続・言うを「ゆう」と書いて何が悪い

昔書いた記事に、いささか辛辣なコメントがついたので、再び取り上げてみます。

なぜ言うを「いう」と書くのか

現代仮名遣いでは表音主義を原則としています。ただ、助詞についてのみ、歴史的仮名遣いと同じように綴ります。

これは、表音主義を徹底すると

わたしわ、あなたお

のように、歴史的仮名遣いに慣れている者にとって異様な字面になってしまうためです。つまり、妥協の産物です。

では、助詞でもなんでもない「言う」は、なぜ発音通り「ゆう」ではなく「いう」なのでしょうか。例えば「優」は、歴史的には「いう」と書かれていましたが、現代では発音通り「ゆう」と書かれます。それなのに「言う」に限って「いう」なのはなぜか。

これも、文章の中で比較的発現率の高い「いふ」が、いきなり「ゆう」になったら異様な感じがするからです。このように、「言う」を「いう」と表記するのは専ら歴史的経緯に依るもので、論理的必然性はありません。

しかしながら、「『ゆう』と書くのは許せない!」と憤る人たちが間違っているというわけでもありません。どうあれ現代仮名遣いでは「いう」と書くと決まっているのですから、「いう」が正しい、このことは確かです。

頭が悪い?

ただ、件のコメントのように、「『言う』を『ゆう』と書く奴は頭が悪い」と断じるのはいかがなものでしょう。

既に述べたとおり、現代仮名遣いの表音主義の原則からすれば、「言う」は「いう」と書く、という例外を知らぬ者が、「ゆう」と書こうとするのはむしろ自然と言えます。

無知なだけで、決して頭が悪い証拠にはなりません。

さらに言えば、「『言う』を『ゆう』と書く奴は頭が悪い」と考えることは、知性の本質を知識の多寡のみに求めることに他なりませんが、それこそ典型的な「頭の悪い人」の思考法です。

ですから、こう言うべきでしょう、「『言う』を『ゆう』と書く奴は学が無い」。これならば分かります。

他人の言葉の乱れは気になる

とは言え、他人の言葉遣いは、気になり始めると、とことん気になるものです。
私がコメントで攻撃されたのも、「『ってゆうか、~みたいな』といったふざけた言葉遣いを広める怪しからぬ輩」と見なされたからなのでしょう。

その気持ちはよく分かります。私も他人の間違った言葉遣いにイラッとくることがありますから。(この「イラッと」という言い方も人によっては嫌いますね……。このように、神経質になりすぎると何も書けなくなってしまいます)

言葉遣いに関する不寛容さは、時代の雰囲気なのかも知れません。

私はいわゆる「言葉の乱れ」をそのまま許容するものではありませんが、「言葉狩り」の問題とも併せて、もう少しおおらかであっても良いのではないかと思っています。

「続・言うを「ゆう」と書いて何が悪い」への4件のフィードバック

  1. 言葉は時代と共に変わっていくもの。誤用が普及しちゃって、やがて辞書に載る例もありますからね。
    おそらく、昔の日本人が今の(正しいと言われている)言葉遣いを見たら、かなり軽薄に感じるのではないでしょうか。
    「最近の若いものは・・・」というセリフは古代遺跡にも残っているとか、「ロックは不良の音楽」みたいな話を思い出しました(^^;)

  2. じゃすさん:
    そうなんですよね。私自身、かなりくだけた表現を使いたくなるときがある一方で、若者言葉に反感を感じてしまうこともあります。
    要は TPO でしょうか(この TPO も和製英語としてよく突っ込まれる表現の一つですよね)。
    ちなみに、このブログの記事も読み返してみると、おちゃらけてたり、まじめくさったりと、我ながら揺らぎがはげしいですね(笑

  3. 「言う」を「ゆう」と書く奴は、無知でも学が無いのでもなく、残念ながらやはり頭が悪いのです。頭が悪くなければ、知らなくても習わなくても、それを間違いと自分で気づくからです。

  4. そもそも「言う」の発音は「いう」なのでは?言いやすいから「ゆう」になっているだけで。「優」が「いう」ではなく「ゆう」と表音を基準にしたように「言う」を表音にして「いう」になるのは当たり前だと思います。前回の記事でおっしゃっていた「こんにちわ」に関しては意識して理解する機会がないのであれば、まあ人によるかなと思いますが、「言う」はどうしたって「いう」が正しいので表音主義を持ち出すならそもそも「ゆう」と発音すること自体が間違っていることになるのではないでしょうか。

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