先日から「知のヴァーリトゥード」の庄内拓明さんが疑似科学に関する話題を数回に渡って取り上げられていて、それが一見疑似科学に理解ある態度であるために強い反発も招いているようです。
このようにある意味喧嘩沙汰になっているところに外野から囃し立てるのもどうかということで、黙っていようかとも思ったのですが、いろいろと考えるところがあったのでちょっと書いてみます。
まず、私は「疑似科学」という言葉をピルトダウン人やエーテル理論のように一応真面目な科学者の考察の対象だったモノに対して用い、「水からの伝言」や「波動測定器」のたぐいは「似非科学」と呼んで区別しています。
まあそれは言葉遊びに近いので大した問題ではないのですが、似非というかなり否定的な言葉から水伝やらなにやらに対する態度は読み取ってもらえると思います。
水伝のなにが怪しからんかと言って、悪徳商法と結びついているのもさることながら、こういうものを信じてしまうその弛緩しきった精神がイヤなのです。一事が万事とはよく言ったもので、そういう人は他の場面でもロクに考えずに何でも信じてしまう。水伝を信じ、血液型占いを信じ、マイナスイオンは健康に良いと信じ、恐らく、ユダヤ人は社会の害悪と言われればそれも信じるのでしょう。
このように石頭で似非(疑似)科学大嫌いな私ですが、庄内さんの「じゃあ、パン生地をこねるとき『おいしくなれよ~』などと声をかけるのはどうなんだ」という話には思わずニヤリとさせられました。
思い起こせば私も子供の頃、「大根をおろすのに、嫌々ながらやってると辛くなり、喜んでやっていると甘くなる」と言われたものです。ですから、台所の手伝いで大根おろしをやらされるときは出来るだけ丁寧にやっていました。幼少期の美しい思い出なのです。それに対して「それは君、非科学的だヨ」としたり顔でツッコミを入れられるとさすがの私もブチ切れます(笑)
「粗雑なおろし方をすると大根の細胞が云々」といった漫画「美味しんぼ」的な分析も、もしかしたら可能なのかも知れませんが、そもそも、そんなになにもかも科学的に説明がつかなくても良いではないか、というのが大方の人の考え方ではないかと思います。この他にも「食べてすぐ寝ると牛になる」とか「夜、口笛を吹くと蛇が来る」とか、敢えてその非科学性を批判するまでもない、もし批判していると知性を疑われるような事柄は幾らでもあるわけです。
さて、こういった麗しきフォークロアと似非科学とを分かつメルクマールは奈辺にあるのでしょうか。単に非科学的というだけでは両者とも当てはまってしまう。やはり、ここは字義に忠実に「疑似(似非)科学とは科学性を僭称しているもの」と捉えるのが妥当でしょう。具体的には科学用語の使用。「マイナスイオン」だとか、「波動」などですね。結局、疑似科学がこれらの語彙を用いるのは、正統派科学のご威光にあやかろうというコバンザメ的意図より出たものとしか考えられませんからね。それからもちろん、科学界で認められた手続に則らずに知見(らしきもの)を吹聴していることですね。この二つに当てはまるのが疑似科学です。
最後に疑似科学批判、及び再批判に関して。
J. H. Schön の論文捏造などを挙げるまでもなく、疑似科学というものは巧妙にやられると本物の科学と殆ど見分けが付きません。水伝などはアホっぽさが目立つので素人にも判別できる、というだけです。ですから、適切な疑似科学批判が肝要だと考えます。我々素人には、血液型占いや、マイナスイオンがどーたらや、あるある大辞典を一々検証する時間も能力もないので、疑似科学批判者の剣幕の度合いでインチキさ加減を知るほかないわけです(笑)
ただし、批判者の中には、「疑似科学批判」=「『知的なボク』が『トンデモ』をイジって遊ぶこと」みたいな心得違いをしている人も稀にいます。まあそんなにいい子ちゃんぶるつもりもないのですが、あれだけはあまりカッコイイものではないのでやめて欲しいですね。
悴める指にて弾かむサン・ハウス