勘違い芸人

ずいぶん昔の話ですが、ある新人お笑いコンビの一人がテレビでこんなことを言っていました。

「師匠が二人で一万やていわはって小遣いくれたんですけど、相方が聞きつけて、『俺のぶん、五千円、はよよこせや』とうるさいんです。ほんま、こまかいやっちゃ」

一見なんの変哲もない話ですが、私はこれを聞いて他人事ながら腹が立ちました。なぜか。

相方が「ええがな、ええがな、五千円ぐらい。お前が全部もろうとき」というのなら何の問題もありません。しかし、あわよくば一万円まる取りしようとした側が「五千円ぐらいでこまかいやっちゃ」と言うのはおかしいと思うからです。

例えばの話です。タクシーの運賃が五千円であったとします。あなたが運転手に一万円札を渡して、「お釣りはとっといて」と言うなら、豪気な人だなで済みます。しかし、一円も払わずに立ち去ろうとしたら警察に突き出されても文句は言えません。同じ五千円でも前者と後者では意味が異なります。

もう少し一般化して言えば、自分の他人に対する債権をどう処分しようと勝手だが、他人の自分に対する債権はあなたの意思でどうこうできるものではない、ということです。

払うべき金を払わずにおいて豪傑ぶるなど以ての外です。

まあ、自分に甘い小人物ぶりを世間に笑ってもらおうとしたのだと思いますが、子供の時分に段ボールごと商品を盗んだと得意気に話した女優と同じで、笑えない話です。

件の芸人はその後全く見かけなくなりました。

洗えるスーツってダメなの?

PRESIDENT の「洗えるスーツは問題外」との記事が話題になっています。

自宅で気軽に洗える素材のスーツが上質なわけがありませんし、自分の都合を最優先にした装いで現れる相手と真剣なビジネスをしたいと思えるでしょうか。

実際どうなんでしょうね。そんなに見るからに安っぽいのでしょうか。試したことがないので分かりません。

ただ一つ言えるのは、「問題外」というけど、それこそ自分の都合では? ということです。だって、書いているのは「パーソナルスタイリスト」なわけですから。そりゃ皆が皆洗えるスーツに流れては困るでしょう。

記事によればスーツの価格は「中間管理職・部長は10万~25万、経営者・役員クラスは25万が目安」とのことです。ここまでスノビッシュだと逆に清々しいですね。

よく馬子にも衣装と言うし、英語の諺にも”Fine feathers make fine birds.”というのがあります。美しい羽根は美しい鳥を作る、という意味です。

なるほど、高級スーツに身を包めば誰でもそれなりに見えるかもしれませんが、それも黙って座っていればの話です。ひとたび口を開けば、その人の知性、教養の程から器の大小まで忽ち相手に伝わってしまいます。

いや、黙っていても貧乏揺すりをしていれば一発です(笑)

大事なのは中身というと余りに月並みですが、本当のことです。分不相応な美服は却って人の侮りを招きます。

流言、デマ、etc.

皆さんは、流言蜚語の「蜚」とはどういう意味かご存じでしょうか。手元の漢和辞典によると……

《音読み》

《訓読み》
とぶ
《意味》

  1. {名}虫の名。羽があってとび、台所などにすんで、悪臭を発する。あぶらむし。ごきぶり。
  2. {動}とぶ。空をとぶ。〈同義語〉→飛。「蜚鳥ヒチョウ(=飛鳥)」「三年不蜚、蜚将沖天=三年蜚バズ、蜚ベバマサニ天ニ沖セントス」〔→史記〕

なんとゴキブリのことなんですね。

現在では「流言飛語」のように「飛」の字を当てるのが一般的ですが、「蜚」の方がでたらめな噂がカサコソとゴキブリのように広がるさまが思い浮かべられて、不快なニュアンスが良く伝わる気がします。

もっとも、別の辞書(広辞苑第6版)によれば「蜚」は「バッタ・イナゴ」の意味もあるそうで、流言蜚語はむしろイナゴの大発生をイメージして作られた熟語かもしれません。

どっちにしろ、背筋にぞわっとくる言葉ですね。

ついでに、「デマ」とか「風説」といった、似た言葉についても考えてみました。

流言蜚語

信憑性というのは真実かそうでないかという意味ではなく、本当っぽいかどうかという意味です。「っぽさ」に力点があります。

「風聞」は風の噂に伝え聞いたという意味で、悪意は感じられません。「風評」は風評被害という言い方に代表されるように、ややネガティブな印象です。

流言蜚語も風評に近いですが、誰かが故意に噂を流しているニュアンスです。風説もそうですね。

デマまでいくと、完全に悪意があります。

我々はともすると、「昔の人は噂に左右されたかもしれないが、現代人は情報を適切に判断できる」とうぬぼれがちです。しかし、本当にそうでしょうか。

ITの進歩によって、却ってデマに対する脆弱性は増しているようにも見えます。ちょっとググって出てきたことを鵜呑みにする人があまりに多い。ですが、実はGoogleも案外いい加減なものです。

情報の洪水に翻弄されることなく、もう少し腰を据えて世の中を眺めなくてはと、自戒を込めて思います。

「治療」の定義

バイク保険の更新をしようと思って「重要事項」を読むと、面白いことが書いてありました。

最初に「記名被保険者」とか「ノンフリート等級」といった用語の説明があるのですが、その中に「治療」という項目があります。

医師による治療をいいます。ただし、被保険者が医師である場合は、被保険者以外の医師による治療をいいます。

なるほど。まず、治療とは医師による治療をいうそうです。民間療法などでかかった費用は治療費としては認められないということですね。

その後の段はより一層念が入っています。現実問題として、いくら医師でもバイクで事故っていながら自分で自分を治療するなど不可能でしょうから、「(治療とは)被保険者以外の医師による治療をいう」とは、当たり前のことを書いているだけのようにも見えます。

が、わざわざこのような「定義」を載せているのは、論理的にそうならざるを得ないからではないでしょう。自分で自分の治療をして、お手盛りで「これだけの治療費がかかった」と請求されるのを防ぐのが目的です。

無味乾燥なような契約書類も、見ようによっては案外面白いものです。

電車の網棚

最近、電車の網棚が殆ど使われていないそうです。

特に若者は口を揃えて「生まれて一度も使ったことがない」と言うそうで、いやはや驚きです。人間、自分が馴染んだ行動様式が廃れていくのはなにか寂しいものです。

が、使わない理由として「忘れ物をしないため」が上位に来ると聞くと、「それなら仕方がないか」という気もします。

私は網棚に荷物を置き忘れたことはありませんが、危うく忘れそうになり、「もし、お忘れですよ」と時代劇みたいな台詞で注意されたことならあります(笑)

たまにしか乗らない(人が多い)飛行機や新幹線と比べて、日常的に乗る在来線では忘れる率も絶対量も確実に多くなるはずです。なにしろ無意識ですから。下りてドアが閉まった後で「あっ、カバン!」と気付くわけです。

どこの鉄道でも忘れ物の管理は頭痛の種のようで、網棚の撤去は時代の趨勢かもしれません。不審物の放置も怖いですしね。

くら寿司とモダンタイムス

昨日、近所のくら寿司行ったんです。くら寿司。……と、某コピペのような始め方ですが、実は初めてでした。

くら寿司

店員から「皿は引っ張るのではなく、持ち上げるようにして取って下さい」と説明を受け、札をもらって席に着きます。

まず、戸惑ったのがお茶の注ぎ方です。湯飲みに抹茶を入れて湯を注ぐのですが、ボタンを手ではなく湯飲みで押さえつけるようにするのが正しいのだそうです。私は手で押そうとして、一緒に行った人から「コントで『あちっ!』とかやってるけど、実際手で押そうとする人は初めて見た」と笑われてしまいました。ぐぬぬ……。

次に注文した寿司を取り終わったときに押す「完了」ボタンがたまたま私の前にあったので押していたところ、一回タイミングを誤ってまだ全部取っていないのに返却してしまいました。このときは店員を呼んでもう一度送ってもらいましたが、手の掛かる客だと呆れられたことでしょう。

他にもタッチパネルを上手く押せなかったり、逆に意図せず押してしまったりと、失敗続きでした。まさに人と機械との闘争(Kampf zwischen  Mensch und Maschine)です。

自分のそそっかしさを棚に上げて言わせてもらえば、やはり、タッチパネルとコンベアによる自動化されたシステムは、非人間的です。なんだかチャップリンの「モダンタイムス」のような悲哀さえ感じます(笑)

まあ、あれの方が気軽で良いという人も多いのでしょうが、全部が全部タッチパネルになってしまうと私は嫌ですね。

なぜ人は人を殺してはならないか

たしか、1997年、神戸で児童殺傷事件が起きたときのことだったと思います。テレビでは連日連夜特番が組まれ、ジャーナリストや教育者や政治家や芸能人が事件について様々なことを言いました。

そうした番組の中で、「一般の人」の声として、「そもそもなぜ人は人を殺してはならないのか」という発言が出て、学者もジャーナリストも返答に詰まる、といったことがありました。

この発言は当時の大人達を愕然とさせ、論争を生みました。

大江健三郎は「私はむしろ、この質問に問題があるとおもう 。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ」と述べました。私は大江のこの発言の意味が未だに飲み込めません。

飲み込めないのでコメントもしませんが、他の多くの識者は、「人は他者の命を尊重することで、自分の命も尊重されるようにしてきた」という説明をしました。

ホッブス的な「万人闘争」から、ルソー的な「社会契約」へ、というわけです。たしかに、穏当な見解ではあります。

しかし、私はこの説も半分しか信じていません。

たとえばの話です。船が難破して、無人島に流れ着いたとします。人数は……そうですね、3人としましょうか。あなただけがピストルを持っていて、他の2人を殺そうと思えばわけもなく殺せます。法によって裁かれる恐れもありません。

殺しますか?

常日頃から恨みを抱いていたならともかく、普通は殺さないと思います。それどころか、かけがえのない仲間として助け合うことでしょう。でも、疑い深い人は、「無人島では助け合う必要があるから殺さないだけ」と言うかもしれません。

それならば、人里離れた場所に監禁されている人質同士ならどうでしょう。映画などで偶に見かけるように、テロリストがあなたに他の人質を「処刑」するように命じたら?

これなら殺しますよね?

やはり殺しませんか……。少なくとも殺したくはないですよね。

結局のところ、人間は殺さない動物、ということではないでしょうか。社会契約以前に、「殺さないこと」は生物としての人間にDNAレベルでインプットされた習性なのです、たぶん。

ニヒリストは言うでしょう、「殺さない動物などとは笑止。人類の歴史は戦争の歴史だ」と。

それは、「道具」のせいです。

またも思考実験ですが、あなたに怨敵がいるとします。殺人罪で罰せられることなくヤツを殺すことが出来ますが、素手でやらなければなりません。やりますか?

なにしろルール無用の徒手格闘ですから、噛みつきアリ、首締めアリのそれは凄惨な闘いになるはずです。かなり躊躇するのではないでしょうか。

では、日本刀を使って良いならどうでしょう。素手よりはかなり容易であるにしろ、まだ血なまぐささは避けられません。

しかし、遠くから鉄砲で狙って撃つということなら、負担は激減します。

これこそが、「戦争の歴史」のメカニズムです。

究極的には人が人を殺してはならない理由はない。それはその通りでしょう。しかし、「殺すなかれ」は昔の人が思いつきで作った戒律では決してなく、生物としての人間の習性に基づいているということは言えそうです。

口の中をやけど

口の中をやへどひまひた。もとい、やけどしました。

不覚です。おやつに食べたたこ焼きが思いの外熱く、やってしまいました。転んでもただでは起きぬ的根性で、ブログネタ化してみます。

口の中をやけどせずに熱いものを食べるのは生活に必要な技能です。たこ焼きを食べるときは、いきなり口に放り込むのではなく口の前でふーふーしてみるべきです。私はこれを怠ってしまいました。

ふーふーすると幾分冷めるのはもちろんのこと、返ってくる空気の熱さでたこ焼きの熱さを推し量ることが出来ます。

麺類、殊に熱いスープに浸かっている麺、かけうどん、かけそば、ラーメンなどは、ふーふーするのに加えて、ずずーっとすすることで温度が下がります。

ラーメン

ご存じのように、日本以外の多くの文化では、音を立てて麺(やスープ)をすするのは不作法とされていますが、なに、気にすることはありません。ここは日本です。

ですが、海外ではどうすれば良いのでしょうか。

聞くところによれば、アメリカ人は日本製インスタントラーメンを食べるとき、麺を茹でたあとお湯を捨てて、粉末スープをまぶして食べるそうです。カップ焼きそばの要領です。

これも、音を立ててすするのは彼らが子供の頃から受けてきた躾がそれを許さず、かといって無音で麺を吸い上げると唇をやけどしてしまうからだと思われます。

つまり、すすらないと食べられないほど熱いスープに浸かった麺が出るということは、その土地の文化でもすすって良いということです。

逆にスパゲッティーのように汁無しの麺は、決して音を立てて食べてはいけません。

山月記

若い人と話していて、彼が「山月記」を読んでいることに感心したことがあります。後で知ったのですが、今は高校の教科書に載っているんですね。なるほど。

臆病な自尊心と尊大な羞恥心。特に若者が避けなければならないのは前者ではないかと思います。

世の中に「努力」を嫌う人が多いのは、単にそれが苦痛だからではなく、努力してみてなおその道に達することが出来ない、つまり才能がないことが明らかになるのを恐れるからです。

青年は、臆病な自尊心など持たず、自らの進む道を定めて、とことん努力すべきです。

私の世代は山月記も教わらず、ややもすれば「努力なんてかっこわるい」という風潮でした。しらけ世代というやつです。私自身、さして努力家というわけではありませんが、この風潮には強く反発したものです。他人の努力をあざ笑うのは醜いことだし、それを恐れて努力しないのは愚かなことです。

それを教えてくれるこの作品を高校の教科書に載せるのは誠に結構なことだと思います。

ただ、教科書に載っていると逆にきちんと読まないということはあるかもしれませんね。若者は、親や学校の先生の言うことを聞かないものだし、教科書に載っているというだけで退屈な文章に感じるかもしれません。

若者に影響力のある芸能人やスポーツ選手が、「臆病な自尊心など持つな」とメッセージを送ってくれると良いのですが。

無能な人ほど高給?

無能なヤツほどたくさんのお金が得られることを証明します。

仕事 = 時間 × 能力

従って、

時間 = 仕事 / 能力

ここで、明らかに

時間 = お金 ( Time is money. )

なので、

お金 = 仕事 / 能力

仕事が一定ならば、能力が低いほどお金が増える。 Q.E.D.

というのは欧米ではポピュラーなジョークですが、これがジョークとして成り立つほどにタイム・イズ・マネーは当然のこととして受け取られています。

ただ、私自身は時間とお金が等価であるとは考えていません。どちらがより大事かと言えば、時間であろうかと思います。

お金は頑張ればいくらでも稼げます。才覚さえあれば何億、何十億、何百億と稼ぐことも可能です。しかし、時間はどうでしょう。どれほど健康に気を配っても、人は200年は生きられません。150年も無理です。

不摂生をしていれば若死にするだろうし、十分養生していても運が悪ければ死ぬときは死にます。

そう考えると、時間は、万人に公平に与えられてはいないにしろ、上限はたかが知れており、それゆえに最も貴重なリソースと言えるのではないでしょうか。