくさんアニメを見てきたつもりでしたが、この作品は未見でした。先日ニコニコ動画で無料配信をやっていたので軽い気持ちで見始めたところ、どハマりしてしまい、全39話を2周(!)しました。

決して短くないストーリーを2回も追いかけたのは、もちろん気に入ったからということもありますが、1度見ただけでは理解できない部分があったからです。以下は感想と私なりの解釈です。(20年も前の作品なので必要ないかもしれませんが一応書いておきます。ネタバレ注意!

大人向け

まず思ったのは、これは完全に大人向けの作品だということです。かわいいお猿のチュチュや一昔前の少年漫画では定番だった決闘など、一見すると幼稚とも思えますが、だまされてはいけません。回を重ねるごとに重いテーマが明らかになっていきます。

映像は少女漫画的であり耽美的です。好きな人には堪えられないでしょうし、そうでない人も見ているうちにすぐ慣れると思います。ちなみに私は前者です。

嘘だッ!!

最初に衝撃を受けたのはアンシーが微笑しながら「薔薇の花嫁でいられて幸せです」と言うシーンです。つい先日は「薔薇の花嫁なんて本当は嫌です」と言っていたにもかかわらず……。

このときウテナが「嘘だッ!!」と叫ぶところはアニメ史上屈指の名シーンですね。

なぜ衝撃なのかは見た人には言うまでもないことなので書きません。未見の方はぜひご覧になって確かめて下さい。

思った以上に性的

アンシーの兄である鳳暁生(養子に入っているので名字が違う)が登場すると、物語がドロドロしてきます。嫉妬や裏切り。歪んだ愛。極めつけは暁生とアンシーの怪しい関係です。色々な意味で衝撃的な作品ですね。

さらには少女が大人の男と一夜をともにする場面まであります。今では不可能な描写でしょうし、あまりに扇情的で賛否の分かれるところですが、私は最終回まで見た上で、ここは必要なシーンだったと思いました。

なお、男二人がなぜかベッドの上で半裸になってエロいポーズをとったりもしますが、これは男性同性愛の暗示ではなくナルシシズムの現れのようで、性的というよりはちょっと滑稽です。

女性の象徴

さて、心を殺して決闘の勝利者に従うアンシーはこの世の女性の象徴です。「結局、女の子はみな薔薇の花嫁のようなものですから」という彼女の台詞からもそれは明らかです。一方、ウテナや樹璃は生物学的には女性ですがデュエリストという役割上は男性と見なされています。

男同士が序列を伴う集団(ホモソーシャル)を形成し、互いに競い合って獲得した女(トロフィーワイフ)によって各々の位置を確認するといったことは、様々な時代及び地域においてしばしば見られる現象です。そこでは女は単なるモノとして扱われています。

男だけが悪いのではありません。「玉の輿に乗る」という俗諺があるように、女は女で地位の高い男に獲得してもらうことを望んで自らをトロフィーとしてしまったりもします。愛情は二の次で。

「革命」の意味

最も強く賢い男(=王子様)が最も美しく貞淑な女(=お姫様)を獲得する。この一見無害で夢があるとさえ思える寓話は、しかし、このように女の子たちにとって呪いでもあるわけです。

物語の前半では、ウテナは戦いに参加し勝利者となることでアンシーを救ったつもりになっていましたが、本当に救うには女をトロフィー扱いするシステム自体を破壊しなければならなかったのです。これが「革命」の意味です。

囚われているのは女性だけじゃない

この作品が従属を強いられる女性の哀しみを描いているのは確かです。ただ、人をモノ扱いするのは男性に限らないし、玉の輿を狙うのも女性に限りません。そういう意味では男性も含めて多くの人間が棺に囚われていると言えます。

ウテナは男装し、男言葉を使いますが、だから女の子でもこの世の理不尽さに立ち向かえたと考えるのは間違っています。勇気や気高さは男性だけの徳ではないからです。重要なのは他者に従属しないということで、性別は関係ないはずです。救う側が王子様である必要もなければ救われる側がお姫様である必要もありません。

タイトルを「女性の解放」ではなく「人間の解放」とした所以です。

Amazonプライムビデオでも見ることができますので、未見の方はもちろん昔見たけど大方忘れてしまったという人も見直してみてはいかがでしょうか。

日本語の作文技術

実はこうした文章論に類するものを書くことに、私はいささかの躊躇と羞恥をおぼえざるをえない。というのは、私自身が特にすぐれた文章を書いているわけではないし、もちろん「名文家」でもないからだ。

本多勝一「日本語の作文技術」より

当ブログでは、何度か他人の日本語に偉そうにダメ出しをしています(参照)。しかし、では自分の文章に余程の自信があるのかというと全然そんなことはありません。少しでもマシになればと、本多勝一さんの「日本語の作文技術」を読んでみました。



「あなたのメールもレポートもたちまち『名文』になる!」という帯の煽り文句に反して、地味だけどもよく研究された内容です。

例えば、「白い」、「横線の引かれた」、「厚手の」という三つの修飾語がいずれも「紙」という名詞に係っている場合、

白い横線の引かれた厚手の紙

としてしまうと、横線が白いのかと思われてしまうので、

横線が引かれた厚手の白い紙

などとすべき、というような話です。

テンは減らした方が良い

句点を「マル」、読点を「テン」と表記してあるのが印象的です。句点・読点という言葉はイメージしやすいとは言いがたく、私などは「えっと、句点はマルのことだっけ」と一瞬考える必要があります。「マル」、「テン」なら頭にすっと入ってきます。こういう工夫が大事なのでしょう。

で、肝心の句読点の打ち方です。詳しい内容は本を読んで頂くとして、かいつまんで話すと「テンは必要なときにだけ打つべき」なのだそうです。

うれしいです・かなしいです

形容詞の原形に直接「デス」「ダ」を繋げるのは、戦前は間違いとされていました。戦後の国語審議会ではこの用法も許容されるようになりましたが、本書は「軽薄・下品」と断じています。

私の感じ方は少し違って、下品というより「幼稚」ですね。

現在ではむしろ、「うれしゅうございます」「かなしゅうございます」という「正しい」言い方が、「気取った」「バカていねいな」印象を与えることも注意を要すると思います。

このブログでも、ところどころ「うれしいです」「かなしいです」式の言葉を使っていますが、修正の必要は感じません。

著者は左翼

この本は作文の「技術」に的を絞ったものなので、著者個人の思想を云々するのは筋違いかも知れません。しかし、目に余る部分もあります。

戦争犯罪人・岸信介を総理大臣に選んだかなしき日本。

という文には出典がついていないので著者の頭の中から出た文章のはずですが、ここまで酷いといくら例文にすぎないとしても気になってしまって、読み進むのが困難になります。

勝者による戦争裁判自体に大いに疑問がありますが、仮にそれを認めたとしても、岸信介は不起訴になったのであって、戦争犯罪人ではありえません。

まあ、例文はあくまで例文なので気にしなければ良いのですが。

技術を学ぶには良い

「うれしいです」式の言葉を「サボリ敬語」と呼ぶ著者は、しかし、「共通語(いわゆる標準語)として一方的に決められた『東京・山の手』の言葉は、徳川家の出身地の三河系の言葉が江戸時代に武士社会で有閑階級的発達をとげたもので、下町の庶民はあんな生活の匂いのない言葉など使ってはいなかった。その意味では、サボリ敬語はむしろ喜ばしい傾向なのだろうか」とも述べています。

「日本語の乱れ」を嘆くオジサンとしての彼と、「完全なる平等」を目指す以上その論理的帰結として敬語はいずれ廃止するほかないと考える左翼としての彼とがせめぎ合っているようで興味深く感じます。

左翼的なのも道理で、著者は元朝日新聞編集委員(当然その前はヒラの記者を経験したはず)です。私がこの本をあまり好きになれない理由もそれなら、書いてあることに信頼を置く理由もそれです。思想的には相容れませんが、新聞編集の現場で揉まれてきた「技術」は伊達ではないと思うからです。

サヨク、サヨクと書きましたが、例文等からなんとなくそう感じられるというだけで、思想を押しつけるような内容ではありません。文章技術に関しては実に勉強になる本です。

古代の亡国と現代日本

塩野七生さんの「ローマ人の物語」を読んでいます。ベストセラーですから、いまさらここで多くを語る必要もないと思いますが、二つばかり書いておきたいことがあります。


1. 不合理な行為が合理性を持つことがある

本書によれば、古代、デルフォイの神託はギリシャだけではなく地中海世界全体に意味を持っていたそうです。例えば共和制ローマは神託を得るためにたびたびアテネへ使いを送っています。

デルフォイの神殿には、地中海世界では最も効きめがあるといわれていた神託を乞うために、民族を問わず四方八方から人々が訪れるのが常だった。

神託に頼ることは無論不合理です。

しかし、ここからは私の推測ですが、実は神託所に集まる各国の人々との交流によって情報収集をしていた、というのが実態に近いでしょう。

私たちは常々「人は合理的に行動しなければならない」と頭から信じ込んでいます。しかし、一見不合理な行為が、合理性を持つことがあるのです。

2. ターラントの運命から学ぶべきこと

イタリア半島を長靴の形に見立てると、ターラントはかかとの付け根に位置しています。この都市は、スパルタ人による植民を起源としていて、ギリシャ語が使われていました。ただ、軍事国家であったスパルタと違って、商業国家であり、地中海貿易を担って大いに栄えたそうです。彼らには常備軍がなく、戦争をするときは傭兵で済ませていました。

あるとき、嵐を避けて寄港したローマの船をターラントが攻撃したことから紛争となるのですが、ターラントの人々は、豊富な資金にあかせて名将ピュロス王を「傭兵」として雇います。仮にも王様を雇うのですから大したものです。
しかし、ギリシャに由来する高い文化を誇っていたターラントは、当時ようやく勃興しつつあったローマを侮るという致命的なミスを犯します。あるいは、ピュロスを雇うくらいですから侮ってはいなかったのかもしれませんが、長く続いた平和に慣れ、危機感の持てない体質になっていたのでしょう。要するに平和ボケです。どこかの国にそっくりです。

ターラントに到着したピュロスは、国家存亡の危機にあるはずのターラントの人々が、相変わらず劇場や運動場に出かけて遊んでいるのを見て愕然としたと言います。あのローマが攻めてくるというのに、です。
しかも、ターラントが約束した35万の兵は影も形もなく、ピュロスは手勢のみで戦わざるを得ませんでした。トラスト・ミーなどとほざいていた某元首相を彷彿とさせる話です。

その後のターラントの運命はご想像の通りです。

平和を願うだけでは平和は保たれない、という良い教訓です。我々日本人も、この際よく考えてみるべきではないでしょうか。

塩野さんの筆致は簡明平易でありながら美しく、ぐいぐい読ませる力があります。
確かに、古代ローマの有りようは、そのまま手本にできるものではありません。奴隷制に立脚している上に、極めて侵略的だからです。
しかし、彼らの合理的で開放的な精神、意志の強さ、そしてそれによって築かれた大帝国の興亡の歴史からは、学ぶべきことが実に多いように思われます。
全一五巻にもなる大部(文庫版は四三巻)ですが、お薦めの本です。

ウェブ炎上 ネット群衆の暴走と可能性

荻上チキ氏の『ウェブ炎上 ネット群衆の暴走と可能性』を読みました。

全般的に鋭い洞察に満ちており、心理学の知識と方法論を駆使した考察は瞠目に値します。

が、いくつか引っかかるところもありました。

例えば、「分かりやすさ」へのカスケード(128ページ)。
ここでは、2004年に起きたイラク日本人人質事件に関する大衆のネット上での行動について考察されています。
著者は「日本人はイラクの人たちにそれほど嫌われてないはず」という思い込みが現実の人質事件によって覆されたため、認知的不協和が生まれ、それを解消しようとする心理から、人質バッシングが起きた、と指摘します。
つまり、日本人が狙われたという恐怖に向き合うよりも、あの3人がバカだったから拉致されたのだ、と考えたがる人が多かった、と。(ただし、実際にこのように考えた個人が存在したということではなく、あくまでも大衆の心理を説明するためのモデルとしての話です)

また、非日常的な現実を日常へと組み込んでいくのにもバッシングの方がマジメに考えるよりも簡単だった、「わかりやすかった」とも述べられています。ただ、この非日常云々の部分の歯切れの悪さに特に顕著ですが、この理論には無理があるように思われます。

大衆は身に迫るような恐怖を感じ、それに耐えられずヒステリー的に人質バッシングを起こしたというのなら、一応筋は通ります。

しかし、著者も認めているとおり、私たちはあの人質事件を遠い異国のできごと、現実感に乏しいできごととして受け取っていました。
それゆえに、「三バカ」をバッシングすることで「合理化」する必要はそもそも無かった、あるいは少なかったのではないでしょうか。

「マスゴミだから」「サヨクだから」「朝日新聞の関係者だから」、そして多くの「国民」に迷惑をかけた「非国民だから」救済する必要はなく、殺されて当然。

著者はこのような極端な発言を挙げてバッシングの理不尽さを指弾する一方で、被害者の家族が「(テロリストの要求に応じて)自衛隊をなぜ撤退させないんですか!」と言い放ったことにはまったく触れていません。

また、別の部分では、

それまでは「自由主義史観研究会」(西尾幹二らと共に「新しい歴史教科書をつくる会」を設立した藤岡信勝が設立した団体)や「世界日報」(統一教会系列の新聞)などの、内容的にトンデモなサイトのみが上位に表示されており、

といった記述がありますが、統一教会系はともかく、「自由主義史観研究会」は、仮にその主張に多くの誤りが含まれているとしても「トンデモ」と一言のもとに切って捨てて良いような団体なのでしょうか。

荻上チキ氏はリベラルな考え方の人なのでしょう。この本では思想をあまり表に出さないように気を遣っているように見えますが、それでも、上の「トンデモ」などといった口吻に、その一端が表れているようです。