年甲斐も無くテレビゲームが好きです。以下の文は自戒を込めて書きます。
ひと頃「ゲーム脳」という言葉を良く聞きました。大ざっぱに言うと、テレビゲームばかりやっていると脳がダメになってしまい、アホになるという説です。提唱者の森昭雄氏によると、ゲーム脳の人は「表情が乏しく、身なりに気を遣わない。気がゆるんだ瞬間の表情は、ボーッとしているような印象で、認知症患者のものと酷似している」と、さんざんな言われようでした。
この説自体は学説とは認められず、現在は疑似科学の一種とされています。少なくともゲームで脳が壊れることはありません。
それでも悪影響はある
しかし、では、いくらゲームをやっても良いのか、ずっとやり続けて良いのかと言えば、それは違うでしょう。
端的に言って時間の無駄だし、目も悪くなります。それだけなら読書も映画鑑賞も程度の差こそあれ同じと言えますが、決定的に違うのは、ゲームには「上達」という要素があることです。私の考えではこの「上達」が曲者なのです。
上達、結構ではないか、何がいけないのか? と思われるかもしれません。
実際、何であれ上達するというのは嬉しいもので、できなかったことができるようになる喜び、一言で言えば「進歩する喜び」は人間が経験する感情の中でも最良の部類に入ります。
だから、ゲームばかりしていてはダメなのです。
進歩する喜びを知った気になってしまうから。
ヴァーチャルな「進歩」
ゲーム、とりわけ商業的な動機で開発されたゲームは、まずは目新しく、次に上達することでますます面白くなっていき、最後には飽きてやらなくなる、というプロセスがビルトインされています。
「おっ、なにこれ面白そう」→「俺って上手いかも」→「……飽きた」
みたいな感じです。ちなみに「飽きる」というのは重要な機能で、もし一生遊び続けられてはメーカーは次のゲームが売れずに困ってしまいます。
もっとも、ここで問題視したいのは、上に述べたとおり「上達」ないし「進歩」という体験が意図的に組み込まれていることです。
本来、価値のあるスキルほど上達には努力を要するものですが、ゲームの中では簡単に「俺、上手い」という感覚を味わうことができます。そのように作られているのです。
ギャンブルの場合
競馬で身を持ち崩した人から話を聞いたことがありますが、「この馬は父が〇〇、母が△△で、神経質だが瞬発力があり、苦手な右回りのレースが続いたから最近の成績は振るわないが今度の府中競馬場は左回りなので……」とやたら詳しいのです。
パチンコにはまっている人もそうです。釘がどうの、羽根がどうの、この機種は小当たりが続いたらなんとかのサインとか、とにかくいろいろと「勉強」しています。
ある意味大変な「努力」をしているわけです。向上心があると言っても良いでしょう。しかし、それによって彼らが尊敬を得ることはありません。
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テレビゲームには競馬やパチンコのような強烈な「報酬」がないので、人生を台無しにするまでの破壊力はありませんが、本質は同じです。
ゲームの中で努力し、上達し、何者かになったような気分を味わう、それが「報酬」ですが、実際には何者にもなっていないのです。
誰かが金儲けのために作ったゲームで向上心を使い果たしてしまうのは実にもったいないことです。ゲームは気晴らしにとどめ、向上心は自分の人生に対して注ぎ込むのが賢明と言えます。