最も効果的な禁煙法

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Plowboylifestyle 18:25, 9 November 2005 (UTC)

先日、極端な嫌煙運動はファシズムに似るとして神奈川県の条例案に反対の意を示しましたが、程度の問題は別にして喫煙という習慣が健康に害を及ぼすこと、それ自体は認めざるを得ません。
ちなみに私も10年ほど一日二箱は吸ってきたのですが、ここ3年ほどは吸わずに過ごせていますので、一応、禁煙に成功したと考えて良いと思っています。そこで、僭越ながら、最も効果的な禁煙法を一つ伝授いたします。

それは、吸わないこと。以上です。

決してふざけているわけではありません。禁煙パッチや禁煙ガム、タブレット、パイポなど、禁煙グッズは多々ありますが、どれもニコチンを補給して禁断症状を和らげようというものばかりです。これらを用いると確かに幾分かはイライラが治まりますが、いつまでもニコチンの血中濃度がゼロにならないために、微妙な「吸いたさ」が残ってしまうのです。下手をすると、禁煙ガム愛好者になってしまい、ガムと煙草で二倍の金がかかったりします(実話)
ですから、ここはきっぱりと吸わない、ただそれのみ、という単純明快な禁煙法が実は一番簡単なのです。

騙されたと思って、今お手持ちの煙草がなくなったら、禁煙を開始してみて下さい。最初の三日はかなり吸いたいはずです。一週間たってもまだ吸いたいでしょう。ですが、最初の三日の居ても立っていられなくなる感じではなく、我慢できないこともないかな? というレベルになってきます。ここまで来ればしめたもので、あとは右肩下がりに「吸いたさ」が逓減していきます。一般に、最初の三日の苦しさが一生続くのではないかと錯覚することが禁煙に失敗する主な原因なのです。実際には一週間を境にどんどんニコチンが抜けてラクになっていきますので、なんとかそこまで辿り着きましょう。一ヶ月もすれば、ほとんど吸いたくなくなります。
あと必須ではありませんが、最初のうちはコーヒーやアルコールは控えるのが無難でしょう。これらはつい煙草を吸いたくなってしまう飲み物のようです。特にアルコールは自制心を弛める作用がありますので要注意です。

煙草をやめてなにが良いかと言いますと、まず、お金。一日二箱、10年吸い続けると 300×2×3650 = 2190000、約220万円。禁煙するとかなりの節約になります。ましてや、今後もたばこ税の増税は続くでしょうし。それから、食べ物の味も美味しく感じます。煙草のニオイで人から嫌がられることもありません。自慢タラタラでブログに体験談を綴ることもできます(笑) 良いことずくめですね。
禁煙失敗者が苦しさを誇大に表現することもあって、世間では煙草をやめるのは物凄く難しいと思われているようですが、実はそれほどでもありません。やってみると案外できるものです。是非挑戦してみてください。

以下蛇足。実は、以前職場の同僚に『禁煙を成功させる30の方法』(書名はあやふや)とかいう本をプレゼントされたことがありまして、迷惑だから煙草やめろという強烈な皮肉だったのかも知れませんが、私は素直に感謝しつつ健気にも全ての方法を実行したのです(笑)
吸う本数を毎日一本ずつ減らすだとか、逆に気分が悪くなるまで吸いまくってみるとか、一定期間吸わなかったら自分にご褒美をあげるだとか、それはそれは色々な方法が書いてありました。が、一つとしてうまくいきませんでした。やはり、最良の禁煙法は「きっぱりやめる」、これに尽きるようです。

 

荒れ壁に絡みつきたる花あけび

全面禁煙とな?

歩き煙草の禁止条例が全国に広がっていますが、神奈川県ではついに人の集まる場所全てに於いて禁煙という条例案が出ているようですね。

私自身は煙草をやめて丸三年、いくら禁煙が広がっても特に困ることはありませんし、むしろ有り難いのですが、全ての場所というのはいささか行き過ぎではないでしょうか。

唐突ですが、私の好きな詩です。
生命はげに尊し
愛情は猶値高し
されど 自由のためとあらば
二つながら抛つもよし

魯迅と親交のあったという青年文学者の遺作だそうです(ちょっと記憶が曖昧です。原文はドイツ語だったかもしれません)。彼は自由のために戦い、官憲に虐殺されました。この詩を読むまでもなく、自由の大切さ、尊さは誰もが知るところです。(列強や袁世凱政府によって自由を脅かされていた中国人が、いまやチベットを弾圧しているのは皮肉ですが、それはまた別の話)

さて、「自由」というものを考えるときに、「危害原理」ということがよく言われます。要するに他人に危害を加えない限りは何をやっても自由、ということですよね。(確かに、危害は受けてないけどなんかイヤだなぁ、やめて欲しいなぁという場合もあります。が、それはお互い様。あくまで「やめてください」、と話し合いで解決すべき範疇です)
喫煙であれ何であれ、いやしくも人の自由を制限しようというならば、誰かが危害を受けている、といった明確な理由がなければならないわけですが、この点をいい加減にしたままの議論が多すぎるように思われます。「とにかく煙草の臭いが嫌いなんじゃ、不快だから規制しろ」、などと言う人が多い。このように自己の「不快」を理由として他者を律しようとする、言わば「不快原理」が蔓延していますが、これは極端に言えば、ユダヤ人との雑居が不快だからゲットーに押し込めよ、というのと変わりありません。行きすぎた嫌煙がファシズムと類似する所以です。嫌煙に限らず、自己の好悪をそのまま他人に押しつけるのは昨今の風潮ですね。

もっとも、最近の研究によれば、副流煙による被害は従来の想像以上であり、もはや単なる迷惑を越えて「危害」ともいえる程であるという主張もあります。その立場によれば確かに煙草の全面規制は正当化されることになります。このへん(喫煙被害の定量的解析)は自由がどうのというよりは専門家の意見を傾聴すべきであって、愛煙家も謙虚に受け入れなければなりません。

確かに、自由の意味を履き違え、なんでもやりたい放題で周囲に迷惑をかけても恥じない人もいます。そう言う人に限って非難されると「人権」の二字を口にする。なので、世間は「人権」アレルギーを起こしており、「人権もへったくれもあるか、○○なんかどんどん規制しろ」という分かりやすい意見が好まれがちです。
しかしながら、本当の本当は、人権はやっぱり大切なものであり、とりわけ自由権は可能な限り尊重されなければいけません。

人間は本来自由。どうしても必要があって自由を制限するならば、慎重の上にも慎重を期さなければならないのです。

東芝機械ココム違反事件

東芝機械ココム違反事件をご記憶でしょうか。1987年ごろ、かなり騒がれた事件です。東芝機械がソ連に工作機械を輸出したことが、ココム、対共産圏輸出規制に違反しているとされたのです。

この工作機械を用いると、潜水艦のプロペラ(スクリュー)を大変高い精度で作ることが出来、それによってソ連の潜水艦の静粛度が増し、安全保障上深刻な脅威になったというのです。
攻撃型原子力潜水艦は何十もの核ミサイルを搭載したまま数ヶ月以上も潜水航行できる恐るべき兵器です。
米海軍は当時、ソ連の建造済み原潜すべてを追尾し、位置を把握していたのですが、上に述べた静粛なプロペラによって失探を余儀なくされたというのですから、その苛立ちは推して知るべし、といったところでした。

このような事情から、米世論は反日に傾き、ついには議会前で日本製品が打ち壊されるというデモンストレーションにまで至りました。そして、当時のマスコミはこの打ち壊しばかりをセンセーショナルに伝え、そのために事件の本質がうやむやになってしまった感があります。

確かに、当時巨額の対日貿易赤字を抱えていたアメリカのジャパンバッシングという側面は無視しがたいものがありました。
当該工作機械は、実は潜水艦の静粛性の向上とは殆ど無関係だったということが後に指摘されてもいます。
当時マスコミが描こうとした「東芝機械ココム違反事件=日本が濡れ衣で叩かれた事件」という図式は、あながち間違いではありません。

しかし、この事件には、もう一つの側面があります。

東芝機械は、輸出品を最新型の工作機械ではなく従来型の旋盤として申請していました。つまり虚偽申請です。

これは、「ルールが存在するが故に、ルールを破る者が得をする」という、厄介な現象の一例なのです。

なぜ虚偽申請をしたのかと言えば、ココム違反となることを認識していたからに他なりません。
ソ連の人々の暮らしが豊かになることを願ってのことでもなければ、共産主義と資本主義の対立に一石を投じたかったわけでもないのです。
ただただ、他社はビビって出来なかった違法輸出を敢えてやると儲かるから、です。ソ連はなんとしても工作機械が欲しいので、危ない橋を渡って輸出してくれる会社があれば、金に糸目は付けないはずです。これぞ、「ルールを破る者が得をする」法則です。
「規制」というものは、その本来の目的に対してどれほど有効であるかに関わらず、こういった副作用が常に伴うものなのです。

何事もズルはよくありません。

ズルした奴ほど得をする、では、なにがなにやら分からなくなってしまいます。ズルを防ぐには、相応のペナルティが必要なのです。そうしないと、ズルい奴ばかりが得して、正直者がバカを見る世の中になってしまいます。

って、ズルズルうるさいですね(笑)

何が言いたいのかというと、「制度を設計するときはその副作用をも慎重に検討しなければならない」ということです。
ココム規制は、極めて副作用(規制破りへの誘因)が大きく、従って、問題のある制度だった、と言うことができます。

Amazonの「ほしい物リスト」は個人情報漏洩?

まずは CNET Japan のこの記事を御覧ください。

もし、意図せず「ほしい物リスト」が公開されてしまっていた人は直ちに設定を変更してください。

私はこの機能を使っていなかったので影響は受けていないのですが、そもそも何が問題なのかを理解するのに時間がかかってしまいました。というのも、この機能はほんの数日前(3月8日)まで「ウィッシュリスト」と呼ばれていて、「ウィッシュリスト」ならば公開して当たり前、公開されていなければ意味がないと思っていたからです。

wish list というのは米話語でして、「これが私のほしい物なので、プレゼントをくれるならこの中からにしてくれ」というかなり図々しい発想の代物です。以前アメリカに住んでいたころは子供が親にこの wish list を突きつけるのを偶に見かけたものです。あと若い女性が恋人に突きつけたり(笑)
ですから、アメリカでは Amazon の wish list がデフォルトで公開になっているからと言って問題視する人はまずいません。いたらパラノイア扱いだと思います。ただ、公開される範囲がはっきりしていなかったという問題はあるかも知れません。いずれにしろ wish list という言葉の定義上、公開は当然の前提で、親しい友人・知人に範囲を区切っておきたいならそのように設定し直せば良い、と、彼らはそういう考え方です。それに、結局その友人・知人から親しくない人にまで伝わるかも知れず、また伝わったとしても「ほしい物」をプレゼントしてもらえる確率が少しでも上がるならウェルカムでーす、と。

ところが、日本人にはこういった図々しい発想はあまりありません。ですから、本当に自分のためのちょっとしたメモとして利用している人が多かったのでしょう。で、思いがけずそれが全世界に公開されていることを知ってびっくり、というわけです。おまけにご丁寧にも実名で公開されてしまう。この「実名で」という部分が特に問題なのかも知れません。やはり、日本では実名が公開されることに神経質ですからね。一方欧米ではプライバシーに関してうるさい割には実名を晒すことにはあまり抵抗がないようです。というか、wish list というものの性質上、リアルワールドの知人に向けて公開しないとあまり意味がなく、そのためには実名である必要があるわけです。

さて、Amazon の「ウィッシュリスト(ほしい物リスト)」はもともとこのようなものであるわけですが、それがなぜ今になって問題視されるのか。一つには上に述べたような文化的差異によるものがあるのでしょうが、もう一つ、あまり根拠はないのですが、競合他社による FUD の疑いがあるように思われます。
FUD というのは Fear、Uncertainty、Doubt の頭文字をとった単語で、要するに Amazon の商売敵が悪い噂を流しているのではないか、ということです。Amazon のウィッシュリストの機能は前から変わっていないのに、今になって問題視されだすのはどうも釈然としない、というのが正直なところです。

ジーコのツバ吐きと瀋陽総領事館事件と運動神経

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Fußball Urheber: Anton (rp) Winter 2004 Nutzungsrechte freigegeben: GNU GNU Free Documentation License.

唐突ですが、ジーコのツバ吐きをご記憶でしょうか。確か94年のJリーグ、彼は鹿島アントラーズでプレイしていました。川崎との決勝戦、後半30分過ぎ、詳しい経緯は失念しましたが鹿島が PK をとられたその時、ジーコがボールにツバを吐きかけたのでした。これに対して審判はイエローカードを出し、前半の一枚と合わせてジーコは退場となりました。

私は、ツバ吐きの理由にはあまり関心がありません。
関心があるのはなぜ「レッドカードではなかったのか」です。あの時、審判はイエローカードではなく当然レッドカードを出すべきでした。もちろん、ルールブックには「ボールにツバを吐いたらレッドカード」などとは書いてありません(多分)。恐らく、「紳士にあるまじき行為をしたらレッドカード」という包括規定があるのみだろうと思います。従って、審判は「紳士にあるまじき行為」であるか否か判断する必要があったわけです。その線引きは確かに難しいでしょう。
しかし、スポーツマンであるならば、まして審判という模範的スポーツマンならば、ピッチの上でやって良いことと良くないことの区別は瞬時にできて欲しかった。

またもや唐突ですが、ここで私は瀋陽総領事館事件を思い出すのです。2002年5月8日、瀋陽の日本総領事館に北朝鮮人の亡命者が駆け込み、それを追いかけてきた中国の武装警察官が領事館の敷地に侵入した事件です。この事件は一部始終を脱北者を支援する NGO によって撮影されており、様々な問題が明るみに出ました。子供を抱えて泣き叫ぶ女性を屈強な武装警察官が引きずっていく様子は確かに野蛮な印象でしたし、その後、武装警察官が敷地内に落としていった帽子を副領事が拾ってやっているところなどは、「何を悠長なことをやっておるか」と批判されたものでした。

ですが、私の関心はただ一点、なぜ領事館の日本人職員は誰一人として武装警察官の侵入を体を張って阻止しなかったのか、ということです。体を張ると言ってもたいしたことではありません。警官の進路に立ちはだかればそれでよろしい。中国の武装警察官がいくら野蛮でも、まさか外国の領事館員を殴ったり突き飛ばしたりはしないでしょう。

なぜか。それは運動神経が鈍いからに相違ありません。恐らく、領事館の職員は、中国の官憲が敷地に入ってはならないことを頭では良く理解していたはずです。しかし、イザというときに体が動かなかったのです。

その後、中国に対して「厳重に」抗議はしたとはいいますが、その効果の程は甚だ疑問です。なぜなら、体を張って止めなかった、そのこと自体が、如何に日本の外交官がヌルいか、真剣でないかを証明してしまっているからです。運動音痴はナメられてしまうのです。

こうして考えてみると、「考えるより先に体が動く」「理屈よりも直感で瞬時に正しい判断ができる」、すなわち運動神経は、スポーツマンのみならず多くの人にとって大切な能力であることが分かります。もちろん、沈思黙考して結論を出す、「考える人」も世の中に必要ですが、危機に対してサッと体が動く人、オタオタしない人、そういう人が現代において不足しているように思います。居合いの達人のように、静かな水面の如く穏やかな心を持ちながら、背後から襲いかかる者があれば、一閃、斬って捨てるような人です。

まぁ、そこまでの境地に達するのは無理にしても、常日頃から体を動かして運動神経を鍛えておきたいものです。

「運動神経」が良い、悪いという言い方は俗語であって、正しくは「運動能力」とでも言うべきなのでしょうが、本エントリでは敢えて「運動神経」としました。その方が感じが出ますので。

続・Winny使用者逮捕に思う

先日、Winnyを使用してウィルスを流していた大学院生が逮捕された事件について少し書きましたが、結論としては、静止画1枚の著作権侵害で捕まえるのはいかがなものか、ということでした。
ただ、警察の名誉のために言っておきますと、これは決して警察内部の点数稼ぎでもなければ見せしめ逮捕でもない(と思う)のですね。もちろん、このケースは明らかな別件逮捕に当たりますので、刑事訴訟法上の問題を抱えているのは確かです。恐らく、その点を鋭く突かれると有罪に出来ないことも考えられます。
が、そのことはひとまずおいて、今日は一般論として「捕まえやすい奴を捕まえる」・「目立っている奴を捕まえる」というのは警察のやり方としては必ずしも間違っていないということを論じようと思います。

交通違反の取締りなどを考えると分かりやすいのですが、割と「捕まりにくいコツ」みたいなのがあって、例えばネズミ取りをやってる所はしょっちゅうやってますし、飲酒検問なども「今夜当たりやってそうだな」と思うと案の定やってますよね。で、毎回要領の悪い人が捕まる、と。捕まった人に言わせると「オレより悪質な奴がいっぱいいるだろ! なんでそいつらを捕まえずにオレを捕まえるんだ!」ということになるわけですが、警察としては「悪質な順に捕まえる」というのは不可能ではないにしても非常に困難です。もし、どうしても悪質な順に捕まえろというのならもっと人員・予算が必要になる。つまり、「捕まえやすい奴を捕まえる」というのは限られたコストで最大限の効果を上げるためにある程度有効な方法なのですね。つい、コストを増やさずに各員の努力で対処しろ! と言いたくなってしまいますが、このような旧日本軍的精神主義は現代人の気質に合わないので、まずうまくいきません。それに、努力によって吸収できる幅には限りがありますしね。

結局、費用対効果を考えると一罰百戒も已むを得ないといったところですが、これには二つ問題があります。まず一つ。聞くところによると、インパラの群れは近くにライオンが来ても大して恐れる気色を見せないそうです。何故かというと、ライオンに食われるのは最も弱い個体一匹だけなので、皆自分だけは大丈夫と高をくくっているのです。これと同じことが犯罪者にも起きるのではないかと思うわけです。(インパラに失礼ですね。すみません)
もう一つは言うまでもなく不公平感を招きやすいということです。
まぁ、そんなことは警察もよく分かっている、否、一番よく知っている筈で、彼らは常に一罰百戒主義と天網恢々主義の間で最も効率の良いポイントを見極めようとしていることでしょう。

それにしても、正直者が馬鹿を見ることが多い世の中、警察にはしっかりやって頂きたいものです。

次はカップケーキが流行るらしい

ドーナツに続くヒットスイーツとして、カップケーキが台頭(日経トレンディ)しているそうです。美味しいですもんね、カップケーキ。

さて、スイーツをボールドで書いたのはほかでもありません、例の「スイーツ(笑)」について一文をものすためです。

この言い方も急速に広まってもう陳腐化しつつあるほどなので、皆さんとっくにご存知と思いますが、敢えて意味を説明いたしますと、女性誌などに見受けられる浅薄なキャッチコピーに乗せられやすい女性のことを揶揄する言葉です。彼らが洋菓子のことをスイーツ、スイーツと言うことからこう呼ぶのだとか。

でも待ってください。スイーツって言い方、そんなに変でしょうか?

手元の研究社 新英和中辞典によると、sweet の名詞形の第2義に『 [しばしば複数形で] 甘いもの.』というのがあります。この用法では可算名詞となります。(一方、ジーニアス英和辞典では実際には甘いもの全般というよりは、主にキャンディなどの砂糖菓子について言う、とあります)
The American Heritage Dictionary ではより具体的に sweets. Foods, such as candy, pastries, puddings, or preserves, that are high in sugar content. と、あります。
Collins COUBUILD English Dictionary には例文として、The sweet was a mousse flavoured with whisky. が掲げられています。これなどはそのものずばりのスイート(スイーツ)ですね。

話は飛びますが、以前どこかのサイトで見かけた文章で気になったのがありまして、壮年の教員の方が書かれたものなのですが、「若い先生が得意げにカタカナ語を使うので鼻についた」というような内容だったのですね。一見すると、ああ、カタカナ語は鼻につくよね、と同意したくなるのですが、冷静に考えるとその語(「オノマトペ」でした)は特に気障な言い方というわけでもないのです。結局、よく読んでみると「最近の若い者は……」といったよくある繰り言の類なのでした。このように耳慣れない言葉に対してまず反発する、というのは一種の老化なのかも知れません。

長々と書いて何が言いたかったかといいますと、洋菓子をスイーツと呼ぶのは外来語の取り入れ方として特に変ではない、ということなんですね。もちろん、そんなことは百も承知の上で、「でも、スイーツとか言ってるのは馬鹿ばっかりじゃん」という人もいるでしょう。でもね、どうも「(笑)」というのが嘲笑のための嘲笑に見えて仕方がないんです。他人を嘲笑おうとして己の卑小さをさらけだしているような感じですね。

もうそろそろ、スイーツ(笑)などと書いている方が恥ずかしい、という風になってきたのかもしれません。

Winny使用者逮捕に思う

21日の日経「波音」を読んでいて思わずのけぞりました。

ハイテクとローテク
ファイル交換ソフト「ウィニー」の開発者を逮捕するなどネット犯罪の捜査で知られる京都府警が、今度は国内で初めてコンピューターウイルスの作成者を特定、逮捕した。「捕まるはずがない」と思っていた容疑者を割り出したのは高度な解析技術だろう。しかし、激しい電脳戦の一方で、「ウイルスがネット上に放出されていた時間帯に何をしていたか」といったことを裏付けるため、容疑者に対する地道な尾行や行動監視が繰り返されていた。華やかに見えるハイテク捜査を、足で稼ぐ昔ながらのローテク捜査が支える。何故かほっとした気分になる。(坂)

いかにもネット社会の悪者「ウイルス作成者」を捕まえてお手柄という感じですが、この事件、実はウイルス作成ではなく「著作権侵害」容疑での逮捕なのです。で、何の著作権かと言えばアニメの静止画一枚なのだとか。確かに、一枚でも侵害は侵害です。捕まってしまったのは仕方ないようにも見える。どうせ悪い奴ですしね。
しかしながら、見渡すと、アニメの静止画などそこらじゅうのサイトに使われてます。彼らは逮捕されていません。キャプチャした画像をそのまま使うのはもちろん、自分で描いたものであっても厳密には違法となる(権利者から許諾を得ている場合は別。また、固有の創造性を持つものも別ですがまず認められない)のですが、「このくらいいいか」と思ってしまったり、よく知らなかったりで、特に自分で描いたものはほぼ問題なしという認識が大勢となっています。
また、権利者(ここではアニメ会社)の方でもいわゆるファンアートを一律に禁じてはかえってイメージダウンとなるとして、例えば(株)ガイナックスなどは「ファンが自分で描いたものはサイトに載せてよい」という方針を採っています。(ただし、ガイナのガイドラインをよく読むとエヴァンゲリオンとフリクリについてしか規定しておらず、他の作品、たとえばグレンラガンのイラストはどうなのかということははっきりしません。多分NG? って、もはやオタクにしかついて行けない話になってますね(笑))

さて、件の容疑者がウィニーで流したのはキャプチャしたものか自分で描いたものか、恐らくは前者でしょうが、いずれにしろ侵害の度合いはかなり軽微と言えます。交通違反で言えば、5キロオーバーで捕まえるようなものです。まぁ、違反は違反ですから一歩譲って捕まえるのは良いとして、「国内で初めてコンピューターウイルスの作成者を特定、逮捕した」と胸を張るのはちょっと違うんじゃないか、と。

何より驚かされるのは、いやしくも社会の木鐸たらんとする者がこのような明らかな別件逮捕を上記の引用のように賞賛していることです。ジャーナリストとしてどうなんでしょうね。ま、ブルジョア新聞だからかなぁ(笑)

最後に。私はウィニー使用者を擁護しているわけではないので誤解しないでくださいね。

ソフトウェアは見た目が大切

先日、Joel Spolsky氏が来日講演し、ソフト開発の三つのポイントを挙げたそうです。曰く、「幸せ・感情・美学」だそうですが、理系頭の開発者にとって理屈では分かっていてもなかなか納得しづらいのが三つ目の「美学」ですね。
プログラマは、要求された機能を実現するために最も洗練された、美しいアルゴリズムで実装することに心を砕く(と思う)わけですが、アルゴリズムは見えませんからね。ユーザーにとっては機能が全てであって、それがどのように実装されているかについては全く関心がありません。
更に言うと、その「機能」も実は目に見えないんですね。画期的な機能があるのにユーザーはそれに気づいていない、ということがよくあります。メーカーとしては、「これぞ」という機能は「本ソフトウェアの特徴」などと宣伝することくらいしかできませんが、人はそもそも使ったことがない機能について説明されてもイメージすら浮かばないものなのです。
Spolsky氏は、建築の世界では装飾を取り除いたデザインが主流となっているが、ソフトウェアでは無駄と思える要素も必要、と言っています。
これも結局、「見た目」に還元できる話だと思います。建築では見た目で機能美を表現することが出来ますが、ソフトウェアでは不可能です。使い込んでみて初めて「無駄のない良いデザインだな」とわかる程度です。
ですから、我々素人は結局本当に「見た目」、つまりUIの出来によってしか評価しないんですよね。会議で、機能は殆ど出来上がっているソフトウェアに仮の粗末なUIをつけてプレゼンすると重役達は渋い顔をし、なーんにも出来てなくてもそれらしいUIを見せると満足するものなのだとか。

ところで、このエントリを書くために参照した ITPro の記事は、奇しくも「ソフトウェア見た目が大切」となっていました。「も」というからには記者氏の念頭には「見た目が当然重視される何か」があった筈です。なんでしょうね。やっぱり「人間」でしょうか(笑)

フォークロア・迷信・疑似科学

先日から「知のヴァーリトゥード」の庄内拓明さんが疑似科学に関する話題を数回に渡って取り上げられていて、それが一見疑似科学に理解ある態度であるために強い反発も招いているようです。
このようにある意味喧嘩沙汰になっているところに外野から囃し立てるのもどうかということで、黙っていようかとも思ったのですが、いろいろと考えるところがあったのでちょっと書いてみます。

まず、私は「疑似科学」という言葉をピルトダウン人やエーテル理論のように一応真面目な科学者の考察の対象だったモノに対して用い、「水からの伝言」や「波動測定器」のたぐいは「似非科学」と呼んで区別しています。
まあそれは言葉遊びに近いので大した問題ではないのですが、似非というかなり否定的な言葉から水伝やらなにやらに対する態度は読み取ってもらえると思います。
水伝のなにが怪しからんかと言って、悪徳商法と結びついているのもさることながら、こういうものを信じてしまうその弛緩しきった精神がイヤなのです。一事が万事とはよく言ったもので、そういう人は他の場面でもロクに考えずに何でも信じてしまう。水伝を信じ、血液型占いを信じ、マイナスイオンは健康に良いと信じ、恐らく、ユダヤ人は社会の害悪と言われればそれも信じるのでしょう。

このように石頭で似非(疑似)科学大嫌いな私ですが、庄内さんの「じゃあ、パン生地をこねるとき『おいしくなれよ~』などと声をかけるのはどうなんだ」という話には思わずニヤリとさせられました。
思い起こせば私も子供の頃、「大根をおろすのに、嫌々ながらやってると辛くなり、喜んでやっていると甘くなる」と言われたものです。ですから、台所の手伝いで大根おろしをやらされるときは出来るだけ丁寧にやっていました。幼少期の美しい思い出なのです。それに対して「それは君、非科学的だヨ」としたり顔でツッコミを入れられるとさすがの私もブチ切れます(笑)
「粗雑なおろし方をすると大根の細胞が云々」といった漫画「美味しんぼ」的な分析も、もしかしたら可能なのかも知れませんが、そもそも、そんなになにもかも科学的に説明がつかなくても良いではないか、というのが大方の人の考え方ではないかと思います。この他にも「食べてすぐ寝ると牛になる」とか「夜、口笛を吹くと蛇が来る」とか、敢えてその非科学性を批判するまでもない、もし批判していると知性を疑われるような事柄は幾らでもあるわけです。

さて、こういった麗しきフォークロアと似非科学とを分かつメルクマールは奈辺にあるのでしょうか。単に非科学的というだけでは両者とも当てはまってしまう。やはり、ここは字義に忠実に「疑似(似非)科学とは科学性を僭称しているもの」と捉えるのが妥当でしょう。具体的には科学用語の使用。「マイナスイオン」だとか、「波動」などですね。結局、疑似科学がこれらの語彙を用いるのは、正統派科学のご威光にあやかろうというコバンザメ的意図より出たものとしか考えられませんからね。それからもちろん、科学界で認められた手続に則らずに知見(らしきもの)を吹聴していることですね。この二つに当てはまるのが疑似科学です。

最後に疑似科学批判、及び再批判に関して。
J. H. Schön の論文捏造などを挙げるまでもなく、疑似科学というものは巧妙にやられると本物の科学と殆ど見分けが付きません。水伝などはアホっぽさが目立つので素人にも判別できる、というだけです。ですから、適切な疑似科学批判が肝要だと考えます。我々素人には、血液型占いや、マイナスイオンがどーたらや、あるある大辞典を一々検証する時間も能力もないので、疑似科学批判者の剣幕の度合いでインチキさ加減を知るほかないわけです(笑)
ただし、批判者の中には、「疑似科学批判」=「『知的なボク』が『トンデモ』をイジって遊ぶこと」みたいな心得違いをしている人も稀にいます。まあそんなにいい子ちゃんぶるつもりもないのですが、あれだけはあまりカッコイイものではないのでやめて欲しいですね。

 

悴める指にて弾かむサン・ハウス