元英大尉墓参に思う

スラバヤ沖海戦で乗艦が沈められ、漂流していたところを日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」に救助された元英国海軍大尉サムエル・フォール氏が来日し、「雷」艦長だった工藤俊作・元海軍中佐の墓前を弔ったとのことです。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081207-OYT1T00499.htm

考えてみると、私たち日本人こそ、フォール氏以上に故工藤俊作氏に感謝しなければならないのかも知れません。日本の良いイメージを世界に広めたわけですから。今時の人のように「なんとかしてイメージアップするぞー」と色々と策を弄しても決して出来ることではありません。工藤氏の身体に染みついたシーマンシップのなせる技であったことでしょう。

矢内原忠雄は、かの『武士道』を通じて欧米の知識人に日本道徳を宣揚した新渡戸稲造を評して、「三軍の将に匹敵する」と述べました。工藤氏を含め、数多くの模範軍人の方々が現代に生きる我々に与えて下さった恩恵もまた同じように大きいように思います。日本軍が、一部の人々がふれ回っているように「血に飢えた殺人鬼の集団」であった、とされてしまうのと、「いや、工藤氏のように立派な人も居た」というのでは大きな違いです。

ところで、冒頭に引用した読売新聞の記事では、「昭和戦争」という言葉が使われていますが、これって一般的な言い方なのでしょうか。確かに、よく使われる「太平洋戦争」では、中国・インドシナ・ミャンマーなどでの戦いを無視するような形になるし、「大東亜戦争」は、当時の軍部が大東亜共栄圏を標榜していたことから戦争賛美に繋がるといった批判があります。
その点、「昭和戦争」という言い方は分かりやすいかもしれません。ただ、日本独特の年号ということで外国人には通じないのが難点ですね。筆者としては「大」をとって「東亜戦争」が一番良いのではないかと思うのですが。

不正乗車ってそんなにいけないこと?

25歳の会社員がmixiで不正乗車の体験を綴って問題となっているそうです。ただ、不正乗車といっても、記事を良く見るとこの会社員の行為は所謂100円旅行であって、極めて軽微な犯罪です。
100円旅行とは何かというと、最寄りの駅までの切符を買い、ぐるーっと遠回りをして最後に出発地の隣の駅へと戻ってくることを言います。(従って現在では100円以上かかります)
もちろん、不正は不正です。良くないことです。それをいけしゃあしゃあとmixiに書くとは本当に大馬鹿野郎です。

でも、ですね。そんなに大騒ぎするようなことなんでしょうか。100円旅行というのは、キセル行為や乗車券の偽造・変造に比べて経済的意味が殆どありません。なにしろ、途中で降りることはできず、常に最後は出発地の隣の駅で降りることになるのですから。無論、そいつのせいで電車が多少混むということはあり得なくはないですが、現実には空いている時間・路線を選ぶでしょうから実質的影響は極めて少ないはずです。

要するに暇人のイタズラの域を出ない行為なわけです。
以前問題になった、チューリップの茎を傘でちょん切った奴に似ていますね。あまり誉められた行為ではない。しかしながら、一々報道するようなことではないだろう、と言いたいのです。
無論、ブログやSNSで自分の犯罪を披露して炎上を招いてしまう人が後を絶たないのはなぜか、という問題意識を持つことは悪くはありません。が、上記の記事のように社会学的視点を欠いたまま「罪の意識はなかったようだ。」などと非難するだけに留まっていては無意味です。

もう随分前の事件ですが、バレーボールの全日本監督が海外遠征の際に2億円ほど携行したことが問題となったのを思い出します。新聞には「○○監督、2億円不正に持ち出し」という見出しが躍りました。不正に、というと横領か何かをしでかしたように見えますが、実は、外為法で一定以上の金額を海外に持ち出すときは届け出が必要だったのにそれを怠った、というだけの話でした。自分の金を持っていっただけなのです。形式的には違法行為に違いありませんが、わざわざ新聞が書き立てるようなことではなかったはずです。

どうもマスコミは、本当に報道すべきことは脇に置いて、このようにどうでも良いことばかり取り上げるような気がしてなりません。
人の年金を横領した社保庁の職員は放っておいてチューリップ荒らしだの100円旅行だのを厳しく指弾して社会の木鐸気取りとはいい気なものです。そんなことは余程世間が平和で書くことがないときに書けばよろしい。

最後に一つ謝罪を。釣りっぽいタイトルですみません!

国際テロのない世界を目指して

数日前に読売新聞社のサイトで「国際テロのない世界を目指して」というリンクを見かけました。いわゆる政府公報というやつです。

要するにインド洋における海上自衛隊の給油活動がいかに多国籍軍の役に立っているか、を宣伝する内容です。
でも、本当にそれでテロが無くなるのかな? と疑問を感じてしまいますよね。

「テロリスト」(と呼ばれる人達)を殺せば殺すほど、彼らの怨みは骨髄に達してテロは余計に深刻化する、と考えるのが普通ではないかと思います。

例が適切ではないかも知れませんが、かつての日中戦争に対する我々日本人と中国人との認識のズレと同じようなものを感じます。(日中戦争において)多数の一般市民が死傷したことは大変に申し訳ない、しかし、戦闘に於いて国民党軍や八路軍の兵士を殺害したことや、所謂便衣兵狩りついては、戦争だったのだから仕方がなかった、というのが私を含めて大方の日本人の考え方だと思います。しかし、中国側は決してそうは考えない。兵士だろうと便衣兵だろうと全て「日本軍に虐殺された犠牲者」である、と考えるはずです。

アメリカは「不朽の自由」以降一連の作戦によってテロリストを掃討してきた、と胸を張りますが、それは「テロリスト」の一族郎党にとっては、無道な虐殺に他なりません。「アメリカ軍に虐殺された犠牲者」なわけです。(もっとも、イスラム過激派は実は極少数で、大多数の穏健なムスリムからは決して支持されていないそうですが、それはまた別の話です)

さて、上のようなことを考えながら件の政府公報のビデオを見たわけですが、うーむ、なかなか巧く作られていて、途中から「うん、やっぱりインド洋での燃料補給は必要なんだな」と納得させられそうになります。特に若い自衛官たちの高いプロ意識、キビキビと、しかし黙々とした働きぶりは実に頼もしく、大変立派です。
が、しかし、やはりこの活動が国際テロを減らすのに役立っているというのは無理がある、という見方を覆すまでには至りませんでした。

ただ、私は、テロ根絶云々といった大義名分は大いに疑っているものの、基本的に自衛隊が海外で活動するのは良いことだと思っています。一部の左翼は自衛隊の海外派遣がかつての侵略戦争の二の舞への道を開く、などと主張しているようですが、全くのナンセンスです。
むしろ世界各国軍との協働の経験が国際感覚を磨き、世界の軍事的情勢を見極めるのに役立つ、と言えるのではないでしょうか。無論見極めた上で国の舵取りをするのは自衛隊ではなく政治家の役目ですが、国際感覚豊かな自衛官の存在がそのためのプリズムとなるのです。

 

細き雲見る間に流れ後の月

ビジネス・パーソンねぇ

最近、IT雑誌のライターなどが好んで使う言葉に「ビジネスパーソン」があります。

従来ビジネスマンとかビジネスウーマンなどと言っていたのを例のポリティカル・コレクトネスでビジネスパーソンと言い換えたものなのでしょう。

それは良いのですが、このビジネスマンと言う言葉を勤め人という意味で使うのは和製英語的な用法でして、英語の businessman とは主に経営者を指します。
……と思っていたのですが、今ウィキペディアを参照すると、むしろ主として勤め人のことを指すようにも読めますね。

まぁ、いずれにしろ businessman と自称するためには役員もしくは幹部職員である必要があります。平社員が”I’m a businessman.”などと言っていたら失笑を買います。

ある言葉がだんだんと「安く」なるのはよく見られる現象と言えばそれまでですが、ちょっと気になる言葉ではありますね。

気をつけよう! 著作権

先程の記事を投稿していて気づいたのですが、Seesaaブログの記事投稿フォームに「気をつけよう!著作権」というリンクが追加されています。(このブログサービスをお使いでない方には分かりにくい話ですみません)

わけのわからないコピペブログが蔓延している状態ですので、啓蒙のためということなのでしょう。

が、ちょっと違うんじゃないかと思うことが一つ。
「有名人の写真を掲載してもよいですか?」という問いに対して、

有名人の場合、その写真の著作権だけでなく、パブリシティ権も侵害してしまう可能性もあります。許諾を得ていない場合、利用は控えてください。

とのことですが、別に有名人でなくてもパブリシティ権は認められます。否、むしろ一般人の方が有名人よりもパブリシティ権が認められる範囲は広いのです。判例(pdf)は、著名人も通常人も、正当な理由なく、その氏名・肖像を第三者に使用されない権利を有する点において差異はないものの、著名人の場合、報道等の目的でその氏名、肖像を利用されることが通常人より広い範囲で許容される(従ってパブリシティ権が認められる範囲が狭い)と述べています。

実際に問題となるケースは有名人の場合がほとんどでしょうけれども、上記のSeesaaの説明のように「有名人の場合」に範囲を限定してしまうのは適切ではありません。

日曜から始まる? それとも月曜?

fc2ブログで、「一週間の始まりは日曜か、月曜か」というお題が出ていましたので、ここはseesaaブログですがちょっと考えてみました。

お題を見た瞬間、「そりゃ、月曜でしょう」と思ったわけです。もちろん、欧米では日曜が始まりとされていて、現にそれに従って最近のカレンダーは日曜から始まっていることは知識としては知っています。でも、なんかこう、日曜には「始まり」という感じがないんですよね。みなさんも、やっぱり月曜の朝、仕事や学校に出かけるとき一週間の始まりを実感されるのではないかと思います。

似たようなことで、21世紀の始まりは2000年か2001年かという話もありましたよね。ご存知の通りこれは2001年が正しいとされているのですが、2000年から始まると考えた人も少なからず居たようです。これも理屈としては紀元は0年ではなく1年から始まっているのでAC100までが1世紀、AC101からが2世紀、従って21世紀は2001年からというのですが、1999から2000に繰り上がるところで「変わり目」を強く感じるのもむしろ自然と言えましょう。

話を曜日に戻します。
「そりゃ、月曜でしょう」という「感じ」を大事にするのはしかし、私の思考の「癖」みたいなものかもしれません。入学式は桜の咲く四月でなくては感じが出ない、とかいうのと同じ感性ですね。
こういった、「みんなが一週間の始まりは月曜」という「感じ」を持っているので一週間の始まりは月曜である、という言わば日本的コモンセンスは便利と言えば便利なのですが、ややもすると全体主義に堕してしまいがちなのが恐ろしいところです。「一週間の始まりが日曜? 西洋かぶれしやがって! この非国民め!」みたいに。

ただ、日本人が皆均質で互いに相手の考えていることが分かる、という時代はとうに過ぎました。今ではまとまりがなくて困っているほどです。こういう時代だからこそ理非を超越した「日本人的感性」を多少前面に出すのも許されるはずです。やっぱり週の最初は月曜だし、入学式は四月に限ります。
というわけで、私は、「一週間の始まりは月曜」である、と断固主張いたします!
……少々強引すぎでしょうか(笑)

論理のお話

先日の言うを「ゆう」と書いて何が悪いという記事の、

PならばQである
χはPではない
従って、χはQではない

が(なぜ間違いなのか)よー分からんと、オフラインで指摘を受けたので、どう説明すれば分かりやすいか考えてみました。

人は(いつか)死ぬ
ソクラテスは人である
従って、ソクラテスは(いつか)死ぬ

この演繹は正しいですよね。これがですね、

ソクラテスは(いつか)死ぬ
この人はソクラテスではない
従って、この人は死なない

になってしまってるわけです。どう見ても間違ってますよね。
こんなアホな論法使う人間が居るとは信じられないかも知れません。ところが、居るのです。結構多いのです。しかも、間違いを指摘されると「やれやれ、最近の若い人はソクラテスも知らんのか」などと見当外れのことを言う……。困ったものです。

 

盃を傾けながら秋の宵

中国のメダル獲得数が示すもの

北京オリンピックが開催中です。現時点(2008年8月23日)で日本のメダル獲得数は、金9、銀6、銅10の計25だそうです。立派なものです。
開催国中国はなんと、金49、銀18、銅28の計95(現時点)。予想通りの大量獲得ですね。

スポーツについて考えるとき、よく思い出すのが知り合いの韓国人に聞いた話です。終戦後、朝鮮半島にも連合軍が進駐しました。将校たちがテニスをしているのを見て、朝鮮の人達は口々に言ったそうです。

「何をしているのか知らないけど、あんなに汗を流してお気の毒に」

テニスという競技を知らなかったというより、スポーツという概念自体が殆ど無かったのだそうです。私にこの話をしてくれた人は、朝鮮の後進性を示す逸話として半ば自嘲的に言ったのだと思いますが、この話は実は別の面白い視点を提供するのです。

つまり、スポーツとは必ずしも人類普遍の概念ではない、ということです。
例えば、「知のヴァーリトゥード」の庄内さんも言っておられますが、11億もの人口を擁するインドではスポーツは全然盛んではなく、今オリンピックでの金メダルは現時点でたったの1個です。(インド、人口11億人で金メダル1個

思うに、権威ある団体によって結果を測定・記録し、たえずその更新を図るという近代スポーツの精神は優れて西洋的なものであって、オリンピックに参加することは取りも直さず西洋中心の秩序に組み込まれることなのです。

世界システムと華夷システム

世界システム論とは、アメリカの歴史学者イマニュエル・ウォーラステインが提唱した理論で、簡単に言うと歴史上見られる周縁国(植民地・属国)の経済的余剰を中央国(宗主国・覇権国家)に移送する仕組みです。もっと簡単に言うと、トランプの「大富豪」における大富豪と奴隷の関係みたいなものです。中央国になれるとお得なのです。

一方、華夷システムは字面を見てお分かりの通り東アジアにかつて存在した中国を中心とする冊封体制のことです。世界システム論によれば華夷システムも世界システムの一つなのですが、ここでは便宜上、世界システムと言えば、産業革命以降のイギリス・第二次世界大戦後のアメリカが覇権を握ってきたところの近代世界システムを指すことにしましょう。

日本は昔から、あるときは華夷システムの周縁国となり、またあるときは華夷システムから距離を置いてきたわけですが、明治以降、華夷システムから完全に離脱しました。要するに崩壊寸前の華夷システムに見切りをつけて、イギリスを中心とする世界システムに組み込まれることを敢えて望んだわけです。

中国は世界システムの中心を目指すのか

さて、何が言いたいかと言いますと、オリンピックとはつまりそのような世界システムの価値観を支える装置の一つではないか、ということです。通俗的な言い方をすると「国威発揚の場」というやつです。
「参加することに意義がある」とはクーベルタン男爵の言葉ですが、オリンピックに参加したいと考えることは、世界システムに参加したいと考えることにとても近いのです。仮に、世界システムに無関心ならば、オリンピックにも無関心なはずです。おそらく、西太后もオリンピックというものをやっていることは知っていたと思いますが、西戎の奇習として顧みなかったのではないでしょうか。

世界システムの中核を巡る文化体同士のせめぎ合いは、時に極めて熾烈です。かつて日本を含めた列強は覇権を求めて凄まじい争いを演じ、弱国に対して非情に接しました。世界システムに参加し遅れた国、そもそも参加したくなかった国は、植民地として過酷な収奪の対象となりました。
その中で、植民地が欧米列強に対抗するための武器としたのは皮肉にも西洋の思想であり制度であり文物でした。
今日の中華人民共和国が、本質的に西洋思想である共産主義を掲げているのも、そういった文脈によって理解されるべき事柄です。共産主義で理論武装し、しかし改革開放によって資本主義の利点も取り入れつつ、オリンピックを開催してメダルを取りまくる。これらは全て、かつて世界システムに参加するのを拒んで損をしてきた中国が、いよいよ世界システムの中央を目指す意思を明確にしたものと言えます。

中国は東洋思想を復興せよ

中国が国際社会に於ける地位向上を図るのは自然なことです。しかし、かつての日本が巻き込まれた、世界システムの覇権を巡る争いの野蛮な側面を思うとき、今後の中国の動向に強い危惧を抱きます。全体主義という前世紀の亡霊が、13億の民を擁する空前の巨大国家に取り憑いているのですから。

老子や荘子の深遠なる哲理は欧米列強及び日本からの侵略に対して無力でした。儒教も役に立ちませんでした。だから、中国人は共産主義によって対抗しようとしたのです。しかし今や、戦いのための理論は捨て去り、東洋思想を甦らせる時期です。

中国人が孔孟の教えを今ひとたび思い出し、中国が覇道によらず王道によって真に偉大な国となるよう願って已みません。

言うを「ゆう」と書いて何が悪い

2ちゃんねるで、「あぁこの人頭悪いなと思ってしまった瞬間」というスレが立っていたそうで、いろんな「瞬間」が挙げられています。
が、どうも共感できるものが少ないように思えます。単に価値観の相違だろうと言いたくなるようなことや、知識の欠如を以て頭が悪いと決めつけるようなレスが多い。

で、その知識の欠如の具合ですが、例えば

  • キャベツとレタスの違いを知らない
  • 毒舌→どくじた、渦中→うずちゅうなど、読み間違いが多い
  • 「こんにちわ」と書く
  • 言うを「ゆう」と書く

などがありました。
確かにひどいものですが、「こんにちわ」や「ゆう」に関しては、必ずしも間違いとは言えませんよね。
これらは通常「こんにちは」「いう」と表記しますが、皆さん「こんにちわ」「ゆう」と発音している筈です。手元の『NHK 日本語発音辞典』でも「コンニチワ」「ユウ」となっています。つまり、表記と発音とが乖離しているわけです。
確かに、言うを「ゆう」と書く人がみんな一旦乖離した表記と発音とを再び一致させようと敢えてそうしているとは考えられず、ただ現在の表記のルールに無頓着なだけでしょうが、いずれにしろそんなに目くじらを立てるようなことではないと思います。
どうしても「ゆう」が許せないという人は「嘘と坊主の頭は結うたことがない」という駄洒落をどう解するのでしょうか。ちょっと辛辣に言うならば、言うを「ゆう」と書くのは頭が悪いなどと言う人こそ頭が悪いのです。少なくとも頭が固いです。

このように、ものを知らない、読み書きが苦手、といったことは頭の悪い証拠にはなりません。知識は少なくても頭の良い人はたくさん居ます。

私があぁこの人頭悪いなと思ってしまうのは、なんと言っても論理的に間違った言説をごり押しするのを見たときですね。
よく見かけるのが、

PならばQである
χはPではない
従って、χはQではない

とか言う人。PとかQとかよー分からん、という方は

ポルシェは速い
この車はポルシェではない
従って、この車は速くない

だと分かりやすいでしょうか。とにかくこの論法が間違ってることはご理解いただけると思います。
厄介なのはこの論法を使う人はなかなか自分の間違いに気づいてくれないことです。

A氏:「はぁ? 君、ポルシェの速さを知らないの?」
B氏:「いいえ」
A氏:「この車、ポルシェじゃないよね?」
B氏:「そうですね」
A氏:「だから、この車は速くない」
B氏:「それは違います」
A氏:「やれやれ、ポルシェが速いってことも分からん馬鹿とは話にならんわ」

A氏みたいな人に遭遇すると本当に疲れます。

どうも、知性=知識の量、という素朴な考え方が支配的すぎる気がします。かと言って、論理的思考力だけが知性というわけでもありません。上のA氏は理屈には弱くても、実はアイデアマンかも知れません。
思うに、知性とは精神のあらゆる活動領域にわたる能力であって、その評価は極めて幅広く行う必要があるのです。
絵の上手さも知性。歌が上手なのも知性。スポーツなどで体中の筋肉を適切なタイミングで適切に動かせるというのはもちろん知性。ギャグで人を笑わせるなどというのはもう相当高度な知性と言えます。
どういう時にこの人頭悪いなぁと思ってしまうかは、ですから、数ある知性の評価基準の中で自分がどれを重視しているか、と言い換えることが出来ます。
私の場合は論理を重視しますし、芸術的才能を重視する人も居るでしょう。何を以て知性とするかはこのように極めて相対的です。知識だけじゃないんです。

今日は随分、今流行の「上から目線」で偉そうなことを書いてしまいました(汗) まぁ知性の本質をどう理解するにせよ、同じ過ちを繰り返す、学習しない、というのは誰が見てもバカっぽいですよね。
とりあえず、キーボードにお茶をこぼして壊したことが2度もある私の頭がかなり悪いことは間違いないようです(泣)