自販機のお釣りの謎

四月からの増税で、自販機の場合缶入りの飲料は130円、ペットボトルは160円くらいが相場になってしまいました。

消費税が5%だったころは120円でしたので、単純に考えて、

x * 1.05 = 120
x = 120 / 1.05
x = 114.286

四捨五入して114円が本体価格であったと言えます。従って、消費税が8% なら、

114 * 1.08 = 123.120

123円が順当ですが、1円や5円は使えないという自販機の仕様から130円に設定されたということなのでしょう。どうも釈然としませんが。

自販機の仕様と言えば、先ほど160円のペットボトルを買おうとして50円玉が無かったので、100円玉2枚と10円玉1枚、すなわち210円を投入しました。お釣りが50円玉で出てくることを期待したのですが、10円玉が5枚出てきました。

なるほど。高額の貨幣はできるだけ温存してお釣りには小さい方を吐き出す仕様なのでしょう。集金の必要回数を減らして効率化するための工夫かもしれませんが、利用者としてはあまりうれしくありません。

いや、うれしくないどころか、再び利用する気が失せてしまうほどです。

モノが売れない時代と言われますが、業者さんには、こういったことを気にする人間もいるということを知って欲しいものです。

ラヴォアジエの非業の死に学べ

先日、「Yahoo! 公金支払い」は「徴税請負」ではないけれど……というようなことを書きました。これについてもう少し敷衍して述べてみたいと思います。

徴税請負とは「私人の計算において徴税を請け負わせること」を言います。

よく誤解している人がいますが、「私人」には企業も含まれます。私人というのは公人と対置する概念で、自然人であるか法人であるかは問われません。株式会社や有限会社は全て私人です。もちろん、Yahoo! も私人です。

次に、「計算において」ですが、これも法律学及びその周辺の学問では良く使われる言葉で、行為の経済的効果がその者に帰属するという意味です。

「Yahoo! 公金支払い」では、私達が払ったお金は一旦Yahoo!の利益になるのではなく、そのまま自治体へと送られます。言い換えれば、Yahoo! の「計算において」ではありません。この点が、「Yahoo! 公金支払い」は「徴税請負」ではないとされる所以です。Yahoo! はあくまで手数料を取っているだけです。

前回も書きましたが歴史上の徴税請負制度は弊害が大きく、「手数料」として法外な金額を取られるのが常でした。

そのため徴税請負人はしばしば怨嗟の的となり、有名なところでは質量保存の法則を発見したアントワーヌ・ラヴォアジエもフランス革命の際にギロチンにかけられました。弁護士はラヴォアジエの化学上の功績を挙げて減刑を乞いましたが、裁判官は「共和国に化学者は不要である( La République n’a pas besoin de savants ni de chimistes. )」と言い放ち、死刑を宣告したと言います。

それほど徴税請負人は憎まれていたということですね。

Yahoo! に話を戻すと、私はそこまで「手数料」に憤慨しているわけではありません。そもそも、複数ある支払い方法の一つに過ぎませんしね。

しかし、21世紀も十と有余年を過ぎた現在に至っても、殆どの自治体に自前のオンライン税収納システムがなく、ネットで払いたければ Yahoo! を通じてしか方法がない、というのも情けない話です。

こういうのこそ国が音頭を取って、システムだけでも作れば良いと思うんですけどね。実際に運用するかどうかは各自治体に決めさせるとして。

徴税の手間も減るし、納税者としても払いやすくなって良いことずくめです。地方の税収が増えれば国としても交付金を節約できます。

政府は物価を上げたがっている

消費増税が実施されて一ヶ月が経ちました。

やはりというか世の中は便乗値上げの雨嵐です。よく見かけるのは増税前の税込み価格+8%になっているパターンです。

例えば、増税前に本体500円、消費税25円、計525円だったものが、本来ならば540円になるべきところ、567円になっていたりします。

しかし、本体525円、税込み567円と言われてしまうと、計算は合っているので引き下がるしかありません。早い話、店としては「いくらで売ろうと自由でしょう。高いと思うなら買わなければ良いのでは?」ということですね。

行政は不当廉売には独占禁止法との関連で目を光らせていますが、基本的に「値上げ」を規制することはなく、事実、過去の増税でも便乗値上げが何らかの制裁を受けた例はありません。

結局のところ、政府は物価を上げたがっているわけで、その流れに乗る便乗値上げはむしろ歓迎ということなのでしょう。

例外は価格表示に問題がある場合で、現在、「転嫁対策特別措置法」によって時限的に外税表示が認められていますが、さすがに本体価格を税込み価格と誤認させるような表示方法はダメということになっています。ところが……

とあるパーツショップで

先日、とあるPCパーツショップでiPhoneのケーブルを買ったときの話です。1,600円と書いてあるので1,600円だと思ってレジに持っていくと、1,728円だと言うのです。

このような完全なる外税表示が認められるのだろうかと思いましたが、とりあえず大人しく払いました。

後で調べてみると、店内の目立つ場所に「当店の価格は全て税抜き表示となっています」などと掲示していれば、一つ一つに税抜きである旨表示しなくても良いことになっているそうです。

私はその掲示を見落としていたのでしょう。

レジで食ってかからなくて良かったと思う反面、何とも釈然としない気持ちが残ります。「目立つ場所」と言いますが、目立つ、目立たないの基準はどこにあるのでしょう?

内税に統一するのが本来ですが、当面外税も認めるとしても、せめて総額を併記するくらいはして欲しいものです。

都庁舎はバブルの塔か

東京都庁
(c) Wiiii CC BY-SA 3.0

早いもので、現在の東京都庁舎が竣工してから23年以上たちます。当時の鈴木俊一都知事のやや強引とも言える手法は反発を生み、世はバブル経済の真っ最中であったことから「バブルの塔」などとも揶揄されました。

なるほど、バブル景気でもなければあのような立派な庁舎は建てられなかったでしょうから、その意味ではまさしくバブルの塔です。

しかし、多額の税金を投入して無駄なものを作った、という意味で言っているとしたらそれは少し違うように思います。丸の内にあった昔の庁舎は、老朽化していた上に手狭で、早晩移転は免れませんでした。

新宿という便利な場所に、多くの機能を集中した超高層ビルを建てることが出来たのは、むしろ「バブルの賜物」と言うべきでしょう。

鈴木氏は東京オリンピック、大阪万博を仕切った

鈴木俊一氏は東京オリンピックの時副都知事で、都政を事実上取り仕切っており、また、大阪万博の時は日本万国博覧会協会事務総長でした。

このようにイベントを成功させることで出世してきた鈴木氏は、新庁舎建設という大きなイベントをもって政治家人生の締めくくりとしたかったのでしょう。

そういう観点からすれば、あの庁舎は鈴木俊一の虚栄心が具現化したものと言えなくもありません。彼の敵にとっては見るのも厭わしいことでしょう。

しかし、都全体、ひいては日本全体から見ると、その動機はどうあれ、よくぞ建ててくれたと誉め称えられてしかるべき業績です。

もし都庁を建てなかったら?

このことは、仮に都庁を建てずに他のことに予算を使っていればどうだったかを考えるとより一層はっきりします。もし、最近の某政党のスローガンのように「コンクリートから人へ」などと都民に配っていたら、バブルを加熱させるだけで何も残らずに終わってしまったことでしょう。

そう、なにかが残ったということが大切なのです。

バブル、すなわち泡沫、あぶく銭です。でも、あぶく銭であっても、それで家を建てたなら賢明です。たとえ一文無しになっても、家があれば夜露をしのぐことは出来ますから。

ギャンブルですったり、キャバレーで豪遊したりして、何も形に残さずにお金を失ってしまえば、それこそホームレスです。

維持費が問題だが……

確かに、現在の都庁は巨大で、また構造も特殊であるために、かなりの維持費がかかるという問題はあります。しかし、古く、建物が分散していた旧庁舎に留まっていたとすれば、さらに多くの維持費がかかったはずです。

あの独特の形が都民にも親しまれ、また観光名所にもなっているという、シンボル的意味合いも小さくありません。

新都庁建設はバブル期のお金の使い方としては決して悪くなかったと言えます。

消費増税に思う

もうすぐ消費税が 8% に上がりますね。

思い起こせば 3% の消費税が初めて導入された時、私はまだ中学三年生。自分で稼いだお金ではないので、小銭のやりとりが面倒くさくなった程度の認識でした。

5% になった時は、上げ幅がさほど大きくないこともあり、「いつの間に?」という感じ。

で、今回ですが、かなりビビっています。「〇〇で増税を乗り切れ!」みたいなことを言う人もいるけど、乗り切るも何も消費増税は一時的なものではなく、来年にはさらに上がる(10%)予定なわけですから。お上の都合で身の回りのあらゆるものが値上げって怖い話ですよね。

例えば、ガソリン。今、リッター155円で売っている店は、4月からは 155 * 1.03 = 160 円に値上げすることでしょう。

かなりキツいです。

村山内閣が 5% に上げることを決定(実施したのは橋本内閣)した時は、福祉のためという名目でした。しかし、あれ以降福祉が充実したという実感はありません。

今度の増税は財政健全化と震災復興のためということなのでしょうが、果たしてそれがどれくらい達成されるのでしょうか。

日本人は納税者意識が希薄だとよく言われます。ですが、消費税が 8%、そして 10% ともなるとそれも変わってくるでしょう。来月以降、税の使われ方に今まで以上に関心が集まるとすれば、増税も怪我の功名となるのかも知れません。

再生可能エネルギー発電促進賦課金の問題点

「日本の全国民から1円ずつ恵んで貰えたら1億2千万円になるのに」と妄想したことがある人は多いと思います。実際それに近いことが行われています。

今、電気料金には「再生可能エネルギー発電促進賦課金」が掛けられています。誰しも電気料金が上がることは嬉しかろうはずもありませんが、負担はわずか(東電の場合 1kWh あたり 35銭)だし、無公害の発電が増えるなら結構なことだというわけで、皆文句も言わずに払っています。

買い取り価格の固定は社会の損失を招く

しかしながら、再生可能エネルギーによって作られた電力を買い取る価格を固定(太陽光の場合で 1kWh あたり 37.8円)するのは果たして得策なのでしょうか。私は二つの点でそうではないと思っています。

言うまでもなく、価格が需要と供給の関係によって決まるとき、最も社会全体の利益が大きくなります。神の見えざる手というやつです。そこへ何らかの政治的操作が加わると、一部の者は得をするとしても、社会全体では必ず損になります。これをデッドウエイトロスと言います。これが第一点。

もう一つは、「自然な価格」よりも高い値段が設定されたことによってメガソーラーなどの再生可能エネルギー発電が「おいしいビジネス」として投資の対象になっていることです。しかも海外のファンドによって買われています。つまり、我々が払った余分なお金が外国人に少しずつ吸い取られているわけです。

これぞ高度に洗練された21世紀版の植民地主義です。

我々は知らず知らずのうちにプランテーションの労働者のように少しずつ収奪されているのです。何とも怪しからぬ話です。

推進するのは良いが、コントロールをしっかりと

上で、価格を政治的に操作するとデッドウエイトロスが生じると書きました。ただ、確かに世の中には背に腹はかえられぬ、ということもあるでしょう。例えば、エコカーに補助金を出して普及を促進するといったことが行われています。再生可能エネルギー発電促進賦課金も同じ発想です。国民の代表がロスを承知で再生可能エネルギーへと傾斜する政策を決定したのならそれはそれで良いと思います。

問題は、我々が余分に負担した金で誰かが甘い汁を吸っていることです。ましてや外国人に吸われてしまってはその富が日本に還流することはなく、国民はやせ細るばかりです。

電気事業の公共性の高さに鑑みれば、大規模な再生可能エネルギー発電に関しては当面国家が株式を保有しコントロールしていくといったことも検討すべきです。

核融合は再生可能エネルギーか

古新聞を整理していると、懐かしい言葉を見つけました。

RPS法

8年前、2006年の記事です。現在では「再生可能エネルギー」と言うところを、当時は「自然エネルギー」と言っていたんですね。

「自然エネルギー」も「再生可能エネルギー」も意味するところはだいたい同じですが、現在では法律(再生可能エネルギー特別措置法)もマスコミも後者を使っています。さらに、「自然エネルギー」でGoogle検索しても、最初に「再生可能エネルギー」が出てきます。石油も石炭もウランも自然界に存在するものを利用しているには違いないので、より明確に「再生可能」と定義し直したのでしょう。

枯渇性資源であるウランを使う現在の核分裂炉が「再生可能」ではないことは論を待ちません。ですが、核融合炉だとどうなるんでしょうね。ほぼ無尽蔵の水素を用いることから「再生可能エネルギー」に含めるのか、それとも含めないのか。

法律ではともかく、言葉として考えると、再生可能とは必ずしも無限であることを意味しないはずです。太陽光だって有限なわけですからね。

であるならば、少なくとも人類が生存する間、枯渇することがないと期待される核融合エネルギーは「再生可能」と言って良いと思います。

天麩羅だのカツカレーだの

先日来の関東甲信越地方の大雪により各地で被害が相次ぎました。そうした中、「安倍総理は都内で優雅に天ぷらを食べていた」と三宅雪子・前衆議院議員を始めとした人々があげつらっています。

 

またか、という思いです。

政府の災害対策に落ち度があるのなら、率直にそれを書けば良いはずです。

例えば、総理は会食を取りやめにして災害救助の指揮を執るという選択もあったでしょう。それならそう書けば良いのです。

しかし、世間は相変わらず天ぷらがどうのこうの、なわけです。要は、多くの人が雪に閉じ込められて寒い思いをしているのに! と感情に訴えるやり口です。

以前は安倍さんがホテルのカツカレーを食ったことが、なぜか非難されていました。

カツカレー

これって、兵隊さんは戦地で苦労しているのにパーマをかけて着飾っているのは怪しからん、とそっくりです。三宅氏は自分のことをリベラルだと思っているのでしょうが、上記の発言はむしろファシズムに近い。

果たして我々は「パーマネントはやめませう」の時代から何ほどか進歩したのでしょうか。どうもそうは思えません。

舛添都知事の「『国防軍』はだめ」発言こそ、戦前の発想

東京都の舛添要一知事は14日の定例記者会見で、自民党が2012年に発表した憲法改正草案について、「さまざまな問題点がある」と批判した。
草案は自衛隊の位置付けをめぐり、9条に「国防軍を保持する」と規定。舛添氏は「『国防軍』はだめで、(明記するなら)せめて『自衛軍』までだ。『国防軍』では戦前を思い出して嫌になる人が出る」と述べた。

時事ドットコム(2014/02/14-17:17)

どうも舛添さんの考えでは、「自衛」は良くて「国防」はダメなようです。

私に言わせれば、「国防軍」でも「自衛軍」でもどちらでもよろしい。なんなら今の「自衛隊」のままでも良いと思っています。大事なのは、いざというときに国民の生命と財産を守る能力があるか、ないかということでしょう。それを自衛と呼ぶか国防と呼ぶかは言葉遊びに過ぎません。

敢えて彼の議論に乗るなら、まず「国防軍」という呼び名が果たして「戦前を思い出させる」ものなのかどうか、この点に疑問を感じます。「皇軍」ならいざ知らず、戦前には存在しなかった「国防軍」なる語のどこが戦前を思い出させるのかよく分かりません。

次に「戦前を思い出す」ことで「嫌になる」という論法。そういう人がいたとしてなんなのでしょう。好き嫌いによって決めるべき問題なのでしょうか。

まあ、言いたいことは何となく分かります。軍部が力を持ちすぎて国がおかしくなった、ということでしょう。

なぜおかしくなったのか。一言で言えば、硬直したイデオロギーが原因です。例えば、統帥権干犯問題。確かに、軍令部の意見を容れずに政府が条約に調印したのは、当時としては「統帥権干犯」となりうる行為でした。しかし、イデオロギーを共有しない我々現代人から見れば、天皇の権威を利用して軍部が政治に容喙した事件に他なりません。大事なのは軍が実際に国家を防衛する能力を持ち得たか否か、だったはずです。統帥権の不可侵性という表面的な理屈ではなく。

そして、現代に生きる我々ならば硬直したイデオロギーから自由でいられるかと言えば、必ずしもそうではありません。

舛添氏の「戦前を思い出させる」発言こそ、そういった硬直したイデオロギーそのものです。繰り返しますが、なぜ戦前を思い出させてはいけないのでしょう。

戦前=悪、という思想。軍隊=悪、という思想。

私には、団塊世代の左翼が二言目には「軍靴の足音が……」と言うのを聞くたびに、「この非国民めが!」と言っているように聞こえます。同じくらい硬直しています。

戦前の我が国の過ちに学びたいならば、「憲法9条を改正して、日本も軍隊を持とう」という意見も、自由に言えるようにならなければいけません。

誰しも目の前の札束には抗いがたい

札束猪瀬直樹氏の辞任に伴う東京都知事選が行われます。

去年は忙しくて書きそびれていましたが、氏が問題の渦中にあるときにはあまりの集中砲火の凄さに、つい気の毒に思ってしまったりもしたものです。判官贔屓と言いますか。

だいたい、「賄賂を受け取った」みたいな印象で報道されていましたが、借りた金を政治資金収支報告書に記載していなかったという政治資金規正法違反の疑いに過ぎません。しかも、同法は会計責任者を罰する法律であって、猪瀬氏自身が罪に問われることはないはずです。

もちろん、会計責任者が猪瀬氏の意向を無視して勝手に記載しなかった、ということは考えにくく、結局のところボスである猪瀬氏には道義的責任があるとは言えるでしょう。

でも、考えてもみて下さい。いやがる相手から無理やり金を巻き上げたんじゃないんです。向こうから頼むから貰って下さいと言って持ってきた金なのです。私なら迷わず貰います(笑)

通常の感覚からすると、やってはいけないこと(≒犯罪)とは、相手のいやがることですよね。ところが、この場合、相手の希望通りに金を受け取ったことが罪に問われているわけです。

この点が、(広義の)収賄が罪の意識を伴いにくい原因です。

繰り返しますが、だから金を受け取ってもしかたがないというわけではありません。一見被害者は誰もいないようですが、実は「政治的な公正」が失われているからです。

猪瀬氏も頭では分かっていたのでしょうが、目の前の札束に抗いきれなかった時点で、都知事としては失格でした。