自動車保険と性別

この前バイクの任意保険を更新したかと思ったら今度は車です。一難去ってまた一難という感じです(笑)

ちなみに、毎回「契約内容の確認」は舐めるようにやっています。肝心なときに保険が下りないということになっては困りますからね。

重要なのは「告知事項」で、これに嘘があったら支払いを拒否されるのは皆さんご存じだと思います。例えば、「契約者が所有・使用し、自動車保険を契約している自動車が9台以下か?」という項目があるのは、「10台以上だと自家用と言いながら実質事業用だろう、そんな車の保険は引き受けかねる」ということでしょう。

非常に興味深いのは「性別」は告知事項になっていないことです。

性別によって事故率が違うのは統計的には明らかですが、男女で保険料が異なると差別として糾弾されてしまうかもしれないので保険会社も二の足を踏んでいるのでしょう。それに、支払いの段になって契約者が本当に女性か(男性の方が事故率が高く、従って保険料も高いので、偽るとすれば男性から女性にであるはず)を「検査」するのも人権侵害と言われかねません。

そう言えば、若い頃、生命保険に入ろうとして「これは告知事項ではなく、任意なのですが、喫煙はされますか?」と聞かれたことがあります。

当時は喫煙していたので正直に「はい」と答えましたが、あれも、保険会社としては喫煙者の保険料を高くしたいのはやまやまだけど、そうすると加入者が減ってしまうというジレンマがあったのでしょう。なにしろ、まだ成人男性の喫煙率が50%以上だった時代でしたから。

最近海外では、遺伝子検査の結果によって保険料が変わる、あるいは加入を拒否されるという問題も起きています。

何が正当な区別で、何が不当な差別なのかは容易には論じられません。

ファンドラップ増額

例のファンドラップを200万円増額しました。半分は定期預金として、ではなく、全額ファンドラップです。前回定期預金した分も、どうせ優遇金利は1年間だけなので、それが過ぎたらファンドラップに回すつもりです。

政府が公然とインフレにすると言っているのですから、現金を持ちすぎることはリスクになります。かと言って、不動産投資は、これから人口が減って土地も建物も余るはずですから見込み薄です。

自分で株取引などできる才覚があれば良いのですが、いまいち自信がないし(もっとも、NISAの枠内でちょこちょこ売り買いしていて、利益は出しています)、何百、何千万というお金を突っ込む勇気はありません。

そういうわけで、ファンドラップです。まあ、手数料は少し高めですが比較的堅実な選択と言えると思います。その手数料も投資額が5000万円以上だと安くなります。1億円以上ならさらに安くなります。まさに金持ちが益々金持ちになるシステムです。私もできればそちら側になりたいものです(笑)

毎日どんちゃんさわぎの対価

昔、豊前中津藩の藩主で小笠原長勝という人がいて、延宝元年(1673年)ごろから鬱病にかかったのだそうです。

家臣達はなんとか鬱病を治そうとして上毛郡幸子村に別荘を建て、長勝を住まわせたのですが、長勝は鬱病のわりには贅沢をする意欲は旺盛だったようで、別荘の部屋という部屋に金銀細工を施した他、浴槽は一辺が八間もあるものを作らせ、絶えず湯を張らせていたといいます。さらに、京大阪から名妓を大勢呼んで毎日どんちゃん騒ぎだったそうです。

こういった贅沢のための費用は日に三千貫に及びました。鬱は鬱でもいわゆる新型鬱だったに相違ありません。

さて、当時米一石が五十匁くらいだった(以上、桐畑隆行「豊前歴史風土記」より)そうですが、では三千貫とは米の価格を基準とすると現代だとどのくらいの金額か、が今日の頭の体操です。

石(コク)は元来重さの単位ですが、米一石と言う場合は体積を表します。約180.39Lです。これは江戸時代初期から殆ど変わっていません。玄米180.39Lは品質にもよりますが約156kgです。

農水省によると平成26年産米の全銘柄平均価格は玄米60kgあたり12,481円です。

従って米一石の現在の価格は

156 / 60 = 2.6

12481 * 2.6 = 32,450 (円)

です。

上記の書物には五十匁としかありませんが、これは銀五十匁という意味でしょう。銀五十匁は銭四貫文ですから、三千貫は銀五十匁の750倍。つまり、三千貫の価値は

32450 * 750 = 24,337,500 (円)

ということになります。

一日2400万円強。かなり粗雑な計算ですが、莫大な費用だったことは確かなようです。

一茶と SNS と人の繋がり

藤沢周平の「一茶」には冒頭、十五歳になる弥太郎(後の一茶)が江戸に奉公に出されるくだりがあります。弥太郎と継母の折り合いが悪く、父親は後妻からやいのやいの言われて仕方なく弥太郎を家から出したのでした。

追い出すような形になってしまった負い目から、父親はずっと弥太郎のことを気にかけていたのですが、弥太郎は奉公先をすぐにやめてしまい、人を通じて新しい奉公先の米屋に聞いてみると、そこもやめてどこへ行ったかは知らないというのです。

つまり行方知れずです。なにしろ天明、寛政の時代です。消息を知るには江戸に出稼ぎに行く人などに訪ねてもらうように頼むしかありません。一度音信不通になれば、あとはどこでなにをしているやら分からずじまいだったことでしょう。もっとも、一茶はその後帰郷して父親とも再会するのでそこは救いですが。

昔のことだから、と思いがちですが現代でも大して変わりません。

確かに、今は郵便制度が整っているだけでなく、Eメール、SNS など、これでもかというほど人の消息を知る方法は充実しています。

しかし、ふとした拍子に SNS のアカウントが消えていて、メールも不通、住所も電話番号も知らない、あるいは変わっているとなるともうお手上げです。

実際そういうケースに遭遇したことがありますが、生きているのか死んでいるのかも分かりませんでした。まあ、消したくらいだから生きているんでしょうけどね。

SNS による人と人との繋がりは、我々が思っているより儚いもののようです。

小保方氏への罵詈雑言に思う

STAP 細胞が存在するかを検証する実験は打ち切りとなり、小保方晴子氏は理研を辞職するそうですね。

税金を使った研究がインチキだったことは国民としては怒るべき事で、彼女への同情はありません。

しかし、巷での罵詈雑言には釈然としないものがあります。いえ、別にきれい事を言うつもりはありませんが、たまたま小保方氏が女性であっただけで「これだから女は……」という人があまりに多いのには微妙な気分になります。まるで論文を捏造したことのみならず、女であることも罪の一つであるかのようです。

たまたま女性であったと書きましたが、世間では女だからこそこういうことが起きたと言っている人が大勢います。つまり、女の魅力で理研の上司を籠絡したのではないかというわけです。そういう人は何のことはない、自分が同じ立場なら魅力的な女性を依怙贔屓すると告白しているようなものです。

女性の時代と言われる割に、目立ったことをした女性への風当たりはかくも強い。彼女の場合、悪いことで目立ったのだから仕方のない面もありますが、似たようなことをやらかした森口尚史氏はここまでは叩かれませんでした。

もう少しほとぼりが冷めたら、当初のマスコミによる「リケジョ」などという奇妙な持ち上げ方も含めて、一連の出来事を女性差別の視点から検証する必要がありそうです。

間違いメールの増加と、PCの終焉

最近、間違いメールをよくもらいます。一番多いのは日本予防医学リスクマネージメント学会のメールで、どこそこでシンポジウムがあるだとかを知らせるメールが盛んにやってきます。私は医者でもなんでもないのに。恐らく知り合いの誰かの「連絡先」から私のアドレスが紛れ込んだのだと思いますが、心当たりがありません。

まあ、それは良いのですが、気になるのは他にも企業等からのメールで社内の誰かへの Fw: がそのまま引用されていたり、直接来たのと CC とで同じメールが2通あったり、ケアレスミスと思われるものが増えていることです。

考えてみると、メールという連絡手段もやや廃れつつあり、使い方に習熟している人も減ってきているのでしょう。

確かにメールは LINE や SMS に比べて即時性がないし、引用の方法だの署名の仕方だのややこしい決まりがあり、しかも、スパムの増加で S/N 比も低下しています。

PC が終焉を迎えつつあるように、もうメールの時代も終わるのでしょうか。

そうだとすれば残念なことです。「電話するほどではないけど手紙では遅すぎる」という場合にメールはちょうど良いのですけどね。それに、相手が開封したかどうかを知る仕組みも一応ありますが一般的ではないので、「なぜ、メールを見たのに返事しないの!?」と責められることも通常ありません。

そのうち「LINE や SMS で返信に追われるより昔ながらのメールの方が良かったなあ」などと嘆いて、若い人から年寄り扱いされるようになるのかもしれません。

飲み会でゲーム

先日床屋で聞いた話です。

理容師の忘年会で、20代の子がスマホのゲームをしながら飲んでいたのでびっくりしたのだそうです。それは確かに驚きですね。

まあ、飲み会自体、若い人はあまり参加したくないようだし、「おっさん達に付き合ってやってるんだから、片手間に好きなことをして何が悪い」ってことなんでしょう。

私も同調圧力が大嫌いで、空気など読みたくない性格です。「好きなことをして何が悪い」と常々思っています。でもね……。みんなで飲んでるときに横でピコピコってのはちょっと違う気がします。

例えばですよ、その20代の子の身内に不幸があって、その葬式に私も列席しているとします。で、読経が続く中、私がいきなりスマホを取り出してゲームに興じ始めたら、その若者もさすがに怒ると思うんですよね。

ちょっと例が極端すぎますが、要するに今の時代であっても多少は「場所柄をわきまえる」必要があるのではないかということです。