Matilde E. Moisant女史は、アメリカの初期の女性飛行家、だそうですが、なにより印象的なのは彼女の飛行服姿です。
こんなにナウシカっぽい人(笑)を初めて見たので、思わず写真を転載してしまいました(写真はパブリックドメインです)。すごくチャーミングな女性ですね。
よく見ると鉤十字のバッジをしていますが、これはナチスドイツとは何の関係もなく、単なる幸運のお守りなのだそうです。
—
晝休戴き物の新茶かな
Matilde E. Moisant女史は、アメリカの初期の女性飛行家、だそうですが、なにより印象的なのは彼女の飛行服姿です。
こんなにナウシカっぽい人(笑)を初めて見たので、思わず写真を転載してしまいました(写真はパブリックドメインです)。すごくチャーミングな女性ですね。
よく見ると鉤十字のバッジをしていますが、これはナチスドイツとは何の関係もなく、単なる幸運のお守りなのだそうです。
—
晝休戴き物の新茶かな
このブログにも貼っている、Amazon.co.jpの広告。皆さんがこれをクリックして買い物をされると、売り上げの3%前後が筆者の懐に入ります。もちろん、当ブログは更新もまばらですし、収入は限りなくゼロに近いです。が、他にもいくつかサイトをやっているので、それらを合わせるとちょっとしたお小遣い程度にはなります。具体的な金額を開示することは規約で禁じられているのでできませんが、大体毎月ギフト券が貰える程度、といったところでしょうか。
そう、ギフト券なんです。Amazonアソシエイトでは、銀行振り込みの場合5000円、ギフト券で貰う場合は1500円貯まった翌々月あたりに支払いが行われ、どちらでも好きな方を選べます。言葉は悪いですが筆者の「ドル箱サイト」はアニメ・新世紀エヴァンゲリオンのファンサイトなので、最近の新劇場版の特需もあって、結構な収入があったので銀行振り込みを選択していました。しかし、公開から数ヶ月たって収入も減ってきたのでギフト券に切り替えたわけです。
で、気になるのがそのギフト券を送ってくるメールの表題です。「Amazon様からAmazonギフト券をお贈りします」となっています。自分のことを「様」って……。
恐らく、このギフト券は、顧客が第三者に贈るのが典型的な使い道として想定されているためにこうなるのでしょう。つまり、鈴木さんがギフト券を買って田中さんに贈る場合、「鈴木様からAmazonギフト券をお贈りします」となるわけで、その書式を使っているわけです。それにしても、Amazonが自分で「Amazon様」と言っているのはとても変です。
もう一つの理由としては、米国製のシステムを翻訳して使っているために、こういうぎこちない部分が出てくるのかも知れません。
いずれにしろ、Amazonはアソシエイターをあまり客と思っていないのがよく分かって、面白いです。客だと思っていたら、「様はおかしいのではないか」と誰かが気づくはずですからね。
まぁ、貰えるものさえ貰えれば文句はないですけどね(^^;
最近、IT雑誌のライターなどが好んで使う言葉に「ビジネスパーソン」があります。
従来ビジネスマンとかビジネスウーマンなどと言っていたのを例のポリティカル・コレクトネスでビジネスパーソンと言い換えたものなのでしょう。
それは良いのですが、このビジネスマンと言う言葉を勤め人という意味で使うのは和製英語的な用法でして、英語の businessman とは主に経営者を指します。
……と思っていたのですが、今ウィキペディアを参照すると、むしろ主として勤め人のことを指すようにも読めますね。
まぁ、いずれにしろ businessman と自称するためには役員もしくは幹部職員である必要があります。平社員が”I’m a businessman.”などと言っていたら失笑を買います。
ある言葉がだんだんと「安く」なるのはよく見られる現象と言えばそれまでですが、ちょっと気になる言葉ではありますね。
fc2ブログで、「一週間の始まりは日曜か、月曜か」というお題が出ていましたので、ここはseesaaブログですがちょっと考えてみました。
お題を見た瞬間、「そりゃ、月曜でしょう」と思ったわけです。もちろん、欧米では日曜が始まりとされていて、現にそれに従って最近のカレンダーは日曜から始まっていることは知識としては知っています。でも、なんかこう、日曜には「始まり」という感じがないんですよね。みなさんも、やっぱり月曜の朝、仕事や学校に出かけるとき一週間の始まりを実感されるのではないかと思います。
似たようなことで、21世紀の始まりは2000年か2001年かという話もありましたよね。ご存知の通りこれは2001年が正しいとされているのですが、2000年から始まると考えた人も少なからず居たようです。これも理屈としては紀元は0年ではなく1年から始まっているのでAC100までが1世紀、AC101からが2世紀、従って21世紀は2001年からというのですが、1999から2000に繰り上がるところで「変わり目」を強く感じるのもむしろ自然と言えましょう。
話を曜日に戻します。
「そりゃ、月曜でしょう」という「感じ」を大事にするのはしかし、私の思考の「癖」みたいなものかもしれません。入学式は桜の咲く四月でなくては感じが出ない、とかいうのと同じ感性ですね。
こういった、「みんなが一週間の始まりは月曜」という「感じ」を持っているので一週間の始まりは月曜である、という言わば日本的コモンセンスは便利と言えば便利なのですが、ややもすると全体主義に堕してしまいがちなのが恐ろしいところです。「一週間の始まりが日曜? 西洋かぶれしやがって! この非国民め!」みたいに。
ただ、日本人が皆均質で互いに相手の考えていることが分かる、という時代はとうに過ぎました。今ではまとまりがなくて困っているほどです。こういう時代だからこそ理非を超越した「日本人的感性」を多少前面に出すのも許されるはずです。やっぱり週の最初は月曜だし、入学式は四月に限ります。
というわけで、私は、「一週間の始まりは月曜」である、と断固主張いたします!
……少々強引すぎでしょうか(笑)
2ちゃんねるで、「あぁこの人頭悪いなと思ってしまった瞬間」というスレが立っていたそうで、いろんな「瞬間」が挙げられています。
が、どうも共感できるものが少ないように思えます。単に価値観の相違だろうと言いたくなるようなことや、知識の欠如を以て頭が悪いと決めつけるようなレスが多い。
で、その知識の欠如の具合ですが、例えば
などがありました。
確かにひどいものですが、「こんにちわ」や「ゆう」に関しては、必ずしも間違いとは言えませんよね。
これらは通常「こんにちは」「いう」と表記しますが、皆さん「こんにちわ」「ゆう」と発音している筈です。手元の『NHK 日本語発音辞典』でも「コンニチワ」「ユウ」となっています。つまり、表記と発音とが乖離しているわけです。
確かに、言うを「ゆう」と書く人がみんな一旦乖離した表記と発音とを再び一致させようと敢えてそうしているとは考えられず、ただ現在の表記のルールに無頓着なだけでしょうが、いずれにしろそんなに目くじらを立てるようなことではないと思います。
どうしても「ゆう」が許せないという人は「嘘と坊主の頭は結うたことがない」という駄洒落をどう解するのでしょうか。ちょっと辛辣に言うならば、言うを「ゆう」と書くのは頭が悪いなどと言う人こそ頭が悪いのです。少なくとも頭が固いです。
このように、ものを知らない、読み書きが苦手、といったことは頭の悪い証拠にはなりません。知識は少なくても頭の良い人はたくさん居ます。
—
私があぁこの人頭悪いなと思ってしまうのは、なんと言っても論理的に間違った言説をごり押しするのを見たときですね。
よく見かけるのが、
とか言う人。PとかQとかよー分からん、という方は
だと分かりやすいでしょうか。とにかくこの論法が間違ってることはご理解いただけると思います。
厄介なのはこの論法を使う人はなかなか自分の間違いに気づいてくれないことです。
A氏みたいな人に遭遇すると本当に疲れます。
—
どうも、知性=知識の量、という素朴な考え方が支配的すぎる気がします。かと言って、論理的思考力だけが知性というわけでもありません。上のA氏は理屈には弱くても、実はアイデアマンかも知れません。
思うに、知性とは精神のあらゆる活動領域にわたる能力であって、その評価は極めて幅広く行う必要があるのです。
絵の上手さも知性。歌が上手なのも知性。スポーツなどで体中の筋肉を適切なタイミングで適切に動かせるというのはもちろん知性。ギャグで人を笑わせるなどというのはもう相当高度な知性と言えます。
どういう時にこの人頭悪いなぁと思ってしまうかは、ですから、数ある知性の評価基準の中で自分がどれを重視しているか、と言い換えることが出来ます。
私の場合は論理を重視しますし、芸術的才能を重視する人も居るでしょう。何を以て知性とするかはこのように極めて相対的です。知識だけじゃないんです。
—
今日は随分、今流行の「上から目線」で偉そうなことを書いてしまいました(汗) まぁ知性の本質をどう理解するにせよ、同じ過ちを繰り返す、学習しない、というのは誰が見てもバカっぽいですよね。
とりあえず、キーボードにお茶をこぼして壊したことが2度もある私の頭がかなり悪いことは間違いないようです(泣)
先日、極端な嫌煙運動はファシズムに似るとして神奈川県の条例案に反対の意を示しましたが、程度の問題は別にして喫煙という習慣が健康に害を及ぼすこと、それ自体は認めざるを得ません。
ちなみに私も10年ほど一日二箱は吸ってきたのですが、ここ3年ほどは吸わずに過ごせていますので、一応、禁煙に成功したと考えて良いと思っています。そこで、僭越ながら、最も効果的な禁煙法を一つ伝授いたします。
それは、吸わないこと。以上です。
決してふざけているわけではありません。禁煙パッチや禁煙ガム、タブレット、パイポなど、禁煙グッズは多々ありますが、どれもニコチンを補給して禁断症状を和らげようというものばかりです。これらを用いると確かに幾分かはイライラが治まりますが、いつまでもニコチンの血中濃度がゼロにならないために、微妙な「吸いたさ」が残ってしまうのです。下手をすると、禁煙ガム愛好者になってしまい、ガムと煙草で二倍の金がかかったりします(実話)
ですから、ここはきっぱりと吸わない、ただそれのみ、という単純明快な禁煙法が実は一番簡単なのです。
騙されたと思って、今お手持ちの煙草がなくなったら、禁煙を開始してみて下さい。最初の三日はかなり吸いたいはずです。一週間たってもまだ吸いたいでしょう。ですが、最初の三日の居ても立っていられなくなる感じではなく、我慢できないこともないかな? というレベルになってきます。ここまで来ればしめたもので、あとは右肩下がりに「吸いたさ」が逓減していきます。一般に、最初の三日の苦しさが一生続くのではないかと錯覚することが禁煙に失敗する主な原因なのです。実際には一週間を境にどんどんニコチンが抜けてラクになっていきますので、なんとかそこまで辿り着きましょう。一ヶ月もすれば、ほとんど吸いたくなくなります。
あと必須ではありませんが、最初のうちはコーヒーやアルコールは控えるのが無難でしょう。これらはつい煙草を吸いたくなってしまう飲み物のようです。特にアルコールは自制心を弛める作用がありますので要注意です。
煙草をやめてなにが良いかと言いますと、まず、お金。一日二箱、10年吸い続けると 300×2×3650 = 2190000、約220万円。禁煙するとかなりの節約になります。ましてや、今後もたばこ税の増税は続くでしょうし。それから、食べ物の味も美味しく感じます。煙草のニオイで人から嫌がられることもありません。自慢タラタラでブログに体験談を綴ることもできます(笑) 良いことずくめですね。
禁煙失敗者が苦しさを誇大に表現することもあって、世間では煙草をやめるのは物凄く難しいと思われているようですが、実はそれほどでもありません。やってみると案外できるものです。是非挑戦してみてください。
以下蛇足。実は、以前職場の同僚に『禁煙を成功させる30の方法』(書名はあやふや)とかいう本をプレゼントされたことがありまして、迷惑だから煙草やめろという強烈な皮肉だったのかも知れませんが、私は素直に感謝しつつ健気にも全ての方法を実行したのです(笑)
吸う本数を毎日一本ずつ減らすだとか、逆に気分が悪くなるまで吸いまくってみるとか、一定期間吸わなかったら自分にご褒美をあげるだとか、それはそれは色々な方法が書いてありました。が、一つとしてうまくいきませんでした。やはり、最良の禁煙法は「きっぱりやめる」、これに尽きるようです。
荒れ壁に絡みつきたる花あけび
ドーナツに続くヒットスイーツとして、カップケーキが台頭(日経トレンディ)しているそうです。美味しいですもんね、カップケーキ。
さて、スイーツをボールドで書いたのはほかでもありません、例の「スイーツ(笑)」について一文をものすためです。
この言い方も急速に広まってもう陳腐化しつつあるほどなので、皆さんとっくにご存知と思いますが、敢えて意味を説明いたしますと、女性誌などに見受けられる浅薄なキャッチコピーに乗せられやすい女性のことを揶揄する言葉です。彼らが洋菓子のことをスイーツ、スイーツと言うことからこう呼ぶのだとか。
でも待ってください。スイーツって言い方、そんなに変でしょうか?
手元の研究社 新英和中辞典によると、sweet の名詞形の第2義に『 [しばしば複数形で] 甘いもの.』というのがあります。この用法では可算名詞となります。(一方、ジーニアス英和辞典では実際には甘いもの全般というよりは、主にキャンディなどの砂糖菓子について言う、とあります)
The American Heritage Dictionary ではより具体的に sweets. Foods, such as candy, pastries, puddings, or preserves, that are high in sugar content. と、あります。
Collins COUBUILD English Dictionary には例文として、The sweet was a mousse flavoured with whisky. が掲げられています。これなどはそのものずばりのスイート(スイーツ)ですね。
話は飛びますが、以前どこかのサイトで見かけた文章で気になったのがありまして、壮年の教員の方が書かれたものなのですが、「若い先生が得意げにカタカナ語を使うので鼻についた」というような内容だったのですね。一見すると、ああ、カタカナ語は鼻につくよね、と同意したくなるのですが、冷静に考えるとその語(「オノマトペ」でした)は特に気障な言い方というわけでもないのです。結局、よく読んでみると「最近の若い者は……」といったよくある繰り言の類なのでした。このように耳慣れない言葉に対してまず反発する、というのは一種の老化なのかも知れません。
長々と書いて何が言いたかったかといいますと、洋菓子をスイーツと呼ぶのは外来語の取り入れ方として特に変ではない、ということなんですね。もちろん、そんなことは百も承知の上で、「でも、スイーツとか言ってるのは馬鹿ばっかりじゃん」という人もいるでしょう。でもね、どうも「(笑)」というのが嘲笑のための嘲笑に見えて仕方がないんです。他人を嘲笑おうとして己の卑小さをさらけだしているような感じですね。
もうそろそろ、スイーツ(笑)などと書いている方が恥ずかしい、という風になってきたのかもしれません。
先日、Joel Spolsky氏が来日講演し、ソフト開発の三つのポイントを挙げたそうです。曰く、「幸せ・感情・美学」だそうですが、理系頭の開発者にとって理屈では分かっていてもなかなか納得しづらいのが三つ目の「美学」ですね。
プログラマは、要求された機能を実現するために最も洗練された、美しいアルゴリズムで実装することに心を砕く(と思う)わけですが、アルゴリズムは見えませんからね。ユーザーにとっては機能が全てであって、それがどのように実装されているかについては全く関心がありません。
更に言うと、その「機能」も実は目に見えないんですね。画期的な機能があるのにユーザーはそれに気づいていない、ということがよくあります。メーカーとしては、「これぞ」という機能は「本ソフトウェアの特徴」などと宣伝することくらいしかできませんが、人はそもそも使ったことがない機能について説明されてもイメージすら浮かばないものなのです。
Spolsky氏は、建築の世界では装飾を取り除いたデザインが主流となっているが、ソフトウェアでは無駄と思える要素も必要、と言っています。
これも結局、「見た目」に還元できる話だと思います。建築では見た目で機能美を表現することが出来ますが、ソフトウェアでは不可能です。使い込んでみて初めて「無駄のない良いデザインだな」とわかる程度です。
ですから、我々素人は結局本当に「見た目」、つまりUIの出来によってしか評価しないんですよね。会議で、機能は殆ど出来上がっているソフトウェアに仮の粗末なUIをつけてプレゼンすると重役達は渋い顔をし、なーんにも出来てなくてもそれらしいUIを見せると満足するものなのだとか。
ところで、このエントリを書くために参照した ITPro の記事は、奇しくも「ソフトウェアも見た目が大切」となっていました。「も」というからには記者氏の念頭には「見た目が当然重視される何か」があった筈です。なんでしょうね。やっぱり「人間」でしょうか(笑)
先日から「知のヴァーリトゥード」の庄内拓明さんが疑似科学に関する話題を数回に渡って取り上げられていて、それが一見疑似科学に理解ある態度であるために強い反発も招いているようです。
このようにある意味喧嘩沙汰になっているところに外野から囃し立てるのもどうかということで、黙っていようかとも思ったのですが、いろいろと考えるところがあったのでちょっと書いてみます。
まず、私は「疑似科学」という言葉をピルトダウン人やエーテル理論のように一応真面目な科学者の考察の対象だったモノに対して用い、「水からの伝言」や「波動測定器」のたぐいは「似非科学」と呼んで区別しています。
まあそれは言葉遊びに近いので大した問題ではないのですが、似非というかなり否定的な言葉から水伝やらなにやらに対する態度は読み取ってもらえると思います。
水伝のなにが怪しからんかと言って、悪徳商法と結びついているのもさることながら、こういうものを信じてしまうその弛緩しきった精神がイヤなのです。一事が万事とはよく言ったもので、そういう人は他の場面でもロクに考えずに何でも信じてしまう。水伝を信じ、血液型占いを信じ、マイナスイオンは健康に良いと信じ、恐らく、ユダヤ人は社会の害悪と言われればそれも信じるのでしょう。
このように石頭で似非(疑似)科学大嫌いな私ですが、庄内さんの「じゃあ、パン生地をこねるとき『おいしくなれよ~』などと声をかけるのはどうなんだ」という話には思わずニヤリとさせられました。
思い起こせば私も子供の頃、「大根をおろすのに、嫌々ながらやってると辛くなり、喜んでやっていると甘くなる」と言われたものです。ですから、台所の手伝いで大根おろしをやらされるときは出来るだけ丁寧にやっていました。幼少期の美しい思い出なのです。それに対して「それは君、非科学的だヨ」としたり顔でツッコミを入れられるとさすがの私もブチ切れます(笑)
「粗雑なおろし方をすると大根の細胞が云々」といった漫画「美味しんぼ」的な分析も、もしかしたら可能なのかも知れませんが、そもそも、そんなになにもかも科学的に説明がつかなくても良いではないか、というのが大方の人の考え方ではないかと思います。この他にも「食べてすぐ寝ると牛になる」とか「夜、口笛を吹くと蛇が来る」とか、敢えてその非科学性を批判するまでもない、もし批判していると知性を疑われるような事柄は幾らでもあるわけです。
さて、こういった麗しきフォークロアと似非科学とを分かつメルクマールは奈辺にあるのでしょうか。単に非科学的というだけでは両者とも当てはまってしまう。やはり、ここは字義に忠実に「疑似(似非)科学とは科学性を僭称しているもの」と捉えるのが妥当でしょう。具体的には科学用語の使用。「マイナスイオン」だとか、「波動」などですね。結局、疑似科学がこれらの語彙を用いるのは、正統派科学のご威光にあやかろうというコバンザメ的意図より出たものとしか考えられませんからね。それからもちろん、科学界で認められた手続に則らずに知見(らしきもの)を吹聴していることですね。この二つに当てはまるのが疑似科学です。
最後に疑似科学批判、及び再批判に関して。
J. H. Schön の論文捏造などを挙げるまでもなく、疑似科学というものは巧妙にやられると本物の科学と殆ど見分けが付きません。水伝などはアホっぽさが目立つので素人にも判別できる、というだけです。ですから、適切な疑似科学批判が肝要だと考えます。我々素人には、血液型占いや、マイナスイオンがどーたらや、あるある大辞典を一々検証する時間も能力もないので、疑似科学批判者の剣幕の度合いでインチキさ加減を知るほかないわけです(笑)
ただし、批判者の中には、「疑似科学批判」=「『知的なボク』が『トンデモ』をイジって遊ぶこと」みたいな心得違いをしている人も稀にいます。まあそんなにいい子ちゃんぶるつもりもないのですが、あれだけはあまりカッコイイものではないのでやめて欲しいですね。
悴める指にて弾かむサン・ハウス
あるアメリカ人の友人が「1ヶ月」をイッカガツと言っていたので、イッカゲツだよ、と教えてあげたところ、「1月」はイチガツなのに「1ヶ月」ではガツがゲツになるのはおかしい、と反論されました。(おそらく、テレビなどでイッカゲツと言っているのを聞いたことがあるはずなのですが、彼は頭からイッカガツと思っているのでそう聞こえるのでしょう)
この説明が一苦労、「そういうものだから」では納得してくれず、呉音・唐音の話まで持ち出してなんとか分かってもらえたようです。
そこで思い出したのが、そう言えば私も以前 “I ate a fried chicken.” と言ったら変だと指摘されたなぁ、ということです。どこが変だかお分かりになりますでしょうか。
文法的には間違いではないのですが、a fried chicken はニワトリ一羽丸焼きにしたものを言うそうなのです。ですから、「一羽丸ごと食べたのか?」と、変に思われたわけです。フライドチキンを何切れか食べた、という場合、”I ate some fried chicken.” が正解なのだとか。
しかし、手羽先一切れを a fried chicken と表現して間違いだというのはどうも納得がいかず、中国人やドイツ人にも聞いてみたところ、「a fried chicken でいいじゃないか」と言うのです。どうやら、a fried chicken がおかしいというのは英語ネイティブ特有の感覚のようです。
まぁ、ものすごく健啖な人ならおかしくないんですけどね~。
寒の雨破れ靴より染み入れり