水泳ノスゝメ

今年に入って水泳を始めました。まだ始めたばかりのくせして人様にお薦めするというのもおこがましい話ですが、実際、心と体の健康にとってこれほど良いことは他にないと思います。

肩こりが治った

大人になると、日常生活で肩より上に腕を持っていくことが殆どなくなります。特にホワイトカラーだとそうです。唯一の例外が洗濯物を干す動作ですが、それすら肩こり解消のためには不十分です。

その点、クロールの動きを思い出して下さい。あれだけ腕をグルグル回すことって日常ないですよね。しかも、水の抵抗によって適度な負荷が加わります。長年悩まされてきた肩こりは嘘のように消え去りました。

子供が肩こりにならないのは、無駄に腕をグルグルしているからに相違ありません。大人の場合は水泳。コレです。

pools

痩せた

やはり、痩せます。週三回、三十分から一時間程度しか泳いでいませんが、4ヶ月で73㎏から68㎏に痩せました。

刺激を受けた

コーチは何人もいるのですが、そのうちの一人は国体優勝、世界選手権にも出場するなど、文句なく一流のアスリートです。

金槌に毛が生えた程度の私などが教えて貰うのはもったいないほどです。教わってもなかなかその通りにできない、鈍くさい自分が恥ずかしくなりますが、まあ良いのです。どれだけ上達するかも大事ですが、それ以上に一流の人間と接して刺激を受けることに喜びを感じます。

目の保養

ちなみに、若い女性のコーチもいます。なんでも20歳だそうで。私はあまり彼女を見ないようにしています。そうしないとずーっと見とれてしまいそうなので。まるっきり怪しいおっさんですね(笑)

ストレス解消

現代人にとって怖いのが鬱病です。どこかで聞きかじった話では、登山やマラソンなどをやる人で鬱病になる人はいないとか。
水泳も同じでしょう。プールで思いっきり体を動かすと、ストレスが水に溶けて消えていくような感覚があります。気は心、そう思えるということは実際にストレスが解消されているということです。

水着は平気

特に女性は「水着なんてよーきーひんわ」と思われることでしょう。男の私でさえ、最初はちょっと躊躇しました。が、無難な水着を買って、着て鏡の前に立つと、「案外大丈夫」と思いました(笑)
多少の不格好はお互い様です。気にすることはありません。

「中年になって何か始めてもどうせものにならない。だからやる意味は無い」という人がよくいますが、決してそんなことはありません。確かに、私がいくら水泳で精進しても国体やオリンピックに出るのは無理でしょう。しかし、近所のスポーツクラブ内で「このおっさん、できる!」と思われる程度にはなるつもりです(笑)

なにはともあれ、水泳、お薦めです。

なぜ工業製品を「信仰」するのか

Apple と Samsung のユーザーを皮肉った Windows Phone の CM が話題になっています。

実に面白いですね。MS と言えばもう古くさい会社というイメージですが、なかなかどうして、とんがってます(この CM の広告主は Nokia ですが)。その「古くさい」というのも、実際のところ Apple や Google によってそう思わされている面もありますしね。

なぜ工業製品を「信仰」するのか

昔から不思議でならないことの一つが、「製品信者」たちの存在です。

パソコンなら Mac ユーザーと Windows ユーザーの争い、バイクならホンダとヤマハとカワサキの争い等々。CM の iOS 派と Android 派もそうですね。これらは結局のところ工業製品を「自己を演出するアイテム」と見なしていることから来ています。さらには、製品に対して自己を投影すらしています。

つまり、「iPhone を使っている俺かっこいい!」と思っている人は、iPhone にケチをつけられると「俺」にまでケチをつけられていると感じるのですね。iPhone を例に出して申し訳ないですが。

製品信者はダサい

そういった「製品信者」を戯画化したのが上記の CM です。

Apple は Mac=かっこいい、Windows=ダサいというイメージを大衆に植え付けようと躍起になっており、実際かなり成功しています。一方 MS はダサいイメージに甘んじてきたとも言えますが、ここにきて「そもそも工業製品にそこまで忠誠心を持つこと自体がダサい」という考えが急速に広まってきました。

特に日本では、平成生まれの20代前半の人達がそのような考えを持っているようです。彼らは生まれたときからモノが溢れていて、「あの製品が欲しい」と「渇望」した経験は皆無です。それだけにモノ選びで、メーカーやメディアや広告代理店が作り出す「かっこいいイメージ」などに左右されることもありません。

PC 時代の雄 MS も、スマートフォン・タブレットでは Apple や Google に水をあけられていますが、上に述べた「イメージ戦略」に左右されない若い世代を捉えるには、何を措いても製品の質を上げる必要があります。もちろん、「質」とは単なるスペックではなく、使い勝手全般のことです。あと値段ですね。

まだまだ体力の残っている MS ですから、ここらで一つ花火を打ち上げて欲しいところです。

嗚呼、孺子ハ共ニ謀ルニ足ラズ

嗚呼、孺子ハ共ニ謀ルニ足ラズ。

高校の頃に漢文の授業で読んだ記憶がある一文です。「孺子(ジュシ)」とは若造・青二才という意味です。そのときは気にも留めませんでしたが、後に、この言葉がどういうシチュエーションで発せられたかを知って驚いたものです。

范増

前回お話しした季布と同じく、范増(はんぞう)も項羽に仕えた人です。
范増は、項羽とその叔父の項梁とに強いて乞われてその幕僚に加わったとき、既に齢七十を超えていたと言います。もう歳なので、と断ろうとしたそうですが、項羽らのあまりの熱意についに仕官を決意します。

范増はとても賢い人なので、早くから劉邦の器を見抜き、天下を取るのは項羽と劉邦のいずれかであると見ていました。そこで劉邦を除くことを考え、有名な「鴻門の会」をセッティングします。ここで劉邦を暗殺してしまおうというわけです。

ところが、項羽は劉邦を侮り、殺すまでもあるまいと思って見逃してしまいます。このときに范増の口から出た言葉が「嗚呼、孺子ハ共ニ謀ルニ足ラズ」です。
項羽は才気煥発、身の丈は九尺を超えるというものすごく恐ろしい人です。我が国の織田信長に似たイメージがあります。そんな項羽に向かって青二才呼ばわりしたのですから、范増の硬骨漢ぶりも相当なものです。

失われた美徳

そもそも范増は上にも書いたように項羽に仕えるのに乗り気ではなかったのですが、一度仕えたからには忠義を貫きました。それも今日よく誤解されているような「ゴマすり」の忠義ではなく、自らの命を省みない本物の忠義です。

翻って現代の日本にこのような気骨のある人物がどのくらいいるでしょうか。あまり多くはないはずです。

無論、「忠義」とは封建時代の観念であって、民主主義の世の中では発揮したくともしようがないというのは確かです。ですが、節に殉じるという意味では、このいにしえの徳は、現在でも形を変えて残っていて然るべきです。

分かりやすく言えば、「一度口にしたことは覆してはならない」ということです。もっと簡単に言えば「約束は守りましょう」ということです。

政治家の公約から新聞の見出しに至るまで、言葉があまりにも軽く扱われています。

「言ったことは守る」というごく当たり前のことを着々と実践する、それは自分のためであって、決して人のためではないのです。

恐怖政治の哲学

最近ラーメンに凝ってます。
これはそのラーメン屋で聞くともなしに聞いた話。

506340163.jpg

その日、行きつけの店はわりとすいていて、ちょうど食べ始めたところでした。作業着姿のあんちゃんが二人、私から椅子二つほど離れてカウンター席に座りました。大衆食堂ではありがちですが、二人は大声で話していて、イヤでも内容が聞こえてしまいます。

先輩:「レギュレータのとこに 11V しかきとらんっちゃね」
後輩:「少し低いですね」
先輩:「そうやろ」

なるほど。この会話で、彼らが自動車の修理工であることがわかります。

後輩:「ところで、山本さん(仮名)のとこは、どげんでしょうね」
先輩:「ああ、やっぱ大変のごたるね。ガラスとかうちやったら4万ぐらいで仕入れよろうが」
後輩:「そうですね」
先輩:「それを、うちの社長が『山本のとこに卸すんなら、おたくからは買わん』って言って圧力かけて、売らせんげな」
後輩:「…………」
先輩:「定価やったら12万とかするけん、話にならんもんなぁ」

どうやら、山本さんという人は彼らの工場から独立した人で、前の雇い主から意地悪をされているようです。

ここから先は私の想像ですが、「社長」が「山本さん」を潰しにかかっているのは、単に商売がたきになったからというだけではありません。自分に逆らった人間に対する徹底的な復讐を、現従業員に見せつけることによって、新たな造反の芽を摘もうとしているのです。

先輩:「だけん、おそろしゅうて誰も自分の工場持とうやら思わんちゃ」
後輩:「そうですね……」

その証拠に、私の側でラーメンを啜っている若者二人には、社長に逆らっても無駄という無力感が漂っています。

人から好かれるのではなく、嫌われることによって世渡りしようという人もいるということを以前にも書きました。こういう人にはあまり関わりたくないものですが、不運にして関わってしまったら……

できるだけ、従順なフリをして逆に利用することを考えましょう。それが一番の策です。

無題

思うところがあって、今後、犛牛と号することにしました。

犛牛(ボウギュウ)とはヤクのことです。徳川の重臣、本多平八(本多忠勝)が犛牛で飾った兜「唐の頭」を用いていたことで有名です。
朝敵を見抜き、たちまちに喰い殺してしまう瑞獣であるとも言われます(もちろん、現実のヤクは草食ですが)。

我が国の状況がますます困難になりつつある中、自分にできることは何かを考え、発信していく上で、忠勝公の勇と、国家に仇なす輩を見抜く眼力を持つという伝説上の動物とに多少なりともあやかることができれば、との思いです。

葬式の効用

つい先ほど、父の葬儀を終えました。
こういう場所にあまり細かいことを書くものではないと思うので、一つだけ今回気づいたことを挙げてみます。

葬式というのは、ご存じの通り次から次へと細々とした行事が続きます。以前の私は、そうやって忙しくしていることで悲しみが紛れるからだと思っていました。
しかし、実際に経験してみると、葬儀社の手配、病室で看取った後の霊安室への移動、そして安置所へ……といった風に、通夜・葬式が始まる前から緊張に晒されるものなのですね。
そして、お寺さんへのお布施や戒名料(うちは浄土真宗なので本当は法名料)を幾らにしようか考えたり、出棺前の参列者への挨拶など、世間知らずの私には荷が重いことばかりでした。

それらをどうにかやり終えた今、奇妙な達成感のようなものがあります。これも一種の「癒し」なのでしょう。

初七日は繰り上げということで今日やってしまったので、次は四十九日です。

おいてをや

NHKの大河ドラマ「江~姫たちの戦国」をこきころすこの記事、もの凄く気になるところが一カ所あります。

そう、

「まして戦国の世においておや」

です。

もちろん、正しくは「おいてをや」です。

気になる……。

ドラマの方は見ていないので何とも言えませんが、一般に最近のNHK大河は若い人に媚びるようなところがあってイヤだという人が多いようです。
ここは一つ、逆に超硬派の時代劇を作るとヒットするかも知れません。が、細かい考証ができる人が現場にいない、時代劇特有の所作を役者が知らないといった具合で難しいのでしょうか。

続・言うを「ゆう」と書いて何が悪い

昔書いた記事に、いささか辛辣なコメントがついたので、再び取り上げてみます。

なぜ言うを「いう」と書くのか

現代仮名遣いでは表音主義を原則としています。ただ、助詞についてのみ、歴史的仮名遣いと同じように綴ります。

これは、表音主義を徹底すると

わたしわ、あなたお

のように、歴史的仮名遣いに慣れている者にとって異様な字面になってしまうためです。つまり、妥協の産物です。

では、助詞でもなんでもない「言う」は、なぜ発音通り「ゆう」ではなく「いう」なのでしょうか。例えば「優」は、歴史的には「いう」と書かれていましたが、現代では発音通り「ゆう」と書かれます。それなのに「言う」に限って「いう」なのはなぜか。

これも、文章の中で比較的発現率の高い「いふ」が、いきなり「ゆう」になったら異様な感じがするからです。このように、「言う」を「いう」と表記するのは専ら歴史的経緯に依るもので、論理的必然性はありません。

しかしながら、「『ゆう』と書くのは許せない!」と憤る人たちが間違っているというわけでもありません。どうあれ現代仮名遣いでは「いう」と書くと決まっているのですから、「いう」が正しい、このことは確かです。

頭が悪い?

ただ、件のコメントのように、「『言う』を『ゆう』と書く奴は頭が悪い」と断じるのはいかがなものでしょう。

既に述べたとおり、現代仮名遣いの表音主義の原則からすれば、「言う」は「いう」と書く、という例外を知らぬ者が、「ゆう」と書こうとするのはむしろ自然と言えます。

無知なだけで、決して頭が悪い証拠にはなりません。

さらに言えば、「『言う』を『ゆう』と書く奴は頭が悪い」と考えることは、知性の本質を知識の多寡のみに求めることに他なりませんが、それこそ典型的な「頭の悪い人」の思考法です。

ですから、こう言うべきでしょう、「『言う』を『ゆう』と書く奴は学が無い」。これならば分かります。

他人の言葉の乱れは気になる

とは言え、他人の言葉遣いは、気になり始めると、とことん気になるものです。
私がコメントで攻撃されたのも、「『ってゆうか、~みたいな』といったふざけた言葉遣いを広める怪しからぬ輩」と見なされたからなのでしょう。

その気持ちはよく分かります。私も他人の間違った言葉遣いにイラッとくることがありますから。(この「イラッと」という言い方も人によっては嫌いますね……。このように、神経質になりすぎると何も書けなくなってしまいます)

言葉遣いに関する不寛容さは、時代の雰囲気なのかも知れません。

私はいわゆる「言葉の乱れ」をそのまま許容するものではありませんが、「言葉狩り」の問題とも併せて、もう少しおおらかであっても良いのではないかと思っています。

不言実行にまつわる誤解

最近、「不言実行より有言実行」という意見をよく見かけます。

曰く、「きちんと成し遂げる自信がないから、不言なのだ」とか、「目標を公言することで自分にプレッシャーを与えた方が、実現する可能性が高い」など。

どうやら、有言実行派は「実行」の対象として、プロジェクトの完遂や試験の及第など、自分の利益になる事柄を想定しているようです。

しかし、広辞苑第六版によれば、

ふげん‐じっこう【不言実行】‥カウ
あれこれ言わず、善いと信ずるところを黙って実行すること。

とあります。不言実行というときの実行とは(主として)世のため人のためになにかすることなのです。

「よーし、TOEICで800点とるぞ~」とかそういうことならば有言実行で構いませんが、「これから、募金しまーす」みたいな有言実行はいかがなものでしょう?

もっとも、不言か有言かは些細な問題かも知れません。大事なのは「実行」ですからね。少しニュアンスが違いますが、英語では “Well done is better than well said.”などと言います。

この場合の”Well done”は肉にしっかりと火を通すこと……じゃなくて(笑)、「良く為す」というほどの意味です。

良く為すは、良く語るに勝る、一説にはベンジャミン・フランクリンの言葉だということですが、実に明快な格言ですね。

クライズラーのナゾ

最近、アメリカの自動車大手3社が相次いで破綻してしまいましたが、その一つ「クライスラー」でよく思い出すのが、知り合いの外国人がいつも「クライラー」と発音していたことです。

chrysler.jpg

今、気になって辞書を引いてみると、「クライスラー」と「クライズラー」両方載っていました。どっちでも良いみたいです。

どっちでも良いのなら日本では「クライズラー」で商標登録してもよさそうなものですが、「クライスラー」となっているのは偶然ではなく、「語感」でしょうね。

「クライズラー」だとなんかダサい感じしますよね……。

同様の「語感」に基づく命名としては、「マクドナルド」が有名です。

McDonald’s は、英語ではマッダーナーに近い発音ですが、日本マクドナルドを興した藤田田(ふじたでん)という人が、「日本語は、音節が 3、5、7 などの素数になっている方が収まりが良い」として、敢えて原語の発音と似ても似つかない「マクド・ナルド」にしたのだそうです。

語感じゃないけど、発音で面白い話と言えば、ある人が中国語で「打字機(タイプライタ)」と言おうとするとどうしても「打自己」になってしまい、いわゆるマゾヒストと誤解されてみんなに振り向かれた、と聞いたことがあります。

中国語は同音異義語が多く、仮に正しく発音できたとしても文脈によってとんでもない意味になってしまうことがあるのでやっかいです。まぁ、カタコトで喋っている限り、相手も分かってくれるとは思いますけどね。

ほかにも「みんなニュース、ニュースって言ってるけど、本当はニューだ」とか、「アボガドって言ってる人が多いけどアボドなんだ」とか、発音に関するこの手の話は枚挙にいとまがないですね。

ただ、アボカドはともかく、ニュースに関しては、あえて原語に忠実に「ニュー」と発音するのもひどく気障な感じがします。

気障に感じさせる原因が日本人に未だに残っている欧米崇拝、ないしは英語が堪能な人に対する嫉妬であるとしたら、この感情は克服しなければならないのかも知れません。

……が、筆者には人前で「昨日、7時のニューでさ~」などと言う勇気はありません(^^;

みなさんはいかがでしょうか。