What a shame!

英語のお勉強です。

“What a shame!” という表現があります。いくつかの英和辞典を引いてみると、「何たることだ!」「けしからん!」「恥さらしめ!」のような訳が載っています。

しかし、実際はこのような非難の意味は殆どなく、「残念だね」とか「惜しかったね」というような励ましの言葉として使われます。

オックスフォード現代英英辞典では、

  1. [U] the feelings of sadness, embarrassment and guilt…(後略)
  2. [U] (formal) the ability to feel shame at sth you have done
  3. a shame [sing.] used to say that sth is a cause for feeling sad or disappointed
    SYN pity:
  4. [U] the loss of respect that is caused when you do sth wrong or stupid

とあります。

[U]とあるのは uncountable、不可算名詞という意味です。3 の [sing.] は singular、単数形という意味です。従って、”What a shame!” の shame は 3 の意味と分かります。

SYN とあるのは synonym、同義語です。つまり、pity と同じ意味だと言うことですね。

これらのことから、「残念」「お気の毒」などと訳すのが適切と言えます。

ただ、では「恥さらしめ!」みたいな意味がないかと言えば、少しはあるのかもしれません。恐らく、日本語の「恥」と同じように、shame も本来は後ろめたい、罪の意識を伴う言葉なのでしょう。それが徐々に後ろめたさが抜け落ちて、単に残念という場合にも使われるようになったのだと思います。

pity にしろ、皮肉を込めて言えば攻撃的な言葉にもなるわけですしね。

(この記事は、庄内拓明さんのブログの記事につけたコメントを元に書きました)

パワートレイン

今、自分の中でカーブームというかカー雑誌ブームです。車を買う気は無いんですけどね(笑)

カー雑誌を見ているとよく目にするのが「パワートレイン」という単語です。

パワートレインとは、エンジン+トランスミッションのことです。ハイブリッドが増えてきたので、パワーユニット+トランスミッションと言った方が正確でしょうか。用例としては「パワートレインは 3L DOHC に 7AT の組み合わせ」のような感じです。

ここで例によって重箱の隅を突くような話なんですけど、”train”は長母音ではなく二重母音なので「トレーン」でなく「トレイン」だと思うんですよね。

train

しかし、雑誌では多くの場合「トレーン」表記です。

ただ、カタカナ表記における長母音と二重母音の区別は必ずしも厳密ではなく、例えば “mail” も「メール」と言ったり「メイル」と言ったりで一定しませんよね。なので、「トレーン」も直ちに誤りだと断じるわけにはいきませんが、私としては「トレイン」の方がしっくりきます。

もっとも、”mail” に関しては、私も「メール」と表記します。「メイル」の方が原音に忠実だと分かっていても、こう書くとどうも気取った感じがするんですよね。「バイオリン」を「ヴァイオリオン」と書くような感じ、と言えば分かっていただけるでしょうか。

逆に、カー雑誌の記者や評論家たちが好んで「トレーン」と表記するのは、そっちの方がかっこいいと思っているフシがあるような……。

カタカナ語の語感は奥が深いです。

なにがパワースポットだ

ここをご覧になっている方はご存じかと思いますが、私は古墳や神社仏閣を見て回るのが趣味です。それも、立派な資料館が建っていたり、団体旅行用のバスが何台も停まっているような有名な場所ではなく、地元の人達がひっそりと守っているような小さなところが好みです。

そんな私が近頃憤慨しているのが「パワースポット」とかいう言葉です。

猫も杓子もパワースポット。自分が訪れたことのある場所がネット等でパワースポットとして紹介されているのを見ると心底がっかりします。これから行こうと思っている場所なら、行く気がなくなります。

何がそんなに気にくわないのか、考えてみました。

「力をもらう」といった、現世利益的な態度でしょうか。しかし、それだけなら伝統的な寺社参りも同じです。特に神道には「御利益」を期待して「お賽銭」を投げるという、割と身も蓋もない習慣があります。お守りや絵馬も売っていますしね(「差し上げて、かわりに寄付して頂く」という建前ですが)。そういうことが悪いとは思いません。

では、オカルト的だからでしょうか。正直これはあります。それを言ってしまうととたんにうさんくさくなる言葉というものがあり、「パワースポット」はその一つです。また、「地磁気がどうの……」といったエセ科学的な説明も行われています。オカルトもエセ科学も私は大嫌いです。ただ、元々人が墳墓や神社仏閣を作るのは「信仰」に基づいてなわけですから、そういう意味ではオカルトやエセ科学との区別は必ずしも容易ではありません。

結局、「パワースポット」という言葉の軽薄な響きがイヤなんですね。それ以外に理由は思いつきません。まあ、個人的な好き嫌いの範疇と言ってしまえばそれまでです。

ともかく、自治体が域内の古墳・神社仏閣などを紹介する際、担当者は、「パワースポット」という言葉を毛嫌いする人間もいるということを心に留めておいた方が良いと思います。

努力すれば成功するとは限らないが

できることを全て実際にやってみたら、文字通り自分でも驚くだろう

トーマス・エジソン

 

再び「努力」について。

少し前に「努力すれば成功するとは限らない」という為末さんの発言に疑問を呈しました。

彼に同調する人の意見でかなり説得力があるのが、「努力すればできるというのは、できないのは努力が足りないからだ、となる」というものです。

十分努力してる人に向かって「努力が足りない、もっと努力しろ」と言うのは酷いと。

確かに酷い。

しかし、前回書いた通り、そういう例をあまり見たことがないんですよね。「どうせ無理だ」と諦めてしまっている人ばかりです。

努力しないのは才能がないことを知りたくないから

思うに、努力して、やっぱりダメだったとき、自分に才能がないことが明らかになるのを恐れているのでしょう、彼らは。何もしなければ、少なくとも「才能があるかもしれない」というポテンシャルだけは保ち続けることができますから。

こういうメンタリティを醸成したのが、昨今の「個性尊重」教育です。

とにかく、個性が大事だと言う。しかし個性とは何かは誰も教えてくれない。個性とは(何かの)才能のことだろう、となるのです。

そして、才能がないことは個性がないことなので、現代の教育で植え付けられた価値観からすれば、存在を否定されたに等しいわけです。だから、「才能がない」と言われることを極度に恐れる。「努力が足りない」と言われる方がマシだと。その行き着く先がニートです。

必要なのは才能ではなく努力

才能なんかなくても、何の取り柄もなくても、ただこの世に存在しているだけで個として尊重されるのが本当の個人主義です。個性尊重です。

その上で、各人は何かに向けて努力する。何かとはつまり幸福追求です。まずは着て食って住むためのものを手に入れる努力。それ以上は、お金が欲しい人は稼げば良いし、ギターが上手に弾けることが幸福なら練習すれば良い。これこそが、個性の尊重だと思うのです。

我々が克服しなければならないのは、「努力信仰」ではなく「才能信仰」の方です。

努力すれば成功するとは限りません。努力など不要なほど恵まれた境遇ならそれも結構。しかし、努力によって得られるものは、世間の人が思っているより大きいのです。

小倉城とライトアップの是非

夜の小倉城です。

小倉城-夜
F1.8, 1/13秒, ISO-1600, AWB

手持ち、マニュアル露出。最近、感度を上げることを覚えました。
ええ、いまさらです(笑)

ライトアップは是か非か

城は、夜になれば闇に沈み、ただ篝火や月や星の明かりに微かに照らされるのが本来であろうとは思います。歴史的建造物のライトアップは不自然と言えば不自然です。しかし、現在の小倉城は昭和34年に再建されたものです。見せてなんぼ人が集まってなんぼです。

ライトアップによって僅かでも地域が活性化するならどんどんやったら良いのではないでしょうか。最近はLEDが使われているので消費電力も微々たるものです。

そういう意味で、先日写真を載せたニッカウヰスキーの倉庫のライトアップの試みは、企業の社会貢献として個人的に高く評価しています。

感謝の気持ちを込めてウイスキーを飲もうかと思います。

デブでそんなに悪いのか

先日、ある人が「吉野家にはミニ牛丼がない、並では多すぎてデブになってしまう」と言っているのを聞いて愕然としました。男性ですよ。私の感覚では吉野家の並は少なすぎるのですが。

そこで、吉野家のサイトで確認すると、

牛丼

なるほど、セット前提のミニ牛丼はありますが、単品では並が最小のサイズのようですね。気になるカロリーは 674kcal だそうです。結構ありますね。でも、大の男が気にするほどとは思えません。

デブでそんなに悪いのか

冒頭の男性の発言が示す、太ることへの過剰なまでの抵抗感はどこから来ているのでしょうか。

もちろん、太りすぎは健康に悪いし、見た目も良くありません。スリムな方が良いにきまっています。しかし、昨今の「肥満恐怖症」とも言うべき現象が、これほどまで広がっているのは異常です。

恐らく、時代の閉塞感を反映し、肥満者差別が先鋭化しているのが原因でしょう。

デブは醜くて存在しているだけで不快だとか、死ねば良いとか、とにかく酷い。

「チビやハゲはどうにもならないが、デブは本人の努力で防げる。そうしないのは本人が悪い」という、一見もっともらしい理屈をこねる人もいます。確かに、差別を「本人の意思では変更不可能な属性を攻撃すること」と定義すれば、デブ差別は差別ではありません。

が、国籍差別はどうなんでしょう。特定の宗教の信者の差別は? 国籍も宗教も「変更不可能」ではありませんよね。でも、変更しなければならない謂われはないし、これらはやっぱり差別に他なりません。

肥満に対する場合も同じです。要するに、「人は痩せる努力をすべき」という信念を持つのは勝手だが、それは誰かを傷つけて良い理由にはならない、ということです。

為末大「努力すれば成功する、は間違っている」は正論か

今更ですが、少し。

アスリートに限った話ならその通りだと思います。ましてオリンピックでメダルを取ろうというなら。

しかし、そんな大それた夢ではなく、市民マラソンで完走する、入学試験や資格試験に合格する、1000万円貯める、などは誰でも「やればできる」範囲です。この程度のことさえ「運」や「素質」がなければできないと思っているのなら、あまりにも自分を見くびりすぎです。

確かに、何の努力も必要とせず、親の七光りか何かで世渡りする人間も居るには居ます。でも、他人を羨んでも始まりません。

私の観察では、不可能な夢を追い続けて人生を無駄にする人はめったにおらず、むしろ、やれば可能なことをやりもせずに諦めてしまっている人が殆どのように思われます。

時代の空気を反映してか、為末さんの説を援用して、「だめだめ、努力なんて無駄、どうせオレなんか……」と言ってる若者が多いのは残念なことです。

やればできますって。やってみましょう。

八幡しらずの森はどこ?

数学者、高木貞治の「数学小景」に、

八幡不知、あるいは、やはたしらずの藪、と言っても、若い読者には、意味が通じないかも知れない。

という記述があります。この本が出たのが昭和18年であることを考えると、そのころの若い人、つまり大正、昭和初期生まれの人の間でも既にあまり使われていなかった言葉のようなので、平成も26年を数える今となっては、知らないのが普通でしょう。

実際私もこの本を読むまで知りませんでした。広辞苑には「やわた-の-やぶしらず」として載っており、

八幡にある藪。八幡不知森(しらずのもり)ともいい、ここに入れば再び出ることができないとか、祟たたりがあるとかいわれる。転じて、出口のわからないこと、迷うことなどのたとえ。やわたしらず。

となっています。

で、その八幡がどこかなのですが、よく調べもせずに、今日の今日まで京都の八幡市だと思っていました。そっちの方が有名だし。

ちなみに、八幡という地名は北九州市にもあって「八幡製鉄所」で有名ですが、こちらは「やはた」なので違います。

正解は、千葉県市川市八幡ですね。小学館の「故事ことわざの事典」に

千葉県市川市八幡に、迷いこんだら出られないといわれた「八幡の藪知らず」と呼ばれた藪があったところから、はいると出口のわからない藪。転じて、はいり込むと出口のわからないこと、迷うことをたとえていう。

とあることから明らかです。というか、Wikipedia にはっきり書いてありました

八幡しらずの森

現在では「森」は18m四方ほどにすぎないそうですが、写真(Wikipediaより。パブリックドメイン)で見ると雰囲気ありますね。

火斑ができてしまった

ちょっとグロいのでお見せできませんが、脛に火斑(ひだこ)ができてしまいました。それも、去年というか一昨年の冬からある一年物です。

火斑というのは火に長時間当たっているとできる斑点のことです。

折からの原油高騰とそれに伴う電気代の値上げに対抗するために、足下に反射式の電気ストーブを置いていた結果、こうなってしまいました。「エアコンで部屋全体を暖めるなど愚の骨頂!」とばかりに意気揚々と部分暖房を導入したのですが、思わぬ落とし穴でした。

ただ、私のようにやり方を誤らなければ、足下だけを暖めるのは良い節電になるはずです。

なまはげ

なまはげ
(c) Douglas P Perkins

そこで思い出したのが秋田県の男鹿半島に伝わる「なまはげ」です。聞けば、なまはげは、長時間囲炉裏に当たっている怠け者の火斑を刃物で剥ぐという意味合いがあるそうです。

今は大晦日に行われますが、昔は小正月の行事でした。奇しくも今日は小正月。私の火斑もはぎ取って欲しいものです。

痒いのです……。

淡きこと水の如し

NHKの大河ドラマで「軍師勘兵衛」をやっています。黒田勘兵衛は九州にはゆかりの深い人物です。

黒田勘兵衛彼は晩年、出家して「如水」と号しました。文字通り水の如く柔軟でありたいという意味でしょう。出典ははっきりしませんが「孫子」ではないかと言われています。

恐らく黒田如水の出典とは異なりますが、有名な言葉に「君子の交わりは淡きこと水の如し」というのがありますね。こちらは「荘子(そうじ)・山木篇」です。

小人に限って、ぐずぐず、べたべたと付き合うものです。やれ忘年会だ、新年会だと言っては三次会、四次会まで行ったりですね。

我々のような君子は、サラッと淡泊にいきたいものです。いえ、飲み会に誘われないから僻んでるわけじゃありませんよ。