貰えるものは何でも貰う

昨日、スーパーで「ガンバロー!」の子の話を書いていてふと思いましたが、レジの担当者って歩合制なんでしょうかね。つまり、捌いた人数によって給料が変わるのでしょうか。

今は値段や品目はバーコードをピッとするだけだし、お釣りも自動的に計算されて出てくるようですが、やはり大変な仕事であることに変わりはありません。

それなのに、レジの人はたいてい実にテキパキとやっています。もし固定給だとしたら、私ならできるだけゆっくりやって怠けようとします(笑) やはり、歩合制なのでしょうね。

それと関係あるのかないのか分かりませんが、人によって仕事の丁寧さが違いますよね。

私はいつも同じスーパーに同じ時間帯に行っているので、自然店員とは顔見知りになります。あるおばさんなどは、豆腐のように冷たいものは結露しないように別の袋に入れてくれるし、総菜を買うと黙って箸を二膳入れてくれます。別の若い男性はそういう気遣いは一切してくれません。

年齢や性別による違いもあるでしょうが、上述のように給料が変わるとすれば、おばさんがやっていることはお客さんを増やす工夫なのかもしれません。レジを待つ列の長さが同じなら、「あっ、あのおばさん箸くれるからあっちに行こう」ってなりますからね。

まあ、割り箸などいらないという人もいるかもしれませんが、私は貰えるものは何でも貰うタチなので(笑)

間違っているのは先生だ

先日、かけ算の順序について書きました。今日はもう少し敷衍してみたいと思います。

私は基本的に順序強制に反対の立場です。しかし、教育の現場では順序にこだわった方が教えやすいということは理解できます。

かけ算の概念を教えるとき、最初は足し算の繰り返しから教えるはずです。例えば、饅頭を3つずつ5人に配る場合。

3 + 3 + 3 + 3 + 3 = 15

で、答えを求めます。そして、3 を 5 回足すかわりに

3 × 5 = 15

とするのだと教えます。3 + 3 + … を 5 回であって、 5 + 5 + … を 3 回ではありません。

ですから、生徒が教わったとおりに式を立てれば 3 × 5 = 15 になるはずで、 5 × 3 = 15 とはなりません。

考えてみると世の中にこういった「お約束」は数多くあります。自分の経験で言えば、自動車学校では二輪車に乗るときはまずスタンドを上げてから跨がるのだ、と教わりました。スタンドを上げ忘れて走り始めると非常に危険だからという理由です。

しかし、実際免許を取って路上に出てみると、皆、跨がってからスタンドを上げています。白バイでさえも。要するに、スタンドを上げ忘れさえしなければ順序はどうでも良いというのが本音なのですね。

話をかけ算の順序に戻すと、3 × 5 = 15 でも 5 × 3 = 15 でも良いということは、跨がってからスタンドを上げようがその逆だろうが構わないことに似ています。

ただ、似てはいますが、バイクのスタンドの上げ下げは交通という「社会のルール」であるのに対し、かけ算の順序は数学という「自然科学のルール」であるという点で決定的に異なります。

数学の世界では、先ほどの饅頭の計算を 5 × 3 = 15 とすることは正しいのですから、「1つぶんの数 × いくつ分 で式を立てましょうね」という教室内のお約束を優先するべきではありません。

せいぜい、口頭で注意する程度に留めるべきで、テストでバツを付けるなど論外です。

一番心配なのは、5 × 3 = 15 でバツをもらってきた子の親が、「お前は間違っていない、間違っているのは先生だ」と言うであろうことです。親の人情としては当然ですが、人生の早い時期に教師を侮ることを覚えるのは子供にとって大きな損害です。

やはり、かけ算の順序は強制すべきではありません。

年賀はがき

郵便局ではいまだに年賀状のノルマがあるそうです。局員の方から直接聞いた話では、その人のノルマは10,000枚だそうで、さらに他人の分まで引き受けているそうです。

まあ、その人は話しが上手で顔も広そうなので大丈夫だと思います。実際、12月の初旬ですでに8割は捌けていると言っていました。

しかし、悲惨なのは口べたで交際範囲の狭い人間です。そういう人はノルマも少ないのかもしれませんが、それにしても一応は達成の努力をせねばならず、自分で買ってしまう、いわゆる「自爆」も多いと聞きます。私もどちらかというとそのタイプなので、身につまされます。

そうやって大量に仕入れた年賀はがきを出しまくれば、交際範囲も広がる……ならば良いのでしょうけど、人付き合いの上手下手は生まれた時からの性分ですから、なかなか急に知り合いが増えるというわけにはいかないでしょう。

郵便屋さんは親方日の丸で(今は違うけど)食いっぱぐれがないし、黙々と仕事をこなせば良いようなイメージですが、やはり対人スキルは必要なようです。

竈猫

歳時記には冬の季語として竈猫という言葉が載っています。

昔は、まだぬくもりの残る竈(かまど)、庶民の言うへっついで猫が寝ていることはよくあったようです。

朝、炊事のために猫を竈から追うことに「季節」を感じ、詩文へと昇華させるとは、昔の人の何とゆかしく、芸術的なことでしょう。

何もかも知つてをるなり竈猫

富安風生

現代で言えば、車のボンネットの中に猫が入り込むのに似ていますね。

かけ算の順序

定期的に話題になることの一つに、「学校教育においてかけ算の順序を強制すべきか否か」があります。

強制すべきとする人々は、1つぶんの数 × いくつ分 の順で式を立てなければならない、と主張します。かけ算の概念をそのように教えるからです。彼らによれば、「5つの皿に饅頭を3個ずつのせた。饅頭は全部でいくつか」という問題に、5 × 3 = 15 と答えるのは誤り、となります。

また、彼らは「乗算の交換法則は計算のルールに過ぎず、まずは正しい式の立て方を教える必要がある」とも言います。なるほど。

しかし、しかしですよ、仮に 1つぶんの数 × いくつ分 の順を守るとしても、皿に1個ずつ饅頭を置いていくと考えると、5個で1巡し、3巡したところで終わるので 5 x 3 とすることも可能なはずです。「1個ずつ配るのはナシ」とでも言うのでしょうか。

確かに、子供は問題文の意味をよく検討せずに、「今、かけ算を習ってるから、出てくる数字をかけ算しておけばいいんだろう」的な発想でやってしまうことがあります。教師には、生徒がきちんと文章を読んで理解した上で式を立てているかを見極める必要はあります。

しかし、「1つぶんの数 × いくつ分の順になっているか」などといったことは生徒の理解を推測するよすがに過ぎず、本当に理解しているかを調べるにはもっと緻密な考査が必要です。メルクマールに過ぎぬものを教師が勝手に規範にまで昇格させるのは不当です。

それに、生徒は割り算を習う時点で嫌でも順序について意識せざるを得なくなります。その時に、遡って、かけ算や足し算は交換法則が成り立つけど引き算や割り算はそうではないことを理解すれば十分です。

かけ算の順序にこだわることに意味があるとは思えません。

「花燃ゆ」は国粋主義とフェミニズムを如何に融合させるか

久しぶりに山口県の萩市に行ってきました。来年の NHK 大河ドラマ「花燃ゆ」では吉田松陰の妹が描かれるそうで、旗や幟がたくさん立っていました。

松下村塾

松下村塾です。さすがにここには幟は立っていませんでした。

それにしても、このような小さな学舎から高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋といった俊英が巣立ったという事実には驚きを禁じ得ません。

菊屋家

豪商、菊屋家などが並ぶ一角。立派な白壁です。

猫

猫発見。

フェミニズムと国粋主義

凡そ皇国に生まれては、宜しく吾が宇内に尊き所以を知るべし

吉田松陰が親戚の子の元服にあたって与えた「士規七則」の一文です。

明らかに、松陰は明治以降の日本国粋主義の源流の一つです。そして、彼が妹を娶せた久坂玄瑞もまた、勤皇の志士達の中でも最も先鋭的な一人です。

私は長いこと NHK の大河ドラマは見ていません。しかし、いわば右翼の神様である彼らと、二人を結ぶ松陰の妹・文(ふみ)が、どう描かれるのかには少し興味があります。

世間では国粋主義とフェミニズムとは水と油のように言われますが、実は意外に親和性があると思っているからです。

お国の大事と聞くからは 女ながらも武士の妻
まさかの時には しめだすき

長州に伝わる祝い歌の一節です。

「花燃ゆ」の脚本家は二人、いずれも女性だそうです。フェミニズムに偏りすぎては怖いおじさん達に凄まれ、国粋主義に傾けば怖い自由の闘士達に怒られるという難しい仕事でしょうが、お手並みを拝見したいと思います。

もう少し萩の写真があるので、例によって2回に分けます。

もしかして、マイルドヤンキー?

先日携帯の機種変更をしたときの、店員の一言が心に残りました。いや、そんな大層な話でもないのですが。

その言葉とは、私が新しい携帯のケースを選んでいるときに言われた、「本体が黒なので、こちらのゴールドのなんかオラオラでいい感じですね」というものです。

オラオラって……。もしかすると、店員は私を今流行りのマイルドヤンキーと思ったのかもしれません。その時偶々ジャージを着ていましたし(笑)

そういうわけで、自分のマイルドヤンキー度について考えてみました。マイルドヤンキーの特徴は次の5つだそうです。

  • EXILEが好き
  • 地元(家から半径5km)から出たくない
  • 「絆」「家族」「仲間」という言葉が好き
  • 車(特にミニバン)が好き
  • ショッピングモールが好き

うーむ、EXILE はよく知らないし、遠くへはむしろ行ってみたいですね。車は好きだけどミニバンは好きではないし、ショッピングモールは苦手です。

あと、余談ですが、exile とは英語で亡命ないし亡命者のことです。そういう境遇に憧れてグループ名を定めたとすれば、そのファンが地元から離れたくないというのはある種皮肉です。

かろうじて当てはまりそうなのは「絆」「家族」「仲間」という言葉が好き、ということです。しかし、実際それらを重んじているかは別として、「家族」や「仲間」を大事にすべきというのはごく当たり前の道徳であって、別にマイルドヤンキー固有の価値観ではないでしょう。

どうやら私はマイルドヤンキーではないようです。強いていえばヤンジーでしょうかね。

紅葉、コムラサキ、ユリオプスデージー

秋も深まってきました。

紅葉

通りすがりの神社。きれいに手入れされていますね。カメラを持っていなかったので iPhone6で撮りましたが、なかなか良い写りです。

紅葉

これは別の日、別の場所。EOS 70D で撮っています。よく見ると萎れた葉も幾つかありますが、それも味ですね。

紅葉

小紫

この南天のようなのはコムラサキです。

ユリオプスデージー

ユリオプスデージー。放って置いても良く育つ花です。

足のマニキュアって……

昔々、ドイツ語の先生が言っていたことです。とある百貨店で、ペディキュア用のエナメル液を「足のマニキュア」として売っていたそうです。

当時はペディキュアが一般的ではなかったので無理もありませんが、「足のマニキュア」というのは英語の素養がある人から見ると非常に奇妙な表現です。

英語では手の指を finger、足の指を toe と呼んで区別します。同様に mani- ( manu- ) という接頭語は手に関係し、pedi- という接頭語は足に関係するのです。

英語に限らず印欧語では例外なく手の指と足の指とは別の単語になっています。

「足のマニキュア」の違和感を伝えるのは難しいのですが、靴下のことを「足の手袋」と言うのに近い、と説明すると分かっていただけるでしょうか。

もっとも、カタカナ語が元の言語と微妙に、あるいは全く異なる意味で使われるのは良くあることで、日本では「マニキュア」とは「爪に色を付けること」と理解されているとすれば、「足のマニキュア」も、さほどおかしな表現ではないのかもしれません。

ちなみに、今確認したところWikipedia日本語版でも

ペディキュア(Pedicure)は、マニキュアの一種で、足の爪や足そのものの見た目をよくする方法のひとつ。

となっていますね。

レンズ交換式カメラはまだ売れる

今年の3月にカメラを買いました。いわゆる増税前の駆け込み消費というやつです(笑)

EOS70D

半年あまり使ってみて思ったのは、やはり値段だけのことはあるということです。

桜

これは買って最初の1枚。後ろで木漏れ日が玉ボケになっているのは一眼レフならではの効果です。

チューリップ

これもごく普通の花壇なのですが、ボケのおかげで背景が整理されてチューリップが際立っています。

緑

これも。

猫城址・臥牛

これは猫城趾と呼ばれる小山の麓にある臥牛の像です。ざらざらとした質感が良く出ていると思いますがいかがでしょう。

スマホによってコンパクトデジタルカメラが駆逐されつつありますが、レンズ交換式はまだまだ需要がありそうです。少なくとも私は買って満足しています。