刺青者排除に関する考察

銭湯やプールや海水浴場などで刺青のある人の入場を拒否することの是非がよく問題になります。私の考えは「拒否は正しい」です。

タトゥー、刺青、言い方によって変わる印象

注目すべきは、刺青容認派がこの問題に言及するとき、例外なく「刺青」ではなく「タトゥー」と言うことです。本人が意識しているかは別として、彼らが「タトゥー」という言葉を使うのは「刺青」よりも軽い語感だからです。

さらに言えば、「タトゥー」という外来語を用いることで日本文化を相対化し、日本における刺青への偏見を批判的に捉えようとする意図も感じられます。

確かに偏見はないに越したことはありません。刺青への偏見をなくせという彼らの主張は正しいようにも見えます。が、事はそう単純ではないのです。

やくざ:今そこにある危機

世の中にはやくざと呼ばれる人達がいます。

やくざが刺青をするのはなんのためでしょうか。もちろん、素人を怖がらせるためです。ちなみに若者のファッション・タトゥーも結局は「俺はワルなんだぜ」ということを周囲に知らしめるのが目的と言えます。

素っ堅気の人が体を張った芸術として刺青を入れる例もなくはありませんが、極めて稀です。

想像してみて下さい。スポーツクラブや健康ランドを経営していると、やくざがやってきて「おしぼりを納めさせてくれ」と言うわけです。拒否すると「ウチの若い衆は血の気が多いから何をするか分からんよ」などと脅され、翌日からクラブやランドは刺青のチンピラで溢れ、一般客の足は遠のくのです。

「それならば」と、開明な読者は言うでしょう、「やくざだけを拒否して、ファッション・タトゥーの人は入場させれば良い」と。

しかし、先述したとおりファッション・タトゥーも結局は自らが不良であるという標識なのだし、倶利迦羅紋紋ほどではないにせよ、やっぱり怖いのです。

そして、一番困るのが、やくざから「あいつの刺青は良くて、わしのはいかんのか? おう?」と凄まれることです。

「刺青の人の入場を拒否するのはサベツだ」などと言う人は、そのへんの想像力に欠けると言わざるを得ません。

マオリ族の女性の入場を拒否した支配人は正しい

去年、マオリ族の女性が北海道の温泉で入場を拒否される事件があり、大方の意見は「文化的背景に無理解」というものでした。

しかし、やくざの刺青にも文化的背景はあります。

その刺青の背景を考慮して、あるものは入場可、またあるものは入場不可とすることのほうがよほど差別的です。温泉施設の支配人としては、「刺青のある人は拒否する」というルールを機械的に適用するほかなかったのです。

確かに、海外では普通の人が気軽に刺青をすることもあるし、マオリ族のように民族の誇りと結びついている場合もあります。それはその国の、その民族の文化です。そういう国では刺青のある人の入場を拒否することは「いわれなき差別」として禁じられてしかるべきでしょう。

だからと言って、それをそのまま日本に適用せよというのは、本当に文化的背景に理解ある態度と言えるのでしょうか。否、日本の文化に対する無理解に他なりません。

日本では明らかに刺青は他者に対する威嚇なのです。その現実を無視して「海外では刺青は普通のことだから日本でもそうあるべき」というのはずいぶんと底の浅い議論です。

差別と区別のはざま

かつて刑罰として刺青が行われたことを別にすれば、現在の刺青への偏見はやくざへの偏見です。そして、やくざの存在自体、差別が根底にあります。在日外国人の一部がマフィア化しているのも、同じ理由です。

差別に対抗するために組織を作り、犯罪に手を染め、それがまた新たなる差別を生む。そして、その差別を逆手にとってゆすり・たかりを働く。それがさらなる差別を……。

問題は錯綜していますが、差別が先か、やくざが先かと言えば、差別が先なことははっきりしています。部落差別や民族差別を徹底してなくしていけば、刺青が純粋なファッションとして市民権を得る日が来るかもしれません。

しかし、一番あり得そうなシナリオは、偏見の消滅とともに刺青をする意味もなくなる、というものです。ビビってくれる人がいなければ、誰も痛い思いをして刺青なんてしたくはないでしょう。MRIによる診断が困難になったり、肝炎の感染を招いたりと、刺青は健康にも良くありません。

将来、刺青が市民権を得るか、あるいは消滅するか分かりませんが、それまでは銭湯・プール・海水浴場等で刺青者を排除することは許されるし、また排除すべきであると考えます。

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