妻が50万稼いではいけないのか

少し前に国会で安倍首相が「私が50万、妻が25万(稼ぐと)……」と発言し、賛否両論(多くは否)が巻き起こりました。どうも世間では彼を「苦労の足りぬボンボン」と見ているようで、「総理は50万どころかもっと貰っているだろう」、「25万円も貰えるパートがどこにある」等々、仮定が現実離れしているという批判が多く聞かれました。

しかし、本来この発言は「実質賃金が下がっている」との批判に対して、「景気回復によりパートが増えたことで一時的に平均が下がっているにすぎない」と反論しようとしたものです。

全ての人がフルタイムで働く必要はない

パートが増えても意味がないという人もいますがそうではありません。賃金と仕事の内容が見合えば時給700円でも働きたい人はいるだろうし、割に合わないと思えば働かないまでです。

安倍首相の説明が当を得ていたかは別として、たとえ賃金の低い仕事であっても働き口が増えるのは端的に良いことです。

更に言えば、賃金その他の雇用条件は可能な限り当事者間で自由に決められるようにすべきです。最低賃金の引き上げは、減税と並んで聞こえの良い政策ですが、実際のところ上げれば上げるほど社会的余剰(social surplus)は減ってしまいます。パイが小さくなるのです。

全ての人がフルタイムで働く必要はありません。パートが増えることは選択肢が増えるという意味で社会にとって有益です。

妻が25万は「多すぎる」のか

私が引っかかったのはむしろ「妻が」という部分です。なぜ夫の半分しか稼がない、あるいは稼げないことが当然のように語られ、誰も突っ込まないのでしょう。ポリティカル・コレクトネスに喧しい欧米の指導者ならこう言っていたはずです。

「家族のうち一人が50万円稼ぎ、他の誰かが25万円稼げば……」

別に、このような回りくどい言い方をしろというのではありません。言い切るべきところは言い切った方が良い。ただ、夫が外で働き、妻は家庭を守る、働くにしてもせいぜいパート、というモデルは既に過去のものとなりつつあります。

夫が50万稼ぐなら妻も50万、あるいは妻が100万稼いで夫は何もせず養って貰う(笑)、そういう夫婦があっても良いはずです。

後ろ向き思考の蔓延こそが問題

憂慮すべきは、「主婦がふと思い立って25万円も稼げるはずがない」というシニカルな意見が大勢を占めていたことです。

なるほどそれが現実的にはなかなか難しいということは分かります。しかし、不可能ではないはずです。

どうも、若い人を中心に「ムリムリ、ぜったいムリ」、「どうせ、できるわけない」式の発想が広がっているように思えてなりません。長く続いた不景気の弊害は、国富が流出したことでもなければGNPが伸び悩んでいることでもなく、若者に後ろ向きの思考を植え付けたことかもしれません。

仮にもうしばらく不景気が続くとしても、個人として成功することは常に可能です。若い人には「ムリ」かどうかとりあえずやってみることを勧めます。

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