宇佐市院内

東京に住んでいる伯父と、大分県の宇佐市院内というところに行ってきました。私の曾祖父(高祖父かもしれない)に当たる人がこの町で医者をしていて、伯父や父は子供の頃、よくここへ遊びに来ていたそうです。

その伯父が久しぶりに九州に来て、思い出の地・院内に行きたがっていると聞き、供をすることにしました。父は三年前に他界しましたし、伯父も高齢なので、この機会を逃しては祖先の地を目の当たりにすることも不可能(行くだけなら簡単だけども、「前は、ここに診療所が建っていて……」といったことは永久に分からずじまい)になりますからね。

鳥居橋

鳥居橋という石橋です。大正5年に作られたそうで、なかなか立派です。伯父も懐かしいと言ってました。

鳥居橋

思ったよりも高さがありました。高所恐怖症の人は下を見ない方が良いかも。

この院内には他にもたくさんの石橋があるそうです。今日は時間がなくて回りきれませんでしたが、そのうちまたここを訪れて、今度は全部の橋を見て回りたいと思います。

なにがパワースポットだ

ここをご覧になっている方はご存じかと思いますが、私は古墳や神社仏閣を見て回るのが趣味です。それも、立派な資料館が建っていたり、団体旅行用のバスが何台も停まっているような有名な場所ではなく、地元の人達がひっそりと守っているような小さなところが好みです。

そんな私が近頃憤慨しているのが「パワースポット」とかいう言葉です。

猫も杓子もパワースポット。自分が訪れたことのある場所がネット等でパワースポットとして紹介されているのを見ると心底がっかりします。これから行こうと思っている場所なら、行く気がなくなります。

何がそんなに気にくわないのか、考えてみました。

「力をもらう」といった、現世利益的な態度でしょうか。しかし、それだけなら伝統的な寺社参りも同じです。特に神道には「御利益」を期待して「お賽銭」を投げるという、割と身も蓋もない習慣があります。お守りや絵馬も売っていますしね(「差し上げて、かわりに寄付して頂く」という建前ですが)。そういうことが悪いとは思いません。

では、オカルト的だからでしょうか。正直これはあります。それを言ってしまうととたんにうさんくさくなる言葉というものがあり、「パワースポット」はその一つです。また、「地磁気がどうの……」といったエセ科学的な説明も行われています。オカルトもエセ科学も私は大嫌いです。ただ、元々人が墳墓や神社仏閣を作るのは「信仰」に基づいてなわけですから、そういう意味ではオカルトやエセ科学との区別は必ずしも容易ではありません。

結局、「パワースポット」という言葉の軽薄な響きがイヤなんですね。それ以外に理由は思いつきません。まあ、個人的な好き嫌いの範疇と言ってしまえばそれまでです。

ともかく、自治体が域内の古墳・神社仏閣などを紹介する際、担当者は、「パワースポット」という言葉を毛嫌いする人間もいるということを心に留めておいた方が良いと思います。

必要なのは脱原発ではなく、福一事故の収束

「脱原発」が流行しています。都知事選挙では、元首相の細川護煕が「脱原発」を掲げて立候補し、ある程度の支持を得ています。東京に原発などないのに奇妙なことです。

脱原発派の主な論拠になっているのが、「現在全ての原発が止まっているが、特に支障がない」という事実です。

もともと日本の電力会社の発電能力は、一年のたいていの日の需要を上回っています。ただ年に数回ある猛暑の日、それも午後の1,2時間だけ、みんながエアコンを付けるので消費電力量がピークに達し、そのピークに対応するために過大とも言える発電能力を保持しているのです。

だから、原発無しでもある程度までは対応できるのですが、ただでさえ石油や天然ガスの価格は乱高下しやすい上に、「日本は原発を動かせないなら、石油・天然ガスを買うしかないですよね」と諸外国から足下を見られ、割高の燃料を買わされることになります。

勘違いしがちなのは、原発というものは止めたからといって安全なわけではない、ということです。停止しても冷やし続けなければいけません。現在全ての原発が運転停止していますが、それによっていかほども安全になったわけではないのです。

福島の事故による被害は甚大で、原発の安全性に疑いが投げかけられているのは当然のことです。しかし、原発を止めるだけでは意味がないし、完全な廃炉を目指すのは無意味ではないとしても、我々が負担しなければならない費用は現在の比ではありません。

交通事故に喩えると、「事故を起こしてしまったのでもう自動車には乗らない」というのも一つの考え方ですが、「敢えて乗り続けて金を稼いで、被害者に賠償する」というのもまた一つの考えです。

脱原発するか否かは二次的な問題であって、現在の福島第一原発事故の収束と被害者の救済こそが喫緊の課題と言えるのではないでしょうか。

努力すれば成功するとは限らないが

できることを全て実際にやってみたら、文字通り自分でも驚くだろう

トーマス・エジソン

 

再び「努力」について。

少し前に「努力すれば成功するとは限らない」という為末さんの発言に疑問を呈しました。

彼に同調する人の意見でかなり説得力があるのが、「努力すればできるというのは、できないのは努力が足りないからだ、となる」というものです。

十分努力してる人に向かって「努力が足りない、もっと努力しろ」と言うのは酷いと。

確かに酷い。

しかし、前回書いた通り、そういう例をあまり見たことがないんですよね。「どうせ無理だ」と諦めてしまっている人ばかりです。

努力しないのは才能がないことを知りたくないから

思うに、努力して、やっぱりダメだったとき、自分に才能がないことが明らかになるのを恐れているのでしょう、彼らは。何もしなければ、少なくとも「才能があるかもしれない」というポテンシャルだけは保ち続けることができますから。

こういうメンタリティを醸成したのが、昨今の「個性尊重」教育です。

とにかく、個性が大事だと言う。しかし個性とは何かは誰も教えてくれない。個性とは(何かの)才能のことだろう、となるのです。

そして、才能がないことは個性がないことなので、現代の教育で植え付けられた価値観からすれば、存在を否定されたに等しいわけです。だから、「才能がない」と言われることを極度に恐れる。「努力が足りない」と言われる方がマシだと。その行き着く先がニートです。

必要なのは才能ではなく努力

才能なんかなくても、何の取り柄もなくても、ただこの世に存在しているだけで個として尊重されるのが本当の個人主義です。個性尊重です。

その上で、各人は何かに向けて努力する。何かとはつまり幸福追求です。まずは着て食って住むためのものを手に入れる努力。それ以上は、お金が欲しい人は稼げば良いし、ギターが上手に弾けることが幸福なら練習すれば良い。これこそが、個性の尊重だと思うのです。

我々が克服しなければならないのは、「努力信仰」ではなく「才能信仰」の方です。

努力すれば成功するとは限りません。努力など不要なほど恵まれた境遇ならそれも結構。しかし、努力によって得られるものは、世間の人が思っているより大きいのです。

高塔山公園

若戸大橋を渡って、若松区の高塔山公園に行ってきました。

高塔山公園-眺望

いかにも「工業地帯」という感じに、煙突から煙がたなびいています。上の写真はDSC-RX100の「スイング撮影」を使ってるんですが、手軽にパノラマ風撮影ができて楽しいです。拡大すると、ちょっとディティールが荒れてますけどね。

高塔山の頂上付近には駐車場、売店、展望台が整備され、市民の憩いの場となっています。

河童地蔵尊

展望台の脇に、火野葦平の小説「石と釘」で有名な河童封じの地蔵尊があります。麓にある葦平の旧居、河伯洞も訪れてみたかったのですが、今回は不慣れな土地ゆえ、山だけにしておきました。いずれ行ってみたいと思います。

バイク

バイクは絶好調です。新車だし、インジェクションなので始動は極めて良好、4気筒エンジンは滑らかで良く回ります。

……調子に乗って飛ばしすぎないようにしないといけませんね。

ベイツのライディングジャケット

バイクに乗るときはワークマンで2,980円で買ったジャケットで十分と豪語していましたが、やはり、専用のライディングジャケットはひと味違いますね。

ベイツのライディングジャケット

例によってカメラ目線です(笑)

革製なので防寒性能は大したことない、と思っていたのですが、実際は袖口から風が吹き込まないようにする工夫や、内部の二重構造などによってかなり暖かく、快適です。プロテクターも入ってますしね。

それに、ワークマン等の汎用品は、スピードを出したときにバタつくのがつらいです。その点、ベイツのジャケットは適度な硬さがあって風に煽られることがないし、それでいて腕の部分は蛇腹のようになっていて動かしやすくなっています。

唯一難点を言えば、ファッション的にキメ過ぎでちょっと気恥ずかしい点ですね。まあ、これは精神修養で何とかするしかないでしょう。

「愛国」という言葉を使うと馬鹿だと思われる?

Hagex-day.info さんで「使うと馬鹿だと思われるネット用語(2014年版)」というのをやっています。詳しい内容は向こうで見てもらうとして、一つだけ異を唱えたいのが「愛国」です。

日の丸他のことはいざ知らず、「愛国」という言葉を使うと馬鹿だと思われる、というのだけは納得いきません。

なるほど、ネット上には「TwitterやFacebookの自分のアイコンを日の丸にするだけ」といったスラックティビズム的傾向がありますし、ヘイトスピーチに終始する、「ひいきの引き倒し」的愛国者もいます。

それも、かなり。

なので、「少数の例外を以て全体を語るな」とは言いません。hagex さんの考えを勝手に忖度すると、中国人や韓国人や生活保護受給者を罵倒しても何も変わらない、社会を変えたければ、きちんと税金や年金、健康保険料を納めるといった一見地味なことからやれ、ということでしょう。この点は私も全くの同意見です。

でもね、国を愛する馬鹿がいたとしても、賢い人間が国を愛してはいけないという道理はないでしょう? そして、そういう人が愛国を口にしたとき、「ハイ、出ました、『愛国』。馬鹿決定」などと言う馬鹿が必ずいるものですが、連中を勢いづかせても何も良いことはありません。まさに、「馬鹿って言う奴が馬鹿」の典型です。

くどいようですが、愛国を唱える馬鹿がいるからといって、愛国を唱えたら全て馬鹿だと思うのは論理的に誤りです。

小倉城とライトアップの是非

夜の小倉城です。

小倉城-夜
F1.8, 1/13秒, ISO-1600, AWB

手持ち、マニュアル露出。最近、感度を上げることを覚えました。
ええ、いまさらです(笑)

ライトアップは是か非か

城は、夜になれば闇に沈み、ただ篝火や月や星の明かりに微かに照らされるのが本来であろうとは思います。歴史的建造物のライトアップは不自然と言えば不自然です。しかし、現在の小倉城は昭和34年に再建されたものです。見せてなんぼ人が集まってなんぼです。

ライトアップによって僅かでも地域が活性化するならどんどんやったら良いのではないでしょうか。最近はLEDが使われているので消費電力も微々たるものです。

そういう意味で、先日写真を載せたニッカウヰスキーの倉庫のライトアップの試みは、企業の社会貢献として個人的に高く評価しています。

感謝の気持ちを込めてウイスキーを飲もうかと思います。

デブでそんなに悪いのか

先日、ある人が「吉野家にはミニ牛丼がない、並では多すぎてデブになってしまう」と言っているのを聞いて愕然としました。男性ですよ。私の感覚では吉野家の並は少なすぎるのですが。

そこで、吉野家のサイトで確認すると、

牛丼

なるほど、セット前提のミニ牛丼はありますが、単品では並が最小のサイズのようですね。気になるカロリーは 674kcal だそうです。結構ありますね。でも、大の男が気にするほどとは思えません。

デブでそんなに悪いのか

冒頭の男性の発言が示す、太ることへの過剰なまでの抵抗感はどこから来ているのでしょうか。

もちろん、太りすぎは健康に悪いし、見た目も良くありません。スリムな方が良いにきまっています。しかし、昨今の「肥満恐怖症」とも言うべき現象が、これほどまで広がっているのは異常です。

恐らく、時代の閉塞感を反映し、肥満者差別が先鋭化しているのが原因でしょう。

デブは醜くて存在しているだけで不快だとか、死ねば良いとか、とにかく酷い。

「チビやハゲはどうにもならないが、デブは本人の努力で防げる。そうしないのは本人が悪い」という、一見もっともらしい理屈をこねる人もいます。確かに、差別を「本人の意思では変更不可能な属性を攻撃すること」と定義すれば、デブ差別は差別ではありません。

が、国籍差別はどうなんでしょう。特定の宗教の信者の差別は? 国籍も宗教も「変更不可能」ではありませんよね。でも、変更しなければならない謂われはないし、これらはやっぱり差別に他なりません。

肥満に対する場合も同じです。要するに、「人は痩せる努力をすべき」という信念を持つのは勝手だが、それは誰かを傷つけて良い理由にはならない、ということです。