橋下知事の誤算

大阪市役所での橋下知事と在特会の桜井誠会長の会談のビデオを見ました。

なるほど、聞いていた通り怒号が飛び交い、話らしい話もせずにすぐに終了してしまいましたが、二つの点で興味深く感じました。

一つ。桜井氏はなかなかタフだったということ。恐らく、橋本知事の思惑としては、ヘイトスピーチを行うけしからんやつをピシッと叱って、府民並びに国民に対して良いところを見せようというものだったはずです。

しかし、会談の印象は、橋下知事も桜井氏も同レベル、下手をすれば桜井氏の方が立派だったという感じです。敏腕弁護士として知られる橋下知事にとっては思わぬ結果でしょう。

二つ。ヘイトスピーチとは何なのかということ。桜井氏が何か言おうとしているのに、再三橋下知事が「おい、お前!」と遮るのは実に見苦しい姿でした。

橋下側は「桜井氏に独自の主張をさせないために、敢えて遮った」と言いますが、本来であればまず話を聞いた上で、「それはね、かくかくしかじかの理由でヘイトスピーチに当たるから言っちゃダメだよ」と諭すべきです。

ハナから「こいつの言ってることはヘイトスピーチ」と決めつけて、だから聞く耳持たぬというのではそもそも会談など設ける意味はありません。

ヘイトスピーチに関しては今後数回にわたって書いていこうと思います。

誰がドミノ辞任を望むのか

自民党の小渕優子経済産業大臣と松島みどり法務大臣が辞任しました。一連の騒動、特に松島大臣を追求した蓮舫議員のしたり顔は見物でした。

一般論からすれば、閣僚2名の辞任は内閣にとって痛手と言えるでしょう。しかし、私はこの事態が安倍政権にとってむしろ追い風にすらなりうると思っています。当然民主党にとっては向かい風です。

一体世の中の何パーセントの人が、「うちわの追求、よくやった! えらい!」などと言っているのでしょう。元々民主党を支持している人でさえ、くだらないことで大騒ぎした挙げ句自身もうちわ的なモノを配っていたことが露見した蓮舫議員には失望しているはずです。

そう、うちわを配るくらいはみんなやっていることです。我が家には「県会議員〇〇〇〇」と大書してある爪切りまであります。

ただし、みんなやっているから良いとは言いません。悪いことは悪い。

だから、蓮舫議員はまずは自分がモノを配るのをやめるべきでした。それもこっそりやめるのではなく、宣言した上でです。そうしておいて、他人を追求するのなら少しは筋も通ります。

然るに、「わたしのはタダの厚紙で骨が入っていないからうちわではない」などと強弁するのでは、自分で自分のことを人間のクズだと白状するようなものです。同時にまともな政策論争で勝負する能力がないことも露呈しています。

まあ、これを機会に他の議員諸氏がつまらないことで足下をすくわれないようにと襟を正すならば、この茶番も全くの無意味ではないのかもしれませんが。

「特許は会社のもの」の浅はかさ

特許法の改正が検討されています。

大ざっぱに言えば、会社員が職務中に発明した技術の特許権は会社が取得するというものです。

と聞くと、思い出すのはノーベル賞の中村教授が勤務していた日亜化学工業を訴えたことです。この件に関する世間の評価が概ね「会社が悪い」だったのは、単に判官贔屓というだけでなく、発明とは発明者の能力に負うところが大きいと、皆心の中では思っているからでしょう。

ただ、考えてみると、研究の設備も費用も提供し、その上給料も払っているのですから、その成果である特許は会社のものだ、という考え方にも一理あります。

現に特許法の改正案もその考え方でまとまりつつあります。しかし、やはり、特許が自動的に会社のものになるのはまずい気がします。一見、会社にとって好都合なようですが、世界に通用する研究が行われなくなり、頭脳が流出することで、却って損失となる恐れがあります。

中村教授も特許法改正案を批判しています。

実際に成果を出した中村氏が言うのだから間違いありません。世界的な研究者が、「特許が会社のものになるような制度はダメだ」と言っているのです。

改正案の提出は再考すべきです。

牛丼の価格と最低賃金

某牛丼チェーンのいわゆるワンオペ問題に関して、「政府が牛丼の最低価格を決めれば良い」と言っている人を見かけました。随分思い切った意見です。

しかし、それは賢明な策とは言えません。価格が上がれば売上げが減り、さらなる人件費カットが行われる可能性がありますし、仮に売上げが変わらない、もしくは増えたとしても、従業員に還元される保証はありません。

さらに困ったことに、それが何であれ、政府が価格を統制すると、デッドウェイトロスと呼ばれる損失が発生し、社会全体のパイ(Social Surplus)は必ず減少します。

では、賃金の方を公定すればよいのでしょうか。

いいえ、政府の介入は常に悪です、と言いたいところですが、さすがにそうは言い切れません。

理論的には賃金も「神の見えざる手」によって決まるとき、最も効率的になるはずです。しかし、実際には同じ仕事で一円でも賃金が高ければ明日からでも転職、というわけにはいかないので、「神の見えざる手」は十全には機能しません。

だから、法により最低賃金が定められているのです。

もっとも、私はこの制度(最低賃金による労働者保護)にも疑問を持っています。世の中の人全てが賃金だけで暮らしているわけではありません。例えば、不動産収入があるので食うには困らない人が、どうせ暇だからちょっと働きたいと言う場合。人によっては時給600円で良いというかもしれない。

あるいは、親に養ってもらっている学生がお小遣いを得るために働く場合、仕事のキツさと見合うなら時給500円でも構わないという人も居るでしょう。嫌なら働かないまでです。

端的に言って、最低賃金を撤廃すれば社会全体のパイは増えます。

一考に値する問題です。

ギャンブルの弊害

カジノのついでにギャンブルについてもちょっと語ってみます。

昨日、控除率という話をしました。控除率とは 1 からそのギャンブルの期待値を引いたものです。

例えばサイコロを二つ同時に振って両方とも 1 ならば、つまり博徒の言うピンゾロならば掛け金が36倍になるというギャンブルがあるとします。この場合、期待値は 1、つまりずっと繰り返していけば、損も得もなくトントンになりますよね。控除率は 0 です。

もし、30倍にしかならないとすれば期待値は 0.833 、控除率は 1 – 0.833 = 0.166 、16.6% ということになります。

控除率が低いほど客にとって有利と言えますが、ギャンブルとして健全かどうかはまた別の話です。

日本の自治体が運営する宝くじは控除率が 55% もあり、暴利も良いところです。しかも、パリミュチュエル法といって、売上げの中からまず 55% 差し引いて、残りの 45% を配当する方式です。では、ものすごく不健全かというとそうでもなく、宝くじを買うために借金や強盗をしたという話は聞きませんし、宝くじを買い続けないと手が震える人も見たことがありません。

一方、パチンコの控除率は 10% から 15% に過ぎず、パチンコ経営者に言わせると「良心的」です。しかし、パチンコ依存症で身を持ち崩したという話は良く聞くし、昨日も述べた三店方式の不透明さは別にしても、宝くじよりまともとは到底思えません。

ポイントは自分にとって「当たり」がどのくらいリアルに感じられるかです。宝くじで3億円当たった人はめったに居ません(居ても黙っているというのもありますが(笑))が、パチンコで大当たり(といっても10数万円程度)したことがある人は大勢居ますからね。

リアルに感じられるほどのめり込みやすく、不健全であると言えます。

導入が議論されているカジノについても、その点をどう設計するかですね。

国によっては自国民のカジノへの立ち入りを禁止していますが、日本に於ける議論では、どうやら日本人も遊ぶことが前提になっているようです。それはそうでしょう、不景気とはいうもののまだまだ日本人はお金持ちです。その金を狙わない手はありません。

ただし、そうなると我が国の「善良なる風俗」への悪影響についても良く考える必要があります。カジノにハマって破滅した人がどんな社会不安を引き起こすとも限りません。確かに、ごく少数は大金を手にする人も出てくるでしょう。しかし、それはそれでやはり弊害はあるはずです。

考えてもみて下さい。カジノで大儲けしたなどと聞くと、働くのがアホらしくなってきませんか?

専門外のことを概念だけで分かった気になって語っても良いじゃないか

内田樹氏のカジノに関する発言。

 

これに対して、やまもといちろう氏が、

他山の石と申しますか、専門外のことを概念だけで分かった気になって語ると馬鹿と思われるということを噛み締めながら書くエントリーなんですが。

強烈な皮肉とともに批判しています。が、どこが馬鹿に見えるのか私にはよく分かりません。

毎年830万人とか一人400ドルとかいう数字の妥当性はひとまず措くとして、カジノの利益の源泉は客の負け分と考えることの何が間違っているのでしょうか。

確かに、負け分が全てカジノの利益になると思っているのなら馬鹿そのものです。しかし、内田氏が言っているのはそういうことではないでしょう。

客が突っ込んだ金を全て吐き出すならばいざ知らず、一定の率で控除する以上、客から見た一人あたりの収支は平均すれば必ずマイナスになるはずです。内田氏はこれを負け分と言っているわけです。

そして、その客のマイナスの和を、移項して符号を反転させたものがカジノの収益にほかなりません。ホテルやレストランなどでも多少は利益が上がるでしょうが、カジノそのものから上がる利益に比べれば微々たるものです。

ついでに言えば、「専門外のことに口を挟んでも」良いと思うんですけどね。門外漢が間違ったことを言っていたら、専門家は「間違っている」と指摘すれば良いだけです。馬鹿と思われるだのなんだのといった人格攻撃の方が余程みっともない。

ちなみにカジノ導入の是非に関しては、私の考えは内田氏とは違って、どちらかと言えば賛成の立場です。

既にルーレットやバカラより数段タチの悪いパチンコという賭博が蔓延していますからね。パチンコは少額で始められるわ、どこの町にもあるわで、極めて容易にハマってしまう点、その弊害はカジノの比ではありません。

カジノ導入を機にパチンコの適正化、わけても三店方式という脱法的な手段による換金の禁止が実現すれば、言うことはないのですが。

続・アマゾンばかりが繁栄していて良いのか

昨日書いた「アマゾンが我々の富を吸い上げている」との論には、批判もあることと思います。

中には、「従来の小売業はアマゾン式のインターネット通販に地位を譲りつつあり、前者は滅び去る運命にある」という人もいます。郵便の普及によって飛脚が失業したのと同じというわけです。しかし、私はこの評論家的言説に納得できません。

なるほどアマゾンの繁栄はかつての英国の植民地主義とは違って武力を背景とせず、もっぱらテクノロジーの優位によってなされたものです。ですが、優れたテクノロジーさえあれば他国の文化や生活を破壊しても良いのでしょうか。昨日述べた三角貿易も、英国における産業革命、すなわちテクノロジーの優位によって可能となったことを忘れてはなりません。

マルクスは「資本論」の中で、「(英国産の綿織物によって)インドの平野は綿紡ぎ職人の白骨で染まった(Die Knochen der Baumwollweber bleichen die Ebenen von Indien.)」と書いています。

小売業者とアマゾンとの闘いは、まさしく労働者と機械との闘争(Kampf zwischen Arbeiter und Maschine)の一局面なのです。

テクノロジーの進歩を止めることは出来ませんが、それを我が国の疲弊に繋げず逆に発展に役立てることは出来ます。

国策で「日の丸インターネット通販サイト」を作り、様々な優遇によってアマゾンを駆逐するというのも一つの手でしょう。あるいはより現実的に、アマゾンを狙い撃ちする新税を設けても良いかもしれません。

何らかの対策が必要です。

アマゾンばかりが繁栄していて良いのか

国道沿いの書店だった建物が、最近行ってみると100円ショップに変わっていました。

書店には3種類あって、

  1. ビルの1フロアを占領する大規模店
  2. 駐車場を備えたロードサイド店
  3. 商店街などにある個人経営の店

に分類できます。

体力からすれば1. が一番あるはずですが、大資本だけに、儲からないとなると撤退の判断も早く、いつのまにか消えたりします。

2. は書店である必然性が乏しく、冒頭の国道沿いのヤツがそうであったように、平気で100円ショップやドラッグストアに鞍替えします。

3. は、使命感をもって経営されていることが多く、なんとか続けようと頑張っています。が、いかんせん最も体力が弱く、従って最も苦境にあります。後継者不足も深刻です。

総じて、紙の本は作る方も売る方も苦戦しています。景気が良いのはアマゾンだけといった感じですが、本当にこれで良いのでしょうか。

アマゾンが法人税を払っていないことは問題の本質ではありません。節税のために経理上利益が出ていないことにするのは、どこの会社でもやっています。

一番の問題は、日本が経済的植民地にされてしまうことです。

歴史を紐解けば、英国からインドへ綿織物を輸出し、インドから清国へアヘンを、清国から英国へは茶を、という三角貿易が行われていました。これは(英国にとって)まことに良く出来た仕組みでしたが、アヘンの害は大きく、また、アロー戦争、アヘン戦争で知られるように野蛮な側面をもっていました。

一方、アマゾンが作り上げた仕組みはより洗練されており、一見すると誰にも被害を与えていないように見えます。しかし、小売業を疲弊させ、我々の富を少しずつ吸い上げていることでは同じと言えます。

この考え方はあまりに偏っているとの批判もあるでしょう。しかし、かつて列強が植民地から富を吸い上げたのは事実であり、今後、同じことが形を変えて行われない保証は何もないのです。

アマゾンが「帝国」に喩えられるのは故なきことではありません。

新しい飢餓

「新しい飢餓」とは、一般的には、主にアメリカで低所得者が高カロリーで不健康な食事を強いられ、肥満が増えているとされることを指します。

なぜ「強いられている」という表現を使うかというと、生活保護に当たるフードスタンプで買える食品は脂肪分や炭水化物が多く、太りやすいものばかりだから、だそうです。

しかし、私の考えではこれは飢餓ではありません。食べる量を減らすなり、運動するなり、肥満解消の方法はいくらでもあるし、健康的な食事をするためには別に高級食材を買う必要はなく、工夫次第でなんとでもなります。そもそも生活保護を受ける境遇に陥ったこと自体、怠惰が原因である場合が全てでは無いにしろ殆どのはずです。

本当の新しい飢餓とは

新しい飢餓を心配しなければならないのはアメリカではなく日本です。それも肥満で困るとかいった悠長な話ではなく、文字通りの飢餓です。

マルサスの人口論を引用するまでもなく、世界では人口が増え続けており、食料は足りていません。いや、本当は足りているのですが、供給に偏りがあるために飢餓に陥っている人々がいるのです。

「知ってる。アフリカとかでしょ。気の毒にね。でも、私たちには関係ないよね」と思っている日本人が殆どです。が、我々がその「気の毒な側」に回らない保障は何もありません

食料の大半を輸入に頼る日本は、残念なことに経済的には衰退しつつあります。もちろん、今日や明日、輸入できなくなることはないし、備蓄も多少はあります。いざとなれば国内での増産も可能でしょう。

しかし、我々が不利な立場にあることは確かです。同じように輸入に頼るエネルギーの分野では、原発が止まっているために発電に天然ガスが必要なことを見透かされて、他国の数倍の値で買わされるということが実際に起こっています。

日本がLNGを“ジャパンプレミアム”と呼ばれる欧米の3倍以上の価格で購入したことが、過去最大の貿易赤字の一因となっています。

NHK「クローズアップ現代」

食料はそうはならないと誰が言えるでしょうか。

日本人が飢えても他国は気にしない

冷厳なる国際政治のもとでは、若干の人々が飢えて死んでも殆ど誰も気にかけません。我々がアフリカの飢餓に無関心なのと同じように。

兆候は既にあります。

一連の中国産食品の衛生問題にも関わらず、中国からの食料輸入は止まりません。止めると食料が足りなくなるからです。少なくとも現在の食生活は維持できなくなります。

中国だけでなく、結局のところ、どこの国の人も安全な食品を輸出したいとは微塵も思っていないのです。ただ商売の都合上、明らかな毒を売ると次から買ってもらえないので、一応食べられるものを売るというだけです。

もちろん、もっと高く買ってくれるところがあればためらわずそちらに売ります。あるいは彼らが食べる分が不足すれば、我々がいくら懇願しても売ってはくれません。

田舎に行くと、〇〇何年、近郷餓死者〇百人、などと読める古ぼけた石碑を見かけることがあります。江戸時代の飢饉の供養塔です。日本において、飢饉は過去何回も起きたし、今後も起きる恐れが皆無ではありません。

食料の安全保障について、もっと真剣に考える必要があります。

移民を受け入れるべきでない理由

近年、日本の人口の減少傾向が明らかとなり、移民を受け入れるべきか否かの議論が俄に熱を帯びてきました。

迥寞録では過去に「移民の受け入れより先にやるべきこと」と題してごく簡単に移民についての考えを述べましたが、今回はもう少し詳しく論じてみます。

移民に反対=排外主義ではない

まずは立場をはっきりとさせておきましょう。私は移民の受け入れに反対です。

移民に反対を唱えると、すぐに排外主義だとかゼノフォビアだとかいう非難が返ってきます。しかし、私が移民に反対するのは外国人を差別しているからではありません。むしろ、差別しているのは移民推進派の方です。

移民推進派は「最近の日本人はキツい仕事をしたがらない、だから外国人が必要」と言いますが、これこそ差別の最たるものでしょう。外国人を、というか人間を、単なる労働力としか見ていないから、簡単に「移民で人口減を補えば良い」などと言えるのです。

移民を単なる労働力としてではなく、我々と同じ、日本の未来を左右する意思決定に加わる者として見るならば、安易な議論はできないはずです。

日本とアメリカでは国の成り立ちが違う

また、推進派は二言目には「アメリカでは」と言います。確かにアメリカでは永住権取得から5年居住すれば市民権(帰化)を申請できます。さらに、アメリカ市民と結婚すれば3年で申請できます。

「だから、日本でもそうせよ」と言うのですが、それはおかしな話です。なぜなら、日本とアメリカでは国の成り立ちが全く違うからです。アメリカは移民によって作られた国です。従って、今後も移民を受け入れ続けるのがフェアというものです。アメリカに移民を拒否する権利のある者がいるとすれば、それは原住民だけでしょう。

翻って、我が日本では、殆どの人が「原住民」なわけです。私も、そして恐らくこれを読んでいるあなたも皆、ネイティブ・ジャパニーズです。私達は、移民を受け入れるか否か、また受け入れるとしたらどのような基準を設けるかを決める権利があります。(誤解のないように言っておきますが、ネイティブではない日本人を差別するわけではありません。彼らは国民の代表が定めた法律に基づいて、決められた手順を踏んで日本に帰化したのですから)

もっとも、アメリカに学ぶべき点もあります。それは、新たにアメリカ市民となる人には、アメリカ合衆国への忠誠(Allegiance)が求められるということです。日本には、戦前、国家に対する忠誠が強調されすぎた歴史があり、今も日の丸や君が代に対してアレルギーがありますが、外国人に対して「日本という素晴らしい国の一員になりませんか?」と呼びかけるつもりなら、まずそのアレルギーを治す必要があります。

移民以外にも手はある

移民は一切お断りと言うのではありません。日本の文化と風土を愛し、日本に対して忠誠を誓う人なら、元の国籍が何であれ日本人として認めるし、歓迎します。しかし、そうではない人、日本を愛していない人を労働力の埋め合わせのために受け入れるのは断固反対です。

なるほど少子高齢化は深刻ですが、経済の衰退を食い止める方法は、移民の受け入れ以外にも幾つかあります。イギリスのような金融立国もその一つです。労働力の不足についても、労働集約型の産業は減りつつあり、しかも、従来人間が行っていた作業をロボットが肩代わりしています。

いったん受け入れた移民に「ロボットがあるから、あなたたちはお国に帰って下さい」というわけにはいきません。繰り返しますが、受け入れた以上、移民は日本国民として完全なる権利を持つのです。

慎重の上にも慎重な議論が必要です。