共謀罪に反対するやつは左巻きなのか

テロ等準備罪、いわゆる共謀罪法案が衆議院を通過し、近く成立する見通しです。

あなたはこの共謀罪に賛成でしょうか、反対でしょうか。それとも特に関心はないでしょうか。中には「取り立てて賛成はしないが、反対!反対!と騒ぐ左巻きの連中にはうんざりする」という人も居るかもしれません。

私自身は若干の危惧を抱いています。

刑法はいくつかの重大な犯罪(殺人、身代金目的拐取、強盗、内乱、外患、私戦、放火、通貨偽造)について、その予備行為を実行行為とする「予備罪」を設けています。新設される共謀罪はこの予備罪の考え方を大幅に拡張するものです。

予備罪にしろ共謀罪にしろ、巷間言われるような「内心を処罰する法律」ではありません。「人殺ししようかな」と思うだけでは決して罪にはならず、「これで人を殺そう」と思って包丁を買ってきて初めて殺人予備罪と言えるのです。

では、濫用の恐れは一切ないのでしょうか。残念ながらそうとは言い切れません。「準備」という概念はどうしても広範にわたるものだし、「包丁は買ってきたが殺人のためではない」と証明するのは困難です。

無論、現実には包丁を買ってきただけで捕まることはあり得ないし、殺人を企図していたと分かる客観的証拠も必要ですから、警察は片っ端からしょっ引けるわけではありません。

共謀罪によって拡張されてもそれは同じです。しかし、一抹の不安は残ります。仮に現在の政権は共謀罪を濫用することはないとしても、未来の政権もそうであるという保証はないのです。右か左かという問題でもありません。将来、人権抑圧的な左翼政権が成立する可能性は皆無ではなく、そのときには共謀罪が弾圧の武器として活用されるに違いないのです。

どうも、「俺は右派(左派)だから原発の再稼働に賛成(反対)」だとか「共謀罪に賛成(反対)」といった風に、それぞれのイシューについて自らの属する(あるいは属したいと考える)陣営をもとに機械的に態度を決める人が少なくないのには愕然とさせられます。さらには「こいつは共謀罪に反対(賛成)している、敵だ!」とばかりに相手を攻撃するのです。

もういい加減にそういった敵・味方思想から脱却すべきです。

なるほど、共謀罪が成立したとしても直ちに恣意的な運用がなされる可能性は低く、冤罪や不当逮捕が続出するわけではないでしょう。むしろ、恐るべきテロ計画を未然に摘発し、世間をして「やはり共謀罪があって良かった」と言わしめるかもしれません。

しかし、だからといって手放しでこの法律を肯定するわけにはいきません。人は皆、正常性バイアスによって「自分が共謀罪で捕まることはない」と思うものだし、公正世界仮説にとらわれがちで、「捕まったからにはテロリストなのだろう」と考えます。

まさにそれゆえに計画段階での摘発には慎重でなければならないのです。


私とてテロリストが野放しになることを望むものではないし、現場の警察官のもどかしさも分かります。しかし、テロを阻止するために必要なことの第一は捜査力の向上であって、警察権力の拡大ではないはずです。

今後、共謀罪がどのように運用されるか、注目していきたいと思います。

妻が50万稼いではいけないのか

少し前に国会で安倍首相が「私が50万、妻が25万(稼ぐと)……」と発言し、賛否両論(多くは否)が巻き起こりました。どうも世間では彼を「苦労の足りぬボンボン」と見ているようで、「総理は50万どころかもっと貰っているだろう」、「25万円も貰えるパートがどこにある」等々、仮定が現実離れしているという批判が多く聞かれました。

しかし、本来この発言は「実質賃金が下がっている」との批判に対して、「景気回復によりパートが増えたことで一時的に平均が下がっているにすぎない」と反論しようとしたものです。

全ての人がフルタイムで働く必要はない

パートが増えても意味がないという人もいますがそうではありません。賃金と仕事の内容が見合えば時給700円でも働きたい人はいるだろうし、割に合わないと思えば働かないまでです。

安倍首相の説明が当を得ていたかは別として、たとえ賃金の低い仕事であっても働き口が増えるのは端的に良いことです。

更に言えば、賃金その他の雇用条件は可能な限り当事者間で自由に決められるようにすべきです。最低賃金の引き上げは、減税と並んで聞こえの良い政策ですが、実際のところ上げれば上げるほど社会的余剰(social surplus)は減ってしまいます。パイが小さくなるのです。

全ての人がフルタイムで働く必要はありません。パートが増えることは選択肢が増えるという意味で社会にとって有益です。

妻が25万は「多すぎる」のか

私が引っかかったのはむしろ「妻が」という部分です。なぜ夫の半分しか稼がない、あるいは稼げないことが当然のように語られ、誰も突っ込まないのでしょう。ポリティカル・コレクトネスに喧しい欧米の指導者ならこう言っていたはずです。

「家族のうち一人が50万円稼ぎ、他の誰かが25万円稼げば……」

別に、このような回りくどい言い方をしろというのではありません。言い切るべきところは言い切った方が良い。ただ、夫が外で働き、妻は家庭を守る、働くにしてもせいぜいパート、というモデルは既に過去のものとなりつつあります。

夫が50万稼ぐなら妻も50万、あるいは妻が100万稼いで夫は何もせず養って貰う(笑)、そういう夫婦があっても良いはずです。

後ろ向き思考の蔓延こそが問題

憂慮すべきは、「主婦がふと思い立って25万円も稼げるはずがない」というシニカルな意見が大勢を占めていたことです。

なるほどそれが現実的にはなかなか難しいということは分かります。しかし、不可能ではないはずです。

どうも、若い人を中心に「ムリムリ、ぜったいムリ」、「どうせ、できるわけない」式の発想が広がっているように思えてなりません。長く続いた不景気の弊害は、国富が流出したことでもなければGNPが伸び悩んでいることでもなく、若者に後ろ向きの思考を植え付けたことかもしれません。

仮にもうしばらく不景気が続くとしても、個人として成功することは常に可能です。若い人には「ムリ」かどうかとりあえずやってみることを勧めます。

若者はむしろ左傾化しており、金儲けは善である

新聞などで若者の右傾化を危惧する記事をよく見かけます。本当なのでしょうか。

まずもって分かりにくいのが、右翼、左翼というカビの生えた言葉です。この言葉は時代によって国によって、また人によって違った使われ方をし、時に全く別の思想が同じ右翼、左翼という括りで語られたりします。

そもそもはフランス革命期の国民議会で王党派や貴族派が議長から見て右の席を、共和派が左の席を占めたことから来ているのはご存じの通りですが、今日の日本の右翼 がフランスの王政復古を望んでいるわけではもちろんないし、左翼もロベスピエールらの恐怖政治を見習いたいわけではないはずです。

ですから、若者が「右傾化(あるいは左傾化)」している、ではなく「保守的(あるいは革新的)」になっていると言った方がより正確と言えるでしょう。

しかし、この分類法も完璧ではありません。

先日話題にした安保関連法制に対していわゆる左翼の人々の多くは反対を表明していますが、その典型的な主張は「現在の個別的自衛権で十分」というもので、逆に言えば自衛のための戦力自体は認めるという人が殆どです。

つまり、彼らは「現状維持」を望んでいます。これは通常の言葉の意味からすれば保守主義と呼ばれる思想です。

一方、いわゆる右翼は解釈によるにしろ憲法を変えようとしており、見方によっては革新思想とも言えます。

右翼を保守的というよりは体制支持的、左翼を革新というよりは体制批判的とする考え方もあります。しかし、日本の「体制」は国民皆保険、国民皆年金といった極めて社会主義的な政策を行っており、中国人の間では「日本人に近寄ると社会主義がうつる」というジョークさえあるほどです。

このように右翼、左翼、あるいは保守、革新は互いに入り組んでいます。

若者に話を戻すと、彼らは自分が社会の歯車として組み込まれることを半ば諦観していますが、しかし、「ブラック企業」が流行語となったことからも分かるように、搾取されることには強い拒否感を示します。資本家を敵視し、労働者に正当な対価を支払うよう強く求めるその発想はむしろ左翼的です。

思うに、このような傾向が現れた原因の一つは教育にあります。

公立であろうと私立であろうと教師は賃金労働者です。彼らは無意識のうちに「決まった給料で暮らすのが正しい生き方」というメッセージを発しており、それが生徒のサラリーマン志向に繋がっています。

さらに困ったことに、彼らは同時に「金儲けは汚いこと」というメッセージも発しています。なぜならば、彼らの中では、決まった給料で満足せず少しでも多く儲けようとすることは卑しいことだからです。

その実態は、江戸時代以来の士農を尊び工商を卑しむ朱子学、マルクス由来の反資本主義、そして金持ちに対するルサンチマンがない交ぜになった「反金儲け思想」です。

私を含めて現在日本の人口の殆どを占める人々が受けてきた戦後教育は、理想としては思想的に中立を目指してきました。それ自体は良いことですが、代わりに見えにくい形での偏見を植え付けられており、その一つが反金儲け思想というわけです。

実際のところ汚い手段で金を儲ける人はたくさんいます。しかし、ルールを守る限り、金儲け自体は何も悪くないはずです。それどころか、個人の尊厳に最高の価値を置く現代の民主主義では、利潤の追求は欠くべからざる人権なのです。

労働に対して正当な対価を求めるのは結構なことです。しかし、資本家=金の亡者=悪というステロタイプは間違っています。天然資源に乏しい我が国が、今後取り得る有力な選択肢の一つが金融立国です。「金儲けは卑しい」などという時代遅れで差別的な思想は早く克服しなければなりません。

問題は総理の人格ではない

安保関連法制に抗議する女子学生のスピーチに対して、武蔵大の北村紗衣氏が「保守的・伝統的な性役割に基づいた家族モデルへのノスタルジーだと思った」と批判したことが物議を醸しています。

元のスピーチの批判された部分は以下の通り。

「家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せを、ベビーカーに乗っている赤ちゃんが、私を見て、まだ歯の生え ない口を開いて笑ってくれる幸せを、仕送りしてくれたお祖母ちゃんに『ありがとう』と電話して伝える幸せを、好きな人に教えてもらった音楽を帰りの電車の 中で聞く幸せを、私はこういう小さな幸せを『平和』と呼ぶし、こういう毎日を守りたいんです。」

私は全体としてはこのスピーチを支持しませんが、批判は的外れであると考えます。なるほど、「ご飯を作って待っているお母さん」というフレーズからは保守的・伝統的な家族像が思い浮かびますが、他の部分を読めば、この人にとっての平和のイメージの一例に過ぎないことが分かります。

togetter のコメント欄にそのように書いたところ、九州大学法学部准教授の大賀哲氏からメンションを貰いました。

保守的家族観の是非についても私は別の考えを持っていますが、当の女子学生はそれを是とするわけではないでしょう。彼女に対して、自己の発言がどういう人達にどのように利用されるか見通した上で喋れと求めるのは、不可能を強いるのに近いと言えます。

最後に、なぜスピーチを全体としては支持しないか。

それは、問題を安倍総理の人格に帰しているからです。政治的発言にはしばしば見られることですが、「こいつは傲慢で卑劣で血に飢えたファシストである。だから……」という論理で語ってしまっています。

大切なのは安倍総理の人格ではなく、法律の中身であるはずです。具体的にどの法律の何条がどのような理由で危険なのか。我々の安全を増すのか減じるのか。そこを論じるべきです。

総理の人間性は重要ではありません。

選挙カーの騒音は選挙への関心を妨げる

毎度ながら選挙への関心が薄い

第18回統一地方選挙の投票日(12日と26日、地方による)が近づいています。しかし、毎度のことながら市民の選挙への関心は希薄で、周囲でもあまり話題になっていません。

今回のような地方選のみならず、国政でも近年、投票率が低迷しています。投票率が低いことの原因としてよく言われるのが、「日本の政治がお粗末だから」ということです。確かに一部の政治家のふるまいは政治への失望を与えるに十分ですが、「だから投票に行く気が起きない」というのはおかしな話です。

お粗末な政治家が多いなら、なおのことまともな人を選ぼうとして、政治への関心がむしろ向上する可能性だってあります。

現状がそうなっていないのは、日本の官僚がある程度有能で、誰が議員であっても国家をうまく運営できてきたからでしょう。少なくとも、これまでのところは。

ですが、とりあえず大丈夫だから、と国民が政治に無関心で居続けると、将来、「これはいけない」と思ったときには手遅れ、ということになります。民主主義は制度であるとともに多分に文化であって、一朝一夕には成り立ちません。

民主主義の伝統を守り育てるためにも投票率を高く保つことは必要です。

選挙カーの騒音が、選挙=迷惑というイメージを作る

では、投票率が低迷するのはなぜなのか。私の考えるに選挙カーがうるさいのが最大の原因です。

「どうか〇〇をよろしくお願いいたします! 〇〇、〇〇、〇〇でございます!!」

……とヒステリックな声で候補者の名前を連呼するのが典型的なフォーマットです。これではその候補者がどういう考えを持っているか、どういった政策を行おうとしているのか、さっぱりわかりません。

単にうるさいだけです。

それどころか、「ああ、また選挙か。イヤだなあ」と、選挙制度へのネガティブなイメージだけが広がります。

これからの選挙運動はインターネットで

選挙には規制が数多くあり、選挙カーが名前を連呼するのも、法律で「走りながら演説をしてはいけない」と決められているからです。

また、戸別訪問は原則として禁止されています。「こっそりワイロを渡したりするかもしれない」からです。まあ、家に来られるのも選挙カーのうるささとは別のベクトルで迷惑なので、強いて解禁すべきとは思いませんが。

今後一番有望な選挙運動の方法は、やはりインターネットを用いたものでしょう。既に公選法が改正され、何人も「ウェブサイト等を利用する方法」による選挙運動ができるようになっています。

選挙期間中に限らず、これからの時代、政治活動の場は自ずと街頭からネットへと移っていくはずであり、またそうあるべきです。ネットを利用しない、あるいは利用できない人達の政治参加が阻害されるという批判もありますが、これだけネット利用のコストが下がった現在では、あまり心配する必要はないでしょう。

ともかく、あの、うるさい、選挙カーによる名前連呼だけは早く無くなって欲しいものです。

「なぜ選挙?」などと、どの口が言うのか

投票に行ってきました。

今回の選挙では思うことがあります。それは先月、安倍総理が解散の意思を述べたとき、野党の一部から「なぜ解散するのか」との非難があったことです。特に民主党は麻生内閣の末期、総理に向かって「解散しろ! 解散しろ!」と連呼しておきながら、同じ口で今回の解散はまるで政治的暴挙であるかのように言っています。

今選挙をされると自分たちが議席を失う、というのは分かります。自民党の議員でさえ、本音は何もしなければ当分議員でいられるのだから危険を冒して解散などしないで欲しいと思っていることでしょう。それに消費税増税先送りという「飴」を与えた後に解散した安倍総理もずるいと言えばずるい。しかし、そういった党利党略、私利私略をいったん腹に収め、万歳と叫んで解散するのが我が国の美風ではなかったのでしょうか。

大学生が小学4年生を騙って「どうして解散するんですか?」なるサイトを作っていたという「事件」もありました。私はこのこと自体はさして悪いとは思っていません。まあ、経歴詐称の一種ですが、目くじらを立てるほどではないでしょう。

問題はこの大学生のみならず、学者、評論家、大手新聞の社説などまで「なぜ解散するのか」と、まるでそれが嘆かわしいことであるかのように書いていたことです。一体、民意が問われることになぜ反対なのか。理解に苦しみます。

結局、彼らは有権者を、ひいては民主主義を信じていないのでしょう。

先に述べたように一部の党にとって議席を失う恐れが高いわけですから、それらの党の支持者が「なんとかせねば」と思うのは当然ですが、そのなんとかが「選挙には金がかかる」といった批判でしかないとは情けない限りです。確かに、選挙にはお金がかかります。しかし、それは民主主義のコストであって、我々が甘んじて受けねばならないものです。

憲法学上、衆議院の解散は首相の不信任決議が可決されたときに限るとする69条説と、首相が必要と思うときに解散できるとする7条説(69条非限定説)とがあります。2009年、民主党が麻生総理に「解散しろ!」と迫ったのは7条説に立っていたと考えられます。それなのに、今度は「自分たちの都合が悪いから解散するな」とは、一貫性のかけらもありません。議席を失うのは自分たちが至らなかったからだと虚心坦懐に受け止め、どうすれば民意を得られるか真剣に考えて欲しいものです。

護憲派と改憲派に言いたいこと

物事を全か無かでしか考えられない人がいます。彼の考えに何か一つでも不同意だと、ウヨクだとかアカだとか勝手に決めつけられてしまう。誰しもそんな人の一人か二人は心当たりがあるはずです。

先日、「誇るべきは憲法9条ではなく21条」と書きました。

これは実は少々危険なことで、「憲法9条の価値を認めないのですか! あなたは日本が戦争をしても良いと言うのですか!」とヒステリックに詰め寄られる恐れがあります。

逆の立場から、「何条だか知らないが、米国から押しつけられた憲法を誇るだと? 貴様、サヨクだな!」とよく読まずに批判する人もいるでしょう。

どちらも思想は逆ですが同じタイプです。全く困った人達です。

護憲派に言いたいのは、憲法とは言え金科玉条ではないということです。憲法自身がその手続きを定めている通り、改正は可能です。「改正すべきではない」というのは一つの意見ですが、絶対ではありません。

改憲派にも言いたいことがあります。「押しつけ憲法」だから変えるべきというのは不合理な考え方です。どんな法も、「みんなで話し合って全員合意した上で成立」というわけにはいかないのです。どこかの誰かが起草したものを受け入れるか、受け入れないかしか選択肢はありません。

無論、草案の作成に国民の声が反映しているに越したことはなく、現在の日本国憲法がそうでなかったのは残念なことです。しかし、だからといって無効だとか廃棄すべきだというのは暴論というものです。

現憲法は我が国初の20歳以上の男女による衆議院選挙で選ばれた代表者達によって圧倒的多数で可決されているのです。

私は、現憲法を民主的な方法で定められた最高法規であると認め、尊重します。

ヘイトスピーチ(3)不快だからと禁じて良いものではない

個人の自由を制限するときに持ち出される根拠には、大きく分けて3つあります。

危害原理

「何でも自由にやって良い、ただし、他人に危害を加えない限りは」というのが危害原理です。社会はこの原理で成り立っていると言っても過言ではありません。これに異論を唱える人はまずいないでしょう。

不快原理

危害とまでは言えなくても、他人を不快にさせるなら、そのような行為(ないし不作為)は禁じて良いという考え方です。

「なるほど、他人に迷惑をかけちゃいけないよね」と、うっかり同意しそうになってしまいますが、よく考えてみて下さい。快・不快なんて極めて主観的なものです。ある人には、あなたの鼻の形がどうにも不快かもしれない。だから常に目出し帽を被っていろと言われて納得できますか?

不快原理はかなり胡散臭い理屈と言えます。

パターナリスティックな制約

これは誰にも迷惑をかけないのだけど、まあ止めておいた方がよかろうという行為です。麻薬の使用などがこれにあたります。麻薬中毒者は人に迷惑かけるだろうという気もしますが、とりあえず、仮に迷惑をかけないとしても麻薬の使用は自由権の埒外である、と考えて下さい。

さて、ヘイトスピーチです。

表現の自由に対してパターナリスティックな制約をかけるのが許されないのは論じるまでもありません。問題は危害原理、ないし不快原理を適用できるかです。

ヘイトスピーチを禁止しろと言っている人達は、要は不快原理を適用しろと言っているのです。不快な言論だから禁止しろと。

果たしてそれで良いのでしょうか。

何を以てヘイトスピーチとするかが曖昧な上、禁止の根拠も薄弱。それでいながら、自由権の中でも最も優越的な地位を占める表現の自由を制限して良いとなぜ言えるのか。

いや、ヘイトスピーチは単に不快なだけでなく、もはや危害と言えるのだという人もいるでしょう。しかし、危害と言えるならば、即ち他人の具体的権利を侵害しているならば、現状でも信用毀損罪や業務妨害罪によって罰することができます。何も言論の自由を狭める危険を冒してまで「ヘイトスピーチ罪」を新設する必要はありません。

ただでさえ、言論の自由はデリケートで失われやすいのです。刑罰を以てヘイトスピーチを禁じることには断固反対します。

ヘイトスピーチ(2)レッテルとしてのヘイトスピーチ

産経新聞の系列の iRONNA に、意外にも在日コリアンのライター(安宿緑氏)が書いた記事が載っています。「在日外国人はエセ反差別提唱者とは距離を置くべきである」と題し、いわゆる「しばき隊」が単に暴力的であるだけでなく、彼らこそレイシストであると喝破した記事です。

そして朝鮮学校および在日コリアン社会でも当然ながら、イジメや差別主義者は存在します。
そんな中「いやいや、あんたも日本人差別してるだろ」と思う場面もありましたし、

このような文章から、このライターができるだけ理性的であろうとする人だということが分かります。

しかし、この人をしても、

試しに在特会側の主張を静聴しますと、一理ある部分もありますが大筋はトンデモ感溢れるもので、ここに差別感情が加味されて手に負えないのがわかります。

と、なってしまうのです。在特会の主張はトンデモの一語で片付けられており、どこがどうトンデモナイのかは述べられていません。

ことほどさように、人は自分と異なる意見に耳を傾けようとしないものなのです。

安宿緑氏はまた、

さらに「カウンターデモ」の指導者からは直接、ネット上で「サブカルライター」「箱庭で生きているのか」などという聞き捨てならない発言を受けたのです。

と書いています。恐らくは理性的な態度が「カウンターデモ」の指導者の目には日和見主義に映り、非難されたのでしょう。

この場合「サブカル」が一つのレッテルですが、「レイシスト」「ヘイトスピーチ」はさらに強烈なレッテルです。異なる立場の人々に「漢奸」、「非国民」、「ファシスト」などと汚名を着せ、社会的に抹殺しようとする連中はいつの世にもいます。

在特会の主張に多くの誤謬が含まれているならそれを一つ一つ指摘するべきだし、聞くに堪えない差別的言辞があるならば、それは差別だと言うべきです。

確かに鬱陶しいでしょう。面倒くさいでしょう。しかし、だからと言って、「ヘイトスピーチ」などというレッテルをこしらえて、とにかく黙らせろというのは横着のしすぎというものです。

ヘイトスピーチ(1)ドイツには学ぶな

憎悪を煽る表現、ヘイトスピーチについて論じるには、まず表現の自由について考える必要があります。

我が国では、表現の自由は憲法21条によって保障されています。

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

表現の自由は民主主義の前提です。言いたいことが言えなければ、話し合いはできません。この立場を徹底すれば、ヘイトスピーチであれなんであれ、それが言論に留まる限り全て保障されるべきであって、規制はすべきではない、ということになります。

これとは異なる考え方の国もあります。例えば、ドイツでは民族的憎悪を煽る言辞は刑法で禁じられています。つまり、「一切の表現の自由」が認められているわけではありません。

ホロコーストに対する深刻な反省からとはいえ、いやしくも言論に対して制限をかけるのは本来であればおかしなことです。

ドイツに於ける言論の自由の不徹底さに比べて、日本のそれは一切のタブーを認めぬ、より進んだものと言えます。こと言論の自由に関する限り、我々はドイツより先を行っているのです。真に誇るべきは憲法9条ではなく、21条です。

なぜ、ドイツのような遅れた国に学ぶ必要があるのでしょう?

そうは言っても、誇大広告だとかわいせつ表現だとか他人の名誉を毀損する表現などは現に規制されているではないか、と思われるかもしれません。

その通りです。表現の自由といっても無制限に認められるわけではなく、他者の権利を侵害することは許されません。(ただし、わいせつ物頒布等の罪については誰の権利を侵害しているのか分かりにくいということは言えるでしょう。この罪は「善良の風俗を維持するため」にあるとされています)

だからこそ、ヘイトスピーチの規制は不要、否、あってはならないのです。

実際、ヘイトスピーチを行うとされる「在特会」のメンバーが、威力業務妨害で何度も検挙されています。このように既存の法律の枠内でもヘイトスピーチを抑制することは可能です。