ブコメは辛辣なものが多い

サッカーで苛められていた」の記事など、このところ「はてなダイアリー」をよく見ています。ここってユーザーが「ブックマーク」をつけられるのが特徴ですよね。もちろん、Webに存在する限りどのページでもブックマークできるのですが、やはり「はてなダイアリー」の記事をブックマークしているケースが大多数です。

そして、ブックマークに付けられたコメントを一覧するウィジットが貼られていることも多く、上のサイトもそうなっています。

で、思ったのですが、コメントフォームからのコメントに比べて、はてブのコメントは辛辣な傾向がありますね。他人のブログに「お邪魔して」コメントするのでなく、自分が管理するブックマークへのコメントなのでそうなるのでしょう。

まあ、好きにコメントすれば良いのだけど、自分のブログを公開していない人が「的外れだな」とか「分かってないなあ」とか、やたら偉そうなことを書いているのをみると何だかムズムズします。たいてい、なにがどう「的外れ」なのかは書いてないですからね。

ブログというスタイルは、どうしても記事が主でありコメントは従で、賛同するにしても批判するにしても本質的な議論になりにくい気がします。

昔の掲示板やメーリングリストだと対等なユーザーどうしが激論を戦わせているのをよく見たものですけどね。不毛と言えば不毛だけど、あれはあれで面白かったのに。

そもそも「早く結婚した方がいい」はセクハラか

例のセクハラヤジ問題は、「犯人」の鈴木章浩都議が白状して一応の落着を見ました。この件に関しては色々な人が色々なことを言っていますが、しかし、根本の部分への言及は誰もしていないように思えます。

根本とは、「早く結婚した方がいい」との発言はセクハラといえるのかどうか、です。

セクハラは民事上の不法行為であり、場合によっては刑事上の強要や侮辱、名誉毀損になることもあります。刑事、つまり「犯罪」まで行ってしまうと逆に問題は簡単になります。ある行為が犯罪であるかどうかは厳密に定義されているからです。

「早く結婚した方がいい」との発言が犯罪ではないことは明らかです。では、民事上の不法行為でしょうか。言われた人、今回の場合塩村文夏都議が精神的な苦痛を受け、賠償を請求するというならそうなのでしょう。しかし、そういうわけでもないようです。

要するに、犯罪でもなければ不法行為でもなく、道義上問題となっただけと言えます。

それをまるで凶悪犯罪であるかのような「犯人捜し」が行われ、世界に向けて「日本ではこのような女性差別が行われています!」と触れ回るメディアまである始末です。不用意な発言を攻撃するのは政治の常とはいえ、決して良い風潮ではありません。

強いて言うならば、今回、発言の主(鈴木氏)が名乗り出るのが遅きに失したということはあるでしょう。

とっとと名乗り出るべきでした。そして、この発言が許せないと思う都民は次からはこの人に投票しなければ良い。それが民主主義であり、本来それだけで済む話です。

サッカーで苛められていた? サッカーならまだ良い

はてな村定点観測所」の「サッカーで苛められていた。日本代表には早く負けてほしい」という記事に目がとまりました。

「お前は何もしなくていいからな!絶対何もするなよ!」と念を押されるほどサッカーが苦手だったそうです。嫌いになるのも無理はありませんが、これってサッカーに限らず全てに当てはまることですよね。

人々があることについてどのくらい適性があるかは、たくさんのサンプルを採れば正規分布に近似します。

正規分布

このグラフから分かることは、人間の半分はあることについて平均以下の適性しかないということです。

サッカーならまだ良いのです。「勉強」に関して「できない方の半分」に位置する人は人生がハードモードになってしまいます。彼らのルサンチマンは察するに余りあります。

現代の社会は学校のお勉強に重きが置かれすぎていて、できないと「ダメな子」の烙印を押されてしまいます。

しかし、実際は学校のお勉強、例えば数学なんて、少々できたって社会に出ればたいして役に立ちません。その意味ではサッカーと似ています。

論理的思考が身につくと言いますが、そんなものなくても生きていけます。直感で世渡りしている人の方が成功しやすいとさえ言えるほどです。ただし、それに気づくことが重要です。「(勉強ができない)オレなんかどうせ……」と膝を抱えたままでは成功できるものもできなくなってしまいます。

じゃあ、数学が得意じゃない人は頑張らなくて良いのか、サッカーが苦手な人は上達するよう努力しなくて良いのか。極論すればその通りです。

しかし、ここからは私の持論ですが、それでも人は何か努力しなければならないのです。一つは得意な方面を伸ばす努力。勉強は苦手でも絵が描けるとか、楽器が弾けるとか、カブトムシを捕るのが上手だとか、何かあるはずです。

そして、もう一つは苦手なお勉強も少しはやらないといけないということです。生活に必要なお金の計算や、チラシが読める程度の漢字の書き取りは、やはり必要です。これらは運動が苦手でも、少しは体を動かさないと足腰が弱ってしまうのと同じことです。

人よりできないからと引け目に感じてはなりません。ただ淡々とやるのです。間違いなく自分にとってプラスになるのですから。

りそな銀行を装ったメール

最近、りそな銀行を装ったメールが来ませんか? 私のところには何通も来ています。

りそな銀行を装ったメール

例によって Yahoo! メールを使っているというアホっぽいやつです。しかも、誘導先のリンクを見ると、ドメインが .cn です。

とどめに、「そな銀行」。「り」が抜けてます。

たぶん、犯人は Re: Sona Bank みたいな勘違いをしていて、「そな銀行」という銀行だと思っているんでしょう(笑)

りそな銀行でもこの事態は把握していると見えて、注意喚起のメールを出しているようです。

「ようです」と推測を交えた言い方になるのは、受け取ったメールが100%本物のりそな銀行からのものであるとは断言できないからです。

確かにアドレスは正規のものだし、文章も本物っぽくはあります。ですが、疑ってかかれば何でも怪しく見えるものです。私が詐欺師なら、まず稚拙な詐欺メールを送り、次に「詐欺にご注意下さい」という巧妙な詐欺メールを送ります。

最初に警戒させておいて、次にもっともらしい文面と体裁で安心させるのです。辻褄は合っているものだから、多くの人が騙されるだろうと思います。

まあ、今回の注意喚起メールは本物でしょうが、あまり直感を信頼しない方が良い気がします。

くれぐれも「詐欺の被害を防ぐため、次のリンクにアクセスして暗証番号を変更してください」みたいなのに引っかからないようにしたいものです。

昔は車と言えば牛車のことだった

言葉は絶えず変化していくものです。

外来語、借用語による変化のようにいわば外からもたらされる変化もありますが、内からの変化も頻繁に起こります。

一つには、その言葉が意味する物・事が社会から消え去り、同時に言葉も消える現象があります。例えば「印籠」はテレビの時代劇ではおなじみでも、実際日常的に使っている人はいないでしょうし、死語に近いと言えます。

もう一つ、同じ言葉がべつの物を指すようになることもあります。例えば「車(くるま)」と言えば、近世までは貴人の乗る牛車(ぎっしゃ)のことでしたが、明治期から戦前にかけては人力車のことであり、現在は言うまでもなく自動車のことです。

また、言葉は論理のみによって決まるわけではなく、もっと民衆の生活に密着したものです。現在、単に「携帯」と言えば「携帯電話」のことであり、決して携帯コンロや携帯寝袋のことではあり得ません。要するに庶民の感覚では電話が携帯するものとして一番なじみ深いわけですね。

余談ですが、最近タッチパネル付きの多機能携帯電話をスマートフォン、略してスマホと呼び、従来の携帯電話と区別するのが普通です。これなどはマーケティングの都合で従来品と差別化するために作られた言葉が一般に浸透した例と言えるでしょう。

最後に、社会の変化に伴って今までなかった新しい言葉が生まれる現象です。言葉の変化として真っ先に思い浮かぶのはこれかもしれません。

最近見かけて興味深く思った新しい言葉に「肉肉しい」というのがあります。用例としては、

チャーシューが少し硬いが、肉肉しくて良い感じ

など(笑) 主としてB級グルメ用語です。

日本古来の「にく」という和語を重ねて形容詞としたもので、肉食がこれだけ普及しているのに今までなかったのが不思議な言葉です。肉肉しく・肉肉し・肉肉しき・肉肉しけれ・〇。シク活用ですね。

「憎々しい」と紛らわしいからでしょうか、残念ながら、まだ辞書には載っていないようです。

日本人の条件

先日、移民に関して「日本の文化と風土を愛し、日本に対して忠誠を誓う人なら、元の国籍が何であれ日本人として認める」と書きました。我ながら格好良いことを言ったものです(笑)

ただ、若干書き漏らしたことがあります。法律の尊重です。上記に「日本の法律を尊重する人」という条件も加えたいと思います。

その国の法律を遵守することを帰化の要件にしている国は多く、言うまでもない当たり前のことのように思われるかもしれません。また、日本に住む以上日本の法律を守ることが強制されるのだから尊重もへったくれもないと言う人もいるでしょう。

けれども、私の言う「法律を尊重」はもっと高級な意味です。単に「捕まっては困るから法律を守る」では不足です。

警官が賄賂を受け取らず、選挙権が保障され、誰もが裁判を受ける権利を持つ日本。

法の支配の徹底は我が国の特徴の一つです。新たに日本人となる人には、日本の食べ物や風景を愛するのと同じように、日本の法をも愛して欲しいのです。

無論これはかなりの綺麗事です。私とて四六時中法の支配について考えを巡らしているわけではありません。日々の生活で手一杯です。

しかし、時々は「人」ではなく「法」が支配する国の住人であることを思い出し、その価値を支持し、維持発展に努めるべきです。

そうであってこそ「日本人」です。

移民を受け入れるべきでない理由

近年、日本の人口の減少傾向が明らかとなり、移民を受け入れるべきか否かの議論が俄に熱を帯びてきました。

迥寞録では過去に「移民の受け入れより先にやるべきこと」と題してごく簡単に移民についての考えを述べましたが、今回はもう少し詳しく論じてみます。

移民に反対=排外主義ではない

まずは立場をはっきりとさせておきましょう。私は移民の受け入れに反対です。

移民に反対を唱えると、すぐに排外主義だとかゼノフォビアだとかいう非難が返ってきます。しかし、私が移民に反対するのは外国人を差別しているからではありません。むしろ、差別しているのは移民推進派の方です。

移民推進派は「最近の日本人はキツい仕事をしたがらない、だから外国人が必要」と言いますが、これこそ差別の最たるものでしょう。外国人を、というか人間を、単なる労働力としか見ていないから、簡単に「移民で人口減を補えば良い」などと言えるのです。

移民を単なる労働力としてではなく、我々と同じ、日本の未来を左右する意思決定に加わる者として見るならば、安易な議論はできないはずです。

日本とアメリカでは国の成り立ちが違う

また、推進派は二言目には「アメリカでは」と言います。確かにアメリカでは永住権取得から5年居住すれば市民権(帰化)を申請できます。さらに、アメリカ市民と結婚すれば3年で申請できます。

「だから、日本でもそうせよ」と言うのですが、それはおかしな話です。なぜなら、日本とアメリカでは国の成り立ちが全く違うからです。アメリカは移民によって作られた国です。従って、今後も移民を受け入れ続けるのがフェアというものです。アメリカに移民を拒否する権利のある者がいるとすれば、それは原住民だけでしょう。

翻って、我が日本では、殆どの人が「原住民」なわけです。私も、そして恐らくこれを読んでいるあなたも皆、ネイティブ・ジャパニーズです。私達は、移民を受け入れるか否か、また受け入れるとしたらどのような基準を設けるかを決める権利があります。(誤解のないように言っておきますが、ネイティブではない日本人を差別するわけではありません。彼らは国民の代表が定めた法律に基づいて、決められた手順を踏んで日本に帰化したのですから)

もっとも、アメリカに学ぶべき点もあります。それは、新たにアメリカ市民となる人には、アメリカ合衆国への忠誠(Allegiance)が求められるということです。日本には、戦前、国家に対する忠誠が強調されすぎた歴史があり、今も日の丸や君が代に対してアレルギーがありますが、外国人に対して「日本という素晴らしい国の一員になりませんか?」と呼びかけるつもりなら、まずそのアレルギーを治す必要があります。

移民以外にも手はある

移民は一切お断りと言うのではありません。日本の文化と風土を愛し、日本に対して忠誠を誓う人なら、元の国籍が何であれ日本人として認めるし、歓迎します。しかし、そうではない人、日本を愛していない人を労働力の埋め合わせのために受け入れるのは断固反対です。

なるほど少子高齢化は深刻ですが、経済の衰退を食い止める方法は、移民の受け入れ以外にも幾つかあります。イギリスのような金融立国もその一つです。労働力の不足についても、労働集約型の産業は減りつつあり、しかも、従来人間が行っていた作業をロボットが肩代わりしています。

いったん受け入れた移民に「ロボットがあるから、あなたたちはお国に帰って下さい」というわけにはいきません。繰り返しますが、受け入れた以上、移民は日本国民として完全なる権利を持つのです。

慎重の上にも慎重な議論が必要です。