あかねの郷

温泉、行ってきました。大分県国東市国見町にある「あかねの郷(さと)」というところです。

あかねの郷

かなりの山奥にあり、最初はこんなところに本当に旅館があるのかな? と思ったのですが、着いてみるとなかなか立派な建物で、温泉も特別広くはありませんが良い感じでした。

この日は台風が通過するということで、他には殆ど客もおらず、ある意味ゆっくりと湯に浸かることが出来ました。2日目の朝などは風雨の強まる中、敢えて露天風呂の方に行くなど、酔狂をしてみました。雨が降り込むので少しぬるかったですけどね……。

風雨と書きましたが、風はさほど強くはありませんでした。最近は注意を喚起するために「非常に強い台風」「猛烈な台風」といった表現をよく使うようです。しかし、「非常に強い」というわりには大したことないという印象を与えてしまっては、かえって油断を招くのではないでしょうか。

ともかく良い骨休みにはなりました。

なぜ人は人を殺してはならないか

たしか、1997年、神戸で児童殺傷事件が起きたときのことだったと思います。テレビでは連日連夜特番が組まれ、ジャーナリストや教育者や政治家や芸能人が事件について様々なことを言いました。

そうした番組の中で、「一般の人」の声として、「そもそもなぜ人は人を殺してはならないのか」という発言が出て、学者もジャーナリストも返答に詰まる、といったことがありました。

この発言は当時の大人達を愕然とさせ、論争を生みました。

大江健三郎は「私はむしろ、この質問に問題があるとおもう 。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ」と述べました。私は大江のこの発言の意味が未だに飲み込めません。

飲み込めないのでコメントもしませんが、他の多くの識者は、「人は他者の命を尊重することで、自分の命も尊重されるようにしてきた」という説明をしました。

ホッブス的な「万人闘争」から、ルソー的な「社会契約」へ、というわけです。たしかに、穏当な見解ではあります。

しかし、私はこの説も半分しか信じていません。

たとえばの話です。船が難破して、無人島に流れ着いたとします。人数は……そうですね、3人としましょうか。あなただけがピストルを持っていて、他の2人を殺そうと思えばわけもなく殺せます。法によって裁かれる恐れもありません。

殺しますか?

常日頃から恨みを抱いていたならともかく、普通は殺さないと思います。それどころか、かけがえのない仲間として助け合うことでしょう。でも、疑い深い人は、「無人島では助け合う必要があるから殺さないだけ」と言うかもしれません。

それならば、人里離れた場所に監禁されている人質同士ならどうでしょう。映画などで偶に見かけるように、テロリストがあなたに他の人質を「処刑」するように命じたら?

これなら殺しますよね?

やはり殺しませんか……。少なくとも殺したくはないですよね。

結局のところ、人間は殺さない動物、ということではないでしょうか。社会契約以前に、「殺さないこと」は生物としての人間にDNAレベルでインプットされた習性なのです、たぶん。

ニヒリストは言うでしょう、「殺さない動物などとは笑止。人類の歴史は戦争の歴史だ」と。

それは、「道具」のせいです。

またも思考実験ですが、あなたに怨敵がいるとします。殺人罪で罰せられることなくヤツを殺すことが出来ますが、素手でやらなければなりません。やりますか?

なにしろルール無用の徒手格闘ですから、噛みつきアリ、首締めアリのそれは凄惨な闘いになるはずです。かなり躊躇するのではないでしょうか。

では、日本刀を使って良いならどうでしょう。素手よりはかなり容易であるにしろ、まだ血なまぐささは避けられません。

しかし、遠くから鉄砲で狙って撃つということなら、負担は激減します。

これこそが、「戦争の歴史」のメカニズムです。

究極的には人が人を殺してはならない理由はない。それはその通りでしょう。しかし、「殺すなかれ」は昔の人が思いつきで作った戒律では決してなく、生物としての人間の習性に基づいているということは言えそうです。

架空の銀行からのメール

今までにも何度となくアホな詐欺メールを晒してきましたが、また「独創的」なヤツが来ました。

詐欺メール

「東京ファンド銀行」という架空の銀行からです。「振込入金」という表現が「馬から落馬」的で揮っています(笑)

なるほど、実在の銀行を騙るのと違って、架空の銀行なら注意喚起がなされることもありませんね。もっとも、口座を持つ人もいませんから、暗証番号の盗みようもありませんが。

恐らくこれは、パスワード等を使い回している人が多いことに着目したフィッシングです。あるいは、キーロガーなどを仕込むつもりなのかもしれません。

「生年月日や電話番号など、第三者に類推されやすいものの使用は避け……」などと、如何にも銀行が言いそうなことを書いているあたりは、なかなか巧妙です。

小癪ですね。

家の基礎からゴミが出てきてはかなわない

千葉県浦安市の「パークシティ・タウンハウス3」の住人達が、地震による液状化現象で被害を受けたのは、三井不動産が地盤の調査・改良を怠ったためであるとして、損害賠償を求めた裁判で、東京地裁が住民の訴えを棄却しました。

浦安と言えば東京に近く、とても便利な場所ですから、当然宅地も高価だったことでしょう。世間では、「それ見たことか、これだから埋め立て地はどうのこうの~」と知った風な口を利く者が多かったものですが、その嬉しそうな口ぶりは、他人の不幸は蜜の味という言葉がぴったりでした。

気の毒なのは住人達です。

一般に、住宅の基本構造部分に瑕疵がある場合、買い主は売り主あるいは請負人に補修を求めたり、損害賠償を請求したりできます。民法では請求できるのは瑕疵を見つけてから1年間です。ただ、家が建ってから30年後、50年後に「瑕疵を見つけた」といって賠償請求されるのでは売り主がたまらないということで、かつては請求できる期間を引き渡しから2年程度に区切る特約を結ぶのが普通でした。

平成12年より施行された住宅品質確保法によりそれが10年に延長されましたが、逆に言えば、引き渡しから10年経つと請求できなくなるということです。

パークシティ・タウンハウス3が分譲を開始したのは1981年とのことで、10年どころか30年が経過しています。液状化が予見可能だったならば別ですが、そうとも言えなそうです。住民敗訴とした裁判所の判断はやむを得ないところなのでしょう。

しかし、報道によれば、傾いた家を元に戻そうとジャッキアップしてみれば、基礎の部分から空き缶やらハイヒールやらのゴミが大量に出てきたという話です。実際にやったのは下請け・孫請けであるにしても、三井不動産の対応には疑問を感じます。

ここで思ったのは地鎮祭の効用です。地鎮祭や棟上げが、ともすれば時代錯誤のように言われる昨今ですが、どうせ分からないからと人の家の基礎にゴミを混ぜ込むような輩がいる限り、無意味ではありません。

神主が御幣を振ったり塩をまいたりしているのを見れば、さしもの不心得者もゴミを捨てて良い場所かどうか分かるでしょうから。

新原・奴山古墳群

先日から紹介する、すると言いながらしていなかった新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群は、かつての福岡県津屋崎町、現在の福津市にあります。

この古墳群、なんとユネスコの世界遺産暫定リストに載っているのだそうで、市としては正式登録に向けて頑張っているところのようです。

新原・奴山古墳群

12号墳。6世紀前半の築造です。民家のすぐ側で、しかも住人以外通らないような小さな道の先にあるので、入っていくかかなり迷いました。道の切れ目と古墳との間に林があり、墳墓全体を捉えようとすると木が入ってしまうのが残念です。

新原・奴山古墳群

写真中央の円墳は20号墳。5世紀。左に小さく見える鳥居の後ろの小山は22号墳。現在前方部は失われていますが、前方後円墳です。

新原・奴山古墳群

その鳥居です。他の古墳は草刈りが行われているのに対し、22号墳は鬱蒼たる木々に覆われているのは、この鳥居で分かるように神域とされているからでしょう。

新原・奴山古墳群

25号墳。5世紀。この日は風が強く、草がなびいています。

新原・奴山古墳群

30号墳。6世紀中頃。かなりきれいな形を保った前方後円墳です。手前のコスモス畑が詩情を誘いますね。

新原・奴山古墳群

24号墳。6世紀前半。前方後円墳です。

おまけ。

万葉歌碑

すぐそばにある、万葉歌碑です。この歌については、以前書きました

さつき松原

古墳を見に福岡県福津市へ行く途中、さつき松原というところを通りました。

さつき松原

かなりの上り坂になっているのが分かりますでしょうか。

この松林、要は防砂林で、その意味では全国津々浦々にあるものと変わりません。が、一応「日本の白砂青松100選」に入っていて、なかなかの名勝です。

さつき松原

波頭の白さからも風の強さが分かると思います。砂が目に入って難儀しました。

さつき松原

コンクリートの堤防が邪魔で松林がよく見えませんが、安全のためですからやむを得ません。遠くの高台に見える白い建物はホテルのようです。さぞかし見晴らしが良いことでしょう。

古墳については後日。

牛丼の価格と最低賃金

某牛丼チェーンのいわゆるワンオペ問題に関して、「政府が牛丼の最低価格を決めれば良い」と言っている人を見かけました。随分思い切った意見です。

しかし、それは賢明な策とは言えません。価格が上がれば売上げが減り、さらなる人件費カットが行われる可能性がありますし、仮に売上げが変わらない、もしくは増えたとしても、従業員に還元される保証はありません。

さらに困ったことに、それが何であれ、政府が価格を統制すると、デッドウェイトロスと呼ばれる損失が発生し、社会全体のパイ(Social Surplus)は必ず減少します。

では、賃金の方を公定すればよいのでしょうか。

いいえ、政府の介入は常に悪です、と言いたいところですが、さすがにそうは言い切れません。

理論的には賃金も「神の見えざる手」によって決まるとき、最も効率的になるはずです。しかし、実際には同じ仕事で一円でも賃金が高ければ明日からでも転職、というわけにはいかないので、「神の見えざる手」は十全には機能しません。

だから、法により最低賃金が定められているのです。

もっとも、私はこの制度(最低賃金による労働者保護)にも疑問を持っています。世の中の人全てが賃金だけで暮らしているわけではありません。例えば、不動産収入があるので食うには困らない人が、どうせ暇だからちょっと働きたいと言う場合。人によっては時給600円で良いというかもしれない。

あるいは、親に養ってもらっている学生がお小遣いを得るために働く場合、仕事のキツさと見合うなら時給500円でも構わないという人も居るでしょう。嫌なら働かないまでです。

端的に言って、最低賃金を撤廃すれば社会全体のパイは増えます。

一考に値する問題です。

ギャンブルの弊害

カジノのついでにギャンブルについてもちょっと語ってみます。

昨日、控除率という話をしました。控除率とは 1 からそのギャンブルの期待値を引いたものです。

例えばサイコロを二つ同時に振って両方とも 1 ならば、つまり博徒の言うピンゾロならば掛け金が36倍になるというギャンブルがあるとします。この場合、期待値は 1、つまりずっと繰り返していけば、損も得もなくトントンになりますよね。控除率は 0 です。

もし、30倍にしかならないとすれば期待値は 0.833 、控除率は 1 – 0.833 = 0.166 、16.6% ということになります。

控除率が低いほど客にとって有利と言えますが、ギャンブルとして健全かどうかはまた別の話です。

日本の自治体が運営する宝くじは控除率が 55% もあり、暴利も良いところです。しかも、パリミュチュエル法といって、売上げの中からまず 55% 差し引いて、残りの 45% を配当する方式です。では、ものすごく不健全かというとそうでもなく、宝くじを買うために借金や強盗をしたという話は聞きませんし、宝くじを買い続けないと手が震える人も見たことがありません。

一方、パチンコの控除率は 10% から 15% に過ぎず、パチンコ経営者に言わせると「良心的」です。しかし、パチンコ依存症で身を持ち崩したという話は良く聞くし、昨日も述べた三店方式の不透明さは別にしても、宝くじよりまともとは到底思えません。

ポイントは自分にとって「当たり」がどのくらいリアルに感じられるかです。宝くじで3億円当たった人はめったに居ません(居ても黙っているというのもありますが(笑))が、パチンコで大当たり(といっても10数万円程度)したことがある人は大勢居ますからね。

リアルに感じられるほどのめり込みやすく、不健全であると言えます。

導入が議論されているカジノについても、その点をどう設計するかですね。

国によっては自国民のカジノへの立ち入りを禁止していますが、日本に於ける議論では、どうやら日本人も遊ぶことが前提になっているようです。それはそうでしょう、不景気とはいうもののまだまだ日本人はお金持ちです。その金を狙わない手はありません。

ただし、そうなると我が国の「善良なる風俗」への悪影響についても良く考える必要があります。カジノにハマって破滅した人がどんな社会不安を引き起こすとも限りません。確かに、ごく少数は大金を手にする人も出てくるでしょう。しかし、それはそれでやはり弊害はあるはずです。

考えてもみて下さい。カジノで大儲けしたなどと聞くと、働くのがアホらしくなってきませんか?