ニートはアートせよ

ニート(Not in Education, Employment or Training, NEET)が社会問題になっています。この言葉は英国において、教育や雇用、職業訓練から排除されている人達がいる、という問題意識から、それを防ぐ目的で使われるようになったのですが、日本ではむしろ排除を進めるための差別語として使われています。

即ち、社会のお荷物であり穀潰しであり、居なくなった方が良いのだという見方です。確かに、勤労者から見れば、いや、私から見れば、働かずに食っている、のみならず昼間からインターネットの掲示板などで「サッカー日本代表、だらしねぇ」などと自分のことは棚に上げて書き込みをしているニート達に良い印象を持てるはずもありません。

しかし、見方を変えれば彼らは「新・金の卵」とも言うべき可能性を秘めた存在です。

最近は多少景気が上向いたと言われますが、まだまだ世の中はデフレです。デフレがなぜ起きるのかと言えば、結局は需要よりも供給が多いからに他なりません。消費のみを担って、生産を行わないニートの存在は、デフレを解消する力として働きます。

加えて、ニートには時間がたくさんあります。

有り余る時間を使って、アートに挑戦してみるべきです。ニートがアート。言葉遊びのようですが真面目な話です。

思うに、今の世の中は「仕事=物質的な生産」という考えに囚われすぎているのです。確かに、衣食住をまかなう第一次及び第二次産業は私たちの生存の必要条件ですが、生きるために必須ではない詩歌や小説、絵画、音楽も人間を人間たらしめるという意味で社会にとって有益なものです。つまり「非物質的な生産」もまた、立派な産業と言えます。

アートと言いましたが、高尚な「芸術」である必要もありません。生きるために必要ないものなら何だってアートです。くだらない漫画、暇つぶしのようなゲーム、騒々しい音楽、何だって構いません。

社会に必須の製品には確実に需要があるため、潤沢な資本・人海を擁する大企業がしのぎを削ってシェアを取ろうとしています。そこには極めて冷徹な資本主義の論理があり、徒手空拳で立ち向かうのは不可能です。

一方、生きるために必須ではないアートの世界では、時に「無」から「有」が生まれます。何気ない思いつきに途方もない価値があるかも知れないのです。

無論、大半は無価値です。そう簡単に誰でも漫画家や音楽家になれるのなら苦労はありません。だから、「分別ある」人たちはアーティストになるのを諦めて、あるいは最初から志すこともなく、公務員や会社員になるのです。

しかし、今ニートで、近いうちにどっかの役所や会社に就職するアテもない、というのなら、挑戦してみても良いはずです。いわゆる「ダメもと」というやつです。

かのバーナード・ショーは若い頃、手がけたことの10のうち9までは失敗した(When I was young I observed that nine out of ten things I did were failures. )そうです。ノーベル賞文学者にして、10のうち9です。我々凡人は100のうち99までも失敗しても恥ではありません。

今後、我が国が製造業で新興国に対抗するのはますます困難になっていきます。産業としてのエンターテインメントの比重が増すことは確実です。

もし、お子さんが学校にも行かず就職もせずに「漫画家になる」とか「音楽家になる」と言い出したら、決して「そんなの仕事とはいえない」と止めないで下さい。立派に仕事たりえることは上に述べたとおりです。

確かに成功する可能性は高くありませんが、何もやらずにダラダラ過ごすよりははるかにマシです。

刺青者排除に関する考察

銭湯やプールや海水浴場などで刺青のある人の入場を拒否することの是非がよく問題になります。私の考えは「拒否は正しい」です。

タトゥー、刺青、言い方によって変わる印象

注目すべきは、刺青容認派がこの問題に言及するとき、例外なく「刺青」ではなく「タトゥー」と言うことです。本人が意識しているかは別として、彼らが「タトゥー」という言葉を使うのは「刺青」よりも軽い語感だからです。

さらに言えば、「タトゥー」という外来語を用いることで日本文化を相対化し、日本における刺青への偏見を批判的に捉えようとする意図も感じられます。

確かに偏見はないに越したことはありません。刺青への偏見をなくせという彼らの主張は正しいようにも見えます。が、事はそう単純ではないのです。

やくざ:今そこにある危機

世の中にはやくざと呼ばれる人達がいます。

やくざが刺青をするのはなんのためでしょうか。もちろん、素人を怖がらせるためです。ちなみに若者のファッション・タトゥーも結局は「俺はワルなんだぜ」ということを周囲に知らしめるのが目的と言えます。

素っ堅気の人が体を張った芸術として刺青を入れる例もなくはありませんが、極めて稀です。

想像してみて下さい。スポーツクラブや健康ランドを経営していると、やくざがやってきて「おしぼりを納めさせてくれ」と言うわけです。拒否すると「ウチの若い衆は血の気が多いから何をするか分からんよ」などと脅され、翌日からクラブやランドは刺青のチンピラで溢れ、一般客の足は遠のくのです。

「それならば」と、開明な読者は言うでしょう、「やくざだけを拒否して、ファッション・タトゥーの人は入場させれば良い」と。

しかし、先述したとおりファッション・タトゥーも結局は自らが不良であるという標識なのだし、倶利迦羅紋紋ほどではないにせよ、やっぱり怖いのです。

そして、一番困るのが、やくざから「あいつの刺青は良くて、わしのはいかんのか? おう?」と凄まれることです。

「刺青の人の入場を拒否するのはサベツだ」などと言う人は、そのへんの想像力に欠けると言わざるを得ません。

マオリ族の女性の入場を拒否した支配人は正しい

去年、マオリ族の女性が北海道の温泉で入場を拒否される事件があり、大方の意見は「文化的背景に無理解」というものでした。

しかし、やくざの刺青にも文化的背景はあります。

その刺青の背景を考慮して、あるものは入場可、またあるものは入場不可とすることのほうがよほど差別的です。温泉施設の支配人としては、「刺青のある人は拒否する」というルールを機械的に適用するほかなかったのです。

確かに、海外では普通の人が気軽に刺青をすることもあるし、マオリ族のように民族の誇りと結びついている場合もあります。それはその国の、その民族の文化です。そういう国では刺青のある人の入場を拒否することは「いわれなき差別」として禁じられてしかるべきでしょう。

だからと言って、それをそのまま日本に適用せよというのは、本当に文化的背景に理解ある態度と言えるのでしょうか。否、日本の文化に対する無理解に他なりません。

日本では明らかに刺青は他者に対する威嚇なのです。その現実を無視して「海外では刺青は普通のことだから日本でもそうあるべき」というのはずいぶんと底の浅い議論です。

差別と区別のはざま

かつて刑罰として刺青が行われたことを別にすれば、現在の刺青への偏見はやくざへの偏見です。そして、やくざの存在自体、差別が根底にあります。在日外国人の一部がマフィア化しているのも、同じ理由です。

差別に対抗するために組織を作り、犯罪に手を染め、それがまた新たなる差別を生む。そして、その差別を逆手にとってゆすり・たかりを働く。それがさらなる差別を……。

問題は錯綜していますが、差別が先か、やくざが先かと言えば、差別が先なことははっきりしています。部落差別や民族差別を徹底してなくしていけば、刺青が純粋なファッションとして市民権を得る日が来るかもしれません。

しかし、一番あり得そうなシナリオは、偏見の消滅とともに刺青をする意味もなくなる、というものです。ビビってくれる人がいなければ、誰も痛い思いをして刺青なんてしたくはないでしょう。MRIによる診断が困難になったり、肝炎の感染を招いたりと、刺青は健康にも良くありません。

将来、刺青が市民権を得るか、あるいは消滅するか分かりませんが、それまでは銭湯・プール・海水浴場等で刺青者を排除することは許されるし、また排除すべきであると考えます。

ビルトインガレージ

カタカナ語の表記は「ゆれ」があって当然だと思っています。

もっとも、元の語から考えてそうはならないだろうという表記も無くはなくて、×シュミレーション・〇シミュレーション、×ディスクトップ・〇デスクトップなどがそれにあたります。(ちなみに上の二つはいずれも Atok2013 が「誤り」を指摘してくれました)

さて、下の画像は先ほど見かけたトヨタホームの広告です。

built-in

「ビルイン」となっていますが、「ビルイン」だと思うんですよね。

確かに、住宅の中にガレージを作る、なら

build a garage in the house

ですが、この場合、住宅に「作り付け」のガレージという意味でしょうから、

built-in garage

のはずです。つまり、built-in という形容詞が garage という名詞に係っているわけです。

built-in

built-in (also less frequent in-built) adjective
[only before noun] included as part of sth and not separate from it:
built-in cupboards (figurative)—compare inbuilt
–OALD7

いかがでしょう、トヨタホームさん。

「ナイーブ」の良い意味と悪い意味

歳の割にナイーブなほうです(笑)

広辞苑では「ナイーブ」は、

素朴なさま。純真なさま。感じやすいさま。うぶ。「―な感性」

となっています。さらに、新明解国語辞典では、

―な/―に 〔naive〕純真な子供のように一切邪心をいだかずに物事を見たり感じたりする心の状態。

と、大変素晴らしいもののように説明されています。

しかし、このカタカナ語の元となった英語の naive は、「判断力が欠けた」「愚直な」「だまされやすい」という悪い意味で使われるのが殆どです。

なので、長年、ナイーブは日本語では良い意味、英語では悪い意味になると理解していました。

ですが、最近OALD(Oxford Advanced Learner’s Dictionary)を引いてみたところ、

  1. (disapproving) lacking experience of life, knowledge or good judgement and willing to believe that people always tell you the truth:
    to be politically naiveI can’t believe you were so naive as to trust him!a naive question
  2. (approving) (of people and their behaviour) innocent and simple

となっていました。やはり、最初に載っているのは悪い意味ですが、日本語で言うような良い意味でも使われるんですね。

それにしても、良い意味(approving)、悪い意味(disapproving)と明記してあるのは分かりやすくて良いですね。さすが学習用辞書です。

サッカーで苛められていた? サッカーならまだ良い

はてな村定点観測所」の「サッカーで苛められていた。日本代表には早く負けてほしい」という記事に目がとまりました。

「お前は何もしなくていいからな!絶対何もするなよ!」と念を押されるほどサッカーが苦手だったそうです。嫌いになるのも無理はありませんが、これってサッカーに限らず全てに当てはまることですよね。

人々があることについてどのくらい適性があるかは、たくさんのサンプルを採れば正規分布に近似します。

正規分布

このグラフから分かることは、人間の半分はあることについて平均以下の適性しかないということです。

サッカーならまだ良いのです。「勉強」に関して「できない方の半分」に位置する人は人生がハードモードになってしまいます。彼らのルサンチマンは察するに余りあります。

現代の社会は学校のお勉強に重きが置かれすぎていて、できないと「ダメな子」の烙印を押されてしまいます。

しかし、実際は学校のお勉強、例えば数学なんて、少々できたって社会に出ればたいして役に立ちません。その意味ではサッカーと似ています。

論理的思考が身につくと言いますが、そんなものなくても生きていけます。直感で世渡りしている人の方が成功しやすいとさえ言えるほどです。ただし、それに気づくことが重要です。「(勉強ができない)オレなんかどうせ……」と膝を抱えたままでは成功できるものもできなくなってしまいます。

じゃあ、数学が得意じゃない人は頑張らなくて良いのか、サッカーが苦手な人は上達するよう努力しなくて良いのか。極論すればその通りです。

しかし、ここからは私の持論ですが、それでも人は何か努力しなければならないのです。一つは得意な方面を伸ばす努力。勉強は苦手でも絵が描けるとか、楽器が弾けるとか、カブトムシを捕るのが上手だとか、何かあるはずです。

そして、もう一つは苦手なお勉強も少しはやらないといけないということです。生活に必要なお金の計算や、チラシが読める程度の漢字の書き取りは、やはり必要です。これらは運動が苦手でも、少しは体を動かさないと足腰が弱ってしまうのと同じことです。

人よりできないからと引け目に感じてはなりません。ただ淡々とやるのです。間違いなく自分にとってプラスになるのですから。

昔は車と言えば牛車のことだった

言葉は絶えず変化していくものです。

外来語、借用語による変化のようにいわば外からもたらされる変化もありますが、内からの変化も頻繁に起こります。

一つには、その言葉が意味する物・事が社会から消え去り、同時に言葉も消える現象があります。例えば「印籠」はテレビの時代劇ではおなじみでも、実際日常的に使っている人はいないでしょうし、死語に近いと言えます。

もう一つ、同じ言葉がべつの物を指すようになることもあります。例えば「車(くるま)」と言えば、近世までは貴人の乗る牛車(ぎっしゃ)のことでしたが、明治期から戦前にかけては人力車のことであり、現在は言うまでもなく自動車のことです。

また、言葉は論理のみによって決まるわけではなく、もっと民衆の生活に密着したものです。現在、単に「携帯」と言えば「携帯電話」のことであり、決して携帯コンロや携帯寝袋のことではあり得ません。要するに庶民の感覚では電話が携帯するものとして一番なじみ深いわけですね。

余談ですが、最近タッチパネル付きの多機能携帯電話をスマートフォン、略してスマホと呼び、従来の携帯電話と区別するのが普通です。これなどはマーケティングの都合で従来品と差別化するために作られた言葉が一般に浸透した例と言えるでしょう。

最後に、社会の変化に伴って今までなかった新しい言葉が生まれる現象です。言葉の変化として真っ先に思い浮かぶのはこれかもしれません。

最近見かけて興味深く思った新しい言葉に「肉肉しい」というのがあります。用例としては、

チャーシューが少し硬いが、肉肉しくて良い感じ

など(笑) 主としてB級グルメ用語です。

日本古来の「にく」という和語を重ねて形容詞としたもので、肉食がこれだけ普及しているのに今までなかったのが不思議な言葉です。肉肉しく・肉肉し・肉肉しき・肉肉しけれ・〇。シク活用ですね。

「憎々しい」と紛らわしいからでしょうか、残念ながら、まだ辞書には載っていないようです。

日本人の条件

先日、移民に関して「日本の文化と風土を愛し、日本に対して忠誠を誓う人なら、元の国籍が何であれ日本人として認める」と書きました。我ながら格好良いことを言ったものです(笑)

ただ、若干書き漏らしたことがあります。法律の尊重です。上記に「日本の法律を尊重する人」という条件も加えたいと思います。

その国の法律を遵守することを帰化の要件にしている国は多く、言うまでもない当たり前のことのように思われるかもしれません。また、日本に住む以上日本の法律を守ることが強制されるのだから尊重もへったくれもないと言う人もいるでしょう。

けれども、私の言う「法律を尊重」はもっと高級な意味です。単に「捕まっては困るから法律を守る」では不足です。

警官が賄賂を受け取らず、選挙権が保障され、誰もが裁判を受ける権利を持つ日本。

法の支配の徹底は我が国の特徴の一つです。新たに日本人となる人には、日本の食べ物や風景を愛するのと同じように、日本の法をも愛して欲しいのです。

無論これはかなりの綺麗事です。私とて四六時中法の支配について考えを巡らしているわけではありません。日々の生活で手一杯です。

しかし、時々は「人」ではなく「法」が支配する国の住人であることを思い出し、その価値を支持し、維持発展に努めるべきです。

そうであってこそ「日本人」です。

最近はアイスキャンディーとは言わないらしい

夏の風物詩の一つにアイスキャンディーがあります。

この「アイスキャンディー」という言葉、もちろん和製英語で、アメリカでは popsicle 、イギリスでは ice-lolly などと呼ばれます。

おそらく、というか間違いなく両者とも棒付きのキャンディー(いわゆるペロペロキャンディー)を指す lollipop から派生した言葉ですが、アメリカは pop をとって、イギリスは lolly をとったというのが面白いですね。

ではなぜ我が日本では lolly でも pop でもなく candy と言うようになったのか。candy は、どちらかというとドロップやタフィーのような棒の付いていないやつを指すので、英語的には「?」ですが、日本語の「アメ」は元来水飴を指し、棒につけてなめるのが普通でしたから、「凍らせたアメ→アイスキャンディー」となったのでしょう。

もっとも、最近では単に「アイス」と呼ぶことの方が多いようです。

アイスではただの氷になってしまうではないかという意見もありますが、日本語ではただの氷は「こおり」と呼び、「あいす」と言えばアイスキャンディーやアイスクリームなどの氷菓子のことになるので区別には困りません。

困りませんが、若い人たちにお願いがあります。「アイスキャンディー」と言う人を年寄り扱いするのはやめて下さい!(笑)

もはや「アイスキャンディー」は老人語に属しつつあるようですが、この季節感溢れる、楽しい言葉を今しばらく使っていきたいのです。

 

帰り道アイスキャンデー舐めながら

 

「外食は太る」という固定観念

良く、ラーメンは太るとか牛丼は太るとかファミレスは太るというような話を聞きます。太ることに対する拒絶感は強いものがあります。これも以前に書いた「肥満恐怖症」の一症状と言えましょう。

外食より、いわゆる「うちごはん」の方が優れているのは、自分でコントロールできるという点にあります。一般に、外食は栄養バランスが悪く、カロリーが高すぎるとされていますが、自宅でも栄養バランスが悪く、カロリーが高い食事をすることは「可能」です。

つまり、栄養学の知識や自制心を欠くならば、「うちごはん」でも太ります。

私の感覚から言えば、外食は腹八分目を保つのに良いのです。

なぜかと言うと、通常外食では一人前の量は決まっており、それ以上に食べたければ追加の料金が発生するからです。この追加料金が心理的歯止めとなって、食べ過ぎを防ぐことができます。

この観点からすれば、「うちごはん」は好きなだけおかわりができるバイキングのようなものです。

おかずがちょっとだけ残っていると気持ち悪いからと、全部片付けてしまわないと気が済まない人もいるでしょう。毎食ごとにこれを繰り返していると確実に太ります。

また、外に食べに出掛ける場合、その「出掛ける」という行為自体がエネルギーを要します。言い換えれば、その分太らずに済みます。車に乗っちゃダメですけどね。私は歩いて行ける距離ならばできるだけ歩くようにしています。

このように、「うちごはん」にも太る要素は多く、逆に外食は必ずしも太る要素ばかりではありません。

まあ、「うちごはん」だろうと外食だろうと、たくさん食べれば太るし、少ししか食べなければ痩せるというのが真理ではありますが。

自販機のお釣りの謎

四月からの増税で、自販機の場合缶入りの飲料は130円、ペットボトルは160円くらいが相場になってしまいました。

消費税が5%だったころは120円でしたので、単純に考えて、

x * 1.05 = 120
x = 120 / 1.05
x = 114.286

四捨五入して114円が本体価格であったと言えます。従って、消費税が8% なら、

114 * 1.08 = 123.120

123円が順当ですが、1円や5円は使えないという自販機の仕様から130円に設定されたということなのでしょう。どうも釈然としませんが。

自販機の仕様と言えば、先ほど160円のペットボトルを買おうとして50円玉が無かったので、100円玉2枚と10円玉1枚、すなわち210円を投入しました。お釣りが50円玉で出てくることを期待したのですが、10円玉が5枚出てきました。

なるほど。高額の貨幣はできるだけ温存してお釣りには小さい方を吐き出す仕様なのでしょう。集金の必要回数を減らして効率化するための工夫かもしれませんが、利用者としてはあまりうれしくありません。

いや、うれしくないどころか、再び利用する気が失せてしまうほどです。

モノが売れない時代と言われますが、業者さんには、こういったことを気にする人間もいるということを知って欲しいものです。