「アンフォローをおすすめします」だと?

NHK_PR というツイッターアカウントに文句を言った人のことが話題になっています。

NHK_PRにつぶやくなと言った人がアンフォローを勧められキレる

最初に「つぶやく頻度を減らして下さい」と要求し、それに対して NHK_PR が「アンフォローをおすすめいたします」と返したことが、感情を害したようです。もちろん、客観的に見れば、つぶやく頻度などを他人に指図されるいわれはなく、文句を付けた方が悪いに決まっています。

実際、Twitter での反応の殆どが、この文句を付けた人を非難するものです。

ですが、この NHK_PR の対応には問題は無いのでしょうか。

嫌なら見るな?

NHK には普段から番組等に関する苦情が届いていることでしょう。かつては手紙、電話、そして今では電子メールやTwitterによって。

例として電話が一番分かりやすいので、ここでは電話での話とします。

あなたがNHKの番組を見てどうにも気にくわないことがあり、苦情を述べようとしたとします。すると相手がいきなり、

「その番組を見ないことをおすすめします」

と言ってきたらどうでしょう。

こんなふざけた話はありませんよね。NHKは受信料によって運営されており、この受信料は受像器を設置している限り、NHKを見ていようがいまいが支払わなくてはならないのです。
「嫌なら見るな」は通用しません。

これは苦情の内容が妥当かどうかとは全く別の問題です。

NHKと八百屋の違い

もう一つの例として八百屋の店先での話をしましょう。

あなたが八百屋でネギを買おうとすると、一把 500円となっています。高いです。高すぎます。もし、「大将、ネギ高いよ~」と苦情を言ったならば、おそらく、八百屋は「いやぁ、今年はネギが不作でねぇ……」とかなんとか言うはずです。

決して、「高いと思うのなら買わないことをおすすめします
とは言いません。そんな物言いをしてたら八百屋はあっという間に潰れてしまいます。

Allium_cepa_B.jpgなんとなく問題が見えてきました。
NHK_PRの「アンフォローをお薦めします」なる言い草は、自分のことを無視してくれと裏から言ってはいますが、結局のところ「あなたの意見を無視します」と言うに等しく、非常に傲慢であるということです。

八百屋では通用しないこの傲慢さがNHKで通用する理由はただ一つ、彼らが受信料によって暮らしており、その受信料は(半ば)強制的に徴収できることが法律で決まっているからです。

人が一番いやがるのは自分が無視されること

嫌なら見るな、気にくわないなら買うな式の物言いは、相手の感情に水をかける、非常に稚拙な対応の仕方です。

人は自分の意見が受け入れられないから怒るのではありません。自分が無視されたときに怒るのです。無論、全ての意見に反応できるわけではないでしょうから、結果的に一部ないし大部分を無視することになるのは避けられないとしても、わざわざ相手に「あなたを無視しますね」と返信するなど愚の骨頂です。

これが電話ならば、「貴重なご意見ありがとうございます。今後の番組作りの参考にさせていただきます」とかなんとか答えるのが定石となっています。
その点、Twitterは最近になって出てきたものだけに、企業アカウントにとっては、上手いクレーム対処の方法が確立されておらず悩ましいところなのでしょう。
ですが、「アンフォローをおすすめします」などとは口が裂けてもつぶやくべきでないことははっきりしています。

もし一般の企業でこれをやってしまうと、食い扶持が法律によって担保されているNHKと違って、死活問題となりかねません。

「何のために信を問うのか」だと?

岡田克也副総理が、今日午前放送されたTV番組の中で「どちらが政権を取っても増税するなら、何のために信を問うのか。選挙をしている時間はない」と述べたそうです。

まるで、国民は、増税するかしないか、それのみに関心があるとでも言いたそうな口ぶりです。確かに増税は重大な関心事ではあります。しかし、私を含めて若干の人々にとってより重要なことは、彼ら政治家が自分自身の言葉にいかに忠実であったか、です。

最初から増税すると言っていて、その通りに実行するのと、増税はしないと言っていて、後になってやっぱり増税というのでは、大きく異なるのです。「どうせ、自民でも民主でも増税なんだから同じこと」というのは議論として粗雑であるだけでなく、主権者たる国民を愚弄する許し難い暴言です。

自由委任ではあるが

確かに、我が国に於ける主権者と代表者との関係が「自由委任」である(憲法34条など)ことは異論を見ません。もし、(自由委任の反対概念の)「命令委任」だとすれば、A という団体のおかげで当選した議員は、国会に於いて 100% A 団体の命令通りに行動しなければならず、代表者というよりは単なるメッセンジャーになってしまいます。
ですから、「自由委任」、つまり、議員は当選した後は自由に行動して構わない、ということになっています。語弊を恐れずに言えば、公約違反をしても良いのです。文句があるなら次の選挙で落としてくれ、ということです。

選挙による審判

そう、選挙で落とすのが肝要です。

いいですか、選挙で落とすのですよ。

議会制民主主義は、代表者の言説並びに行動を吟味し、正しく評価できる有権者が居て初めて成り立つものです。議員は、自由委任だからと好き勝手にやって良いのではありません。むしろ、自由委任だからこそ、いかに真摯に公約(マニフェスト)を守ろうとしているかが問われるのです。

この点、さきの岡田副総理の発言には真摯さのかけらも見られません。前原誠司政調会長の「自民党は国会でマニフェスト(政権公約)を取り下げろといい、取り下げた段階で『ほらできなかったじゃないか』という。やり方が非常にせこい」という発言も同様です。

なるほど、去年の大震災により、事情が変わってしまったのは分かります。どの党が政権を取っても増税は避けがたいでしょう。

しかし、それならば、民主党はもっと熱心に語りかけるべきです。「マニフェストにはなかった消費税増税ですが、これこれこういうわけでどうしても必要なのです」と。もし、十分に国民を納得させることができれば、解散総選挙によって信を問うたとしても、再び政権を取れるはずです。

「何のために信を問うのか」などと言っているようでは、彼らに未来はありません。

成功を恐れる人々

弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。
太宰治『人間失格』

 

オリコンがスマートフォン向けの音楽配信サービスを「強化」し、一曲の中心価格は450円とのことです。

450円!

いくらなんでも高すぎですよね。Apple が105円でやっていることをオリコンが450円でやって、通用するとは思えません。

結局、彼らには勝つ気がないということでしょう。失敗ではなく成功を恐れるというのは、個人においても組織においてもしばしば見られる心理です。Apple に対抗して100円前後にしてしまうと、既存の販路からやいのやいの言われてしまうので、ここは無難に450円、というわけです。

音楽業界も斜陽になってきたとはいえ、まだまだオリコンは大会社、下手なことをして火傷するよりは、安全圏でぼちぼちやっていこうという発想が透けて見えるような価格です。

しかしながら、傍から見れば、これが退嬰の道であることは明らかです。Apple に比して弱者であるオリコンが競争に勝つためには、少なくとも一点において Apple を凌駕していなければなりません(ランチェスターの法則)。価格で勝つのが無理ならば他の訴求点でも構わないので、とにかく「これだけは負けない」というのが何か無いといけない。それが見えてこないのです。

音楽業界に限らず、今、日本企業に元気がありません。円高、不況と逆風は強いですが、多くの消費者は本当は日本企業の製品・サービスを使いたいはずです。日本企業にお勤めの皆さん、どうか、勝つことを恐れず、惜しみなく勝って下さい。

外資系にお勤めの方は、たまには負けてみると視野が広がりますよ(笑)

東電と山一證券

人はつい、自分の責任を少なめに申告しようとするものですよね。先日来の東電の社長の「みなさまにご迷惑、ご心配をおかけして……」という発言には、そういった心理が端的に表れているように思います。
「ご迷惑、ご心配」、家も仕事も置いたまま避難を余儀なくされた人々に対する言葉としてはあまりにも軽すぎます。

ここで思い出すのが、山一證券が破綻したときの社長の言葉、「私が悪いんです、社員は悪くありません!」です。

山一は自主廃業、東電はこれからもずっと営業していくのでしょうし、前者は経営ミス、後者は未曾有の災害が原因という風に、事情はかなり異なりますから、単純な比較は出来ません。
が、自らの責任を多めに言う人と、少なめに言う人とでは、世間に与える印象が全く違うことだけは確かなようです。

東電のていたらく

先月の地震以来、東京電力の記者会見が何度もテレビで流れましたが、その様子に憤慨されている方も多いと思います。私もその1人です。

ただ、彼らのために同情すべき点もいくつかはあります。まず、災害の規模が桁外れだったこと。それから、記者会見を行っている社員は、東電の一員という意味では責任がありますが、今回の事故に対して直接責任を負う立場にはない(だろう)ということです。

要するに「だって、俺のせいじゃないし……」みたいな気持ちなのでしょう。

しかし、まさにそれこそが、東電の記者会見が不誠実に見える原因ではないでしょうか。
あの東電社員たちの他人事のような態度は、自己防衛本能の表れ、つまり責任を負いたくないという気持ちの表れなのだと思います。全くの逆効果ですが。

ちなみに製造業の会社だと、PL法の存在もあり、自社の製品の欠陥が露見したときの「お詫び会見」を行う心構えは常に出来ているものです。会見での想定問答集は当然作成済みですし、テレビでどうすれば「申し訳なさそう」に見えるかよく研究しています(笑)

その点、電力会社は脇が甘かったようです。
インフラ系の中でも優等生だった東電のことですから、今回のような事態は二重の意味で想定外だったのでしょう。つまり、災害の規模が想定外。自分たちが頭を下げるハメになることも想定外。

まあ、しかし、この期に及んで記者会見の印象を良くすることに力を注いでもらっても困りますから、今はとにかく正確な情報を伝えることに専念して、然る後に自分たちの会見が傍から見てどうだったかを考えてもらうしかないですね。

今日、法治国家日本の生命が潰えた

那覇地検は、尖閣列島沖で違法操業を行っていた中国人船長を処分保留で釈放することを決めたそうです。

自分にとって、これほどまでに愕然としたのは近年稀なことです。

中国を非難したいわけではありません。無法で野蛮な国家は他にもいくらでもあります。
問題なのは地検の対応です。もし、この件が中国の圧力に屈した「超法規的措置」であるならば、今日この日、2010年9月24日をもって、日本は法治国家であることをやめたということです。
仮に、今後も「日本」という国家が存続することができたとしても、それは昨日までの日本とは別の国です。

法治国家としての伝統

大津事件をご存じでしょうか。
明治24年、日本を訪れたロシアの皇太子ニコライが、津田三蔵という頭のおかしな男に刺されて大けがをした事件です。
素人考えでは、そんな大それた事をしたのですから、津田は死刑になったのだろうと思うところですが、実際には無期徒刑、現在の無期懲役にあたる刑となりました。なぜならば、謀殺未遂(殺人未遂)は最高でも無期徒刑であり、法に従うならば死刑はあり得ないからです。
もっとも、当時は傷害罪(及び殺人罪)の特別罪として、「大逆罪」があり、これを適用するならば死刑もありうる、とする考え方もありました。
しかし、大逆罪はあくまで、日本の皇族に危害を加えた者に対して問われる罪であって、外国の皇族であるニコライ皇太子に危害を加えた津田に対して適用することはできなかったのです。
もちろん、「外国の皇族も日本の皇族と同じようなものではないか」という人も当時から居ました。
しかしながら、そのような拡大解釈は刑法に於いては決して認められないのです。これを刑法の謙抑性といいます。

法を曲げず、司法権の独立を示した大津事件は、結果的に日本が法治国家であることを世界に知らしめ、日本の国際的地位を大いに向上させました。

また、西成線列車脱線火災事故は、昭和15年に起きた日本史上最悪の列車事故ですが、我が国が軍国主義にひた走った、と世間一般でいわれる時期に行われたこの事件の裁判もまた、法治国家としての伝統に則った内容でした。
死者189名、重軽傷者69名を出したこの事故は、駅員による分岐器の操作ミスが原因でしたが、この未曾有の大惨事にもかかわらず、駅員らは禁固2年という比較的軽い刑となったのです。
この量刑が妥当かどうかの議論は別として、当時から、どれほど社会を震撼させる大事件であろうとも、あくまで法に従って冷静に対処する、という法治主義がしっかりと根付いていたことが覗えます。

伝統が失われた

かたや、今回の中国人船長に対する処置はなんたるていたらくでしょうか。
無論、重い刑を科すべきだったというわけではありません。法に照らして、釈放が相当ならば釈放すること自体は構いません。
しかし、「日中関係を考慮した」という那覇地検のコメントが事実であるとするならば、きわめて由々しき問題です。

選挙で選ばれた政治家がアホな外交をやって国際関係がまずくなれば、それは選んだ国民の責任かも知れません。しかし、検察官は選挙で選ばれたわけでもなんでもないのです。「日中関係を考慮」などと余計な色気を出すのは言語道断です。

これは、深刻な問題です。

政治がお粗末だとよく言われますが、今の政府がダメなら選挙で良さそうな党を選べばよいわけです。その結果、民主党といういかにもダメそうな党が選ばれているのは皮肉ですが、それも結局は国民の選択の結果として受け入れなければならないことです。

ですが、法治主義の伝統は、選挙では得ることが出来ず、また、一度失われたらそう簡単には取り戻せません。
「選挙で何々党が勝ったら、また法治主義に戻る」という問題ではないのです。法治主義の伝統を守るには、法曹関係者はもちろん、我々国民全体が、高い教養と強い意志を持ち続けなければなりません。

中国人船長はしかるべき罪に問われるべきでした。

繰り返しますが、罪を重くしろとか軽くしろと言っているわけではありません。中国の高圧的な態度がどうのとかいう感情論もこの際余計なことです。それを何とかするのは政治家の仕事であって法曹の仕事ではありません。

大事なのは「しかるべく」あることです。
「しかるべく」とは法によって規定された通りに、ということです。

「w」を毛嫌いしないで

ネットでよく使われる「w」、否定派が上回るという記事を見掛けました。

ちょっと違うなと思ったのが、ネットでよく使われるのは「w(全角英数)」であって、「w(半角英数)」ではない、ということです。

このことから、このアンケートの実施者(たち)は「w」を使わない人(が多い)と思われ、アンケート自体に「w」の使用に対する否定的なバイアスが掛かっていることは想像に難くありません。

そんなわけで話半分に読まなければならない記事ではありますが、そうですか、「w」に対する反感って意外に根強いんですね。

「w」の使用は、いわゆる「ら抜き言葉」に似ています。
ら抜き言葉を擁護する人たちの口癖は「ら抜き言葉は合理的だ」というものです。

即ち、正しいとされる日本語では受身と可能が同じ助動詞「られる」で表現されるが、可能の場合は「れる」、受身の場合は「られる」を使うことで両者の区別が容易になる、というものです。

これに対して私は若干の異論を持っていて、言語の用法は合理性のみによって決せられるべきではない、と思っています。

例えば、英語。もし、不規則変化は不合理だからと下のような文を綴ると、どう思われるでしょうか。


©MagicTuscan: CC BY-SA

The Badest mans runed away.

おそらく、意味は100%通じるでしょうが、非常に奇妙な印象を与えるのは間違いありません。

ら抜き言葉の合理性なるものも、これと同じで、必ずしも説得力を持つものではないと考えています。

少し脱線しました。

ら抜き言葉には多少抵抗のある私ですが、実は「w」は割と好きでよく使っています。

「w」は「(笑)」が省略されたものであり、タイピングの労力を減らすという意味で合理的な表現方法です。

それに加えて「w」の無視しがたい機能として、「程度の表現」が挙げられます。
ちょっと笑ったなら「w」、大笑いしたなら「www」、抱腹絶倒したなら「wwwwwwwwww」と、「w」の多寡によってどのくらい笑っているのかを表せるわけです。
これは「(笑)」には出来ない芸当です。

この機能は特にチャットにおいて便利で、相手のジョークに対して適切な度合いでウケてみせることは、若い人の間では「ちゃんとあなたの話を聞いてますよ」というアピールにもなっているようです。

ややこしいのは、「w」は嘲笑の意、などと誤って言われ続けていることです。

「(笑)」でも文脈によっては嘲笑の意になるのはご承知の通りで、「w」もそれと何も変わりません。

むしろ、「w」が主に使われている場所で、敢えて「(笑)」を使うと悪い意味に受け取られる可能性が高いのです。

「w」を擁護するもう一つの理由は、それが非音声的記号であるということです。
ら抜き言葉は主に会話で使われるものですから、その違和感は聴覚と結びつけられています。
一方、「w」はただの記号で、日本語を破壊する作用は特にない、と思うわけです。

ら抜きにしろ「w」にしろ、それを使っている人の前で、「正しい日本語」の講釈を始めると、ものすごく嫌われることは請け合います(笑)

郷に入っては郷に従え、と言います。

もし、「w」がよく使われているような場に通りかかったら、あまり頭ごなしにを嫌わずに、あなたも使ってみてはいかがでしょうか。

もちろん、当ブログのコメント欄でも「w」の使用は歓迎です。

iPadと全能感とゲーム脳

映画監督の宮崎駿さんが「iPadをいじってる姿は自慰行為のよう」と述べて話題となっています。

一刻も早くiナントカを手に入れて、全能感を手に入れたがっている人は、おそらく沢山いるでしょう。あのね、六〇年代にラジカセ(でっかいものです)にとびついて、何処へ行くにも誇らしげにぶらさげている人達がいました。今は年金受給者になっているでしょうが、その人達とあなたは同じです。新製品にとびついて、手に入れると得意になるただの消費者にすぎません。
あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい。

これに対して2chでは、「新しいもの(iPad)についていけないとは宮崎も耄碌したな」という意見が大勢を占めています。

が、果たしてそうでしょうか。

上の引用をよく読むと分かるように、宮崎さんはiPadが下らないとは言っていません。iPadにとびついて得意になっている消費者が下らないと言っているのです。

筆者も全くの同感で、iPadのハードウェア及びソフトウェアの開発に直接関わった人たちは尊敬に値しますが、iPadを買って使っているというだけなら、「ふーん」ってなものです。

要するに、只の消費者より生産者の方が偉いという価値観です。
スラドではこの点に噛みついている人が多いようです。
曰く、「人はあるときは生産者であり、あるときは消費者となる。生産者が常に消費者より偉いというのはおかしい」。

しかし、これもちょっとズレた議論です。宮崎さんが言っているのは文化的な生産であって、家具や家電、食品、自動車など、実用品の生産ではないのです。

確かに、何を以て「文化的」とするかは、容易には決められません。ニューヨークのグッゲンハイム美術館では、オートバイのデザインを「芸術」として展示しました。自動車の生産は宮崎さんの言う文化的な生産ではない、と言いましたが、もしかすると違うかも知れない。

ともあれ、文化的領域に於いては、常にほんの僅かの生産者と、圧倒的多数のただ消費のみを行う者たちがいることだけは間違いありません。

宮崎さんの発言で、もう一つ注目したいのが「全能感」です。

赤ん坊は、泣きさえすればおむつを替えて貰え、あるいはおっぱいを飲ませて貰え、げっぷがしたくなったら背中を叩いて貰えるという風に、母親が至れり尽くせりの世話をしてくれるので、「全能感」を持っている、と言われます。
しかし、成長するに従って、世の中は全て自分の思い通りになるとは限らない、と徐々に思い知らされることになります。

精神の発達とは、全能感からの脱却に他なりません。

一方、iPadは宮崎さんの言うとおり、全能感をもたらすツールです。
一般に、ユーザーインターフェースを設計する際には使いやすさを志向します。当たり前の話ですね。そして、使いやすさとは結局の所、ユーザーが「こうしたい」と思ったことがその通りに出来る、ということです。
例えば、Windowsでは商業アプリのほとんどが”ドラッグアンドドロップ”に対応しています。ファイルメニューから”開く”を選択する代わりに、開きたいファイルをドラッグしてアプリケーションに持って行くだけで良いのです。

この機能を使う人も居れば使わない人も居ますが、もし使う人だった場合、アプリが”ドラッグアンドドロップ”に未対応でドロップしても何も起きなければ、その人の「全能感」は傷つけられることになります。ユーザーはそうやって世間の厳しさを知るのです(笑

逆に言えば、ユーザーインターフェースが洗練されればされるほど、ユーザーの全能感が維持強化されるというわけです。

つまり、IT技術の進歩は、宿命的に精神の発達を阻害する要因を孕んでいると言うことが出来ます。

ひところ「ゲーム脳」という言葉が流行りました。テレビゲームばかりやっていると脳に悪影響を与えるという説です。今日、これが誤りであるということは少なくとも若い人の間では共通認識となっています。確かに、この言葉を生み出した森昭雄教授の言説には俄に首肯しがたい点が多々ありますが、ではいくらでも好きなだけゲームをして構わないのかというと、そんなことはないはずです。

目が悪くなるし、勉強や仕事の時間もなくなります。いろいろな人と出会って見聞を広めなければならない時期に、家にこもってピコピコとゲームばかりやっていては人格に偏りが出ても不思議はありません。

ただ、「全能感」との関わりから考察すると、ゲームは「簡単すぎてはつまらない」のであり、プレイヤーの思い通りに行かないことがむしろ普通であることから、それほど問題とならないように思われます。クリアするにはちょっとは苦労をしないといけないわけです。もっとも、その「苦労」は実社会のそれとは比べものにならないほど少ないのは言うまでもありませんが。

世の大人は「ゲームばかりやっている若者はけしからん」と言う一方で、「仕事でIT機器を使いこなしている人は立派だ」と賞賛しますが、上に述べたような理由でビジネス用アプリの方が精神に悪影響を与える恐れが高いのです。

このように書くと、「お前は便利なものを否定するのか? IT機器が使いやすくなっちゃいかんのか?」と言われるかも知れません。

ですが、それはちょっと違うのです。筆者も便利なものは好きです。

ただ、iPadのような最新機器のもたらす全能感が、グロテスクなものであることを自覚しなければならない、と言いたいだけです。

それは、自動車の普及が運動不足をもたらし、運動不足によって肥満した人間がグロテスクなのと同じです。自動車を否定して江戸時代のように徒歩で移動しろというのではありません。

少し多めに歩くようにするだけで良いのです。

C言語を公用語に!?

ねとらぼによると、スク・エニの和田社長が、「社内公用語を英語にするくらいならC言語にしてやる!!」とTwitterで発言されたとか。

いやぁ、良いですね~。

ただ、私は和田社長をフォローしていないし、リフォローもしてもらえそうもないので、このブログでC言語による賛意を表します(笑)

if( 2b || !2b ){
    that = QUESTION;
}

英語が喋れるだけの人が出世する風潮は困ったものですね。もちろん、仕事のできる人が英語も得意という場合は、それこそ鬼に金棒で言うことないのですが。

国母選手と水野十郎左衛門

バンクーバーオリンピックのスノーボードに出場する国母和宏選手の「服装がだらしない」との抗議が殺到したそうです。
確かに、シャツの裾は出しっぱなし、ネクタイを緩めたその姿はだらしなく見えます。

が、しかし、私は国母選手に大いに同情します。

何しろスノーボーダーです。いわゆるストリートファッションでキメなければいけないのです。その強迫観念たるや、強烈なはずです。
私たちが公の場でシャツの裾を出すのに堪えられないのと同じくらい、彼にとってはフツーにシャツをズボンに入れるのは堪えがたいことなのでしょう。

江戸時代の武士、水野十郎左衛門をご存じでしょうか。
「旗本奴」として有名で、異様な風体で街を闊歩したそうです。あるとき幡随院長兵衛という町奴を殺めてしまい、そのときは許されたものの、後に評定所に呼ばれました。
彼はなんと月代も剃らず、かぶき者まんまの姿で現れ、あまりに不謹慎であるとして、ついに切腹を命じられたということです。

いくらかぶき者でも、少しは命が惜しかったことでしょう。もしかしたら、彼もきちんとした格好で評定所に行きたかったのかも知れません。しかし、彼のそれまでの生き方が、それを不可能にしたのです。音に聞こえた水野十郎左衛門が、評定所に呼ばれたくらいでビビって身なりを整えるわけにはいきませんからね。

国母選手も、シャツをズボンに入れるくらいで国民から好感を得られるならそうしたらいいのに、意地でもしないのは水野十郎左衛門と似た心情でしょう。

私自身は決してああいうファッションが好きなわけではないですが、どうあれ、自分の美意識を貫こうとするのはたいしたものだと思います。

あとは競技における結果ですね。
結果が振るわなければ、「それ見たことか、服装がだらしないやつはなにをやらせてもダメなんだ」とかなんとかボロクソに言われるのは必定です(^^;

国母選手には、ぜひ良い結果を出して世間を見返して欲しいものです。