実名か匿名か

最近、Facebook で、実名ではないと思われるアカウントが大量に凍結されたそうです。これから日本での普及が見込まれるこのサービスの運営会社としては、下手に匿名ベースで広まるよりは、ここらで一丁、実名が原則であることを周知させるべき、との考えに至ったのでしょう。

本名、筆名・芸名、仮名、名無し

「インターネット上で実名を義務づけるべき」だとか、「いや、匿名で良い」といった議論がなされるとき、しばしば曖昧なままにされているのが、実名・匿名の定義です。
狭義の実名とは、言うまでもなく戸籍上の名前、本名のことですが、筆名・芸名であっても「ああ、あの人の発言ね」と分かれば広義の実名と言えるでしょう。
例えば、元共産党委員長の不破哲三氏は、本名を上田建二郎といい、不破はペンネームでした。彼が不破の名で書を著し、国会議員に立候補し、マスコミのインタビューに答えたとき、誰が「それは実名ではない」と咎めたでしょうか。

一方、本名以外は匿名に当たる場合もあります。いわゆる有名人以外は、ほとんどこれです。
例えば、このブログのタイトルを「鈴木三郎のBlue Note?」みたいにすると、見る人は、「鈴木三郎が本名なんだな」と思うかも知れません。(が、違います)
この場合、「鈴木三郎」は仮名であり、性質としては匿名に近いものになります。非難の意味を込めて「偽名」と呼ばれることもあります。

興味深いのは、筆名・芸名と、仮名とは、本名以外の名前をある程度継続して名乗るという意味で形式的には同じものなのに、前者は実名の一種で、後者は匿名の一種であるということです。両者の違いは、有名かそうでないかだけです。

尚、本名であれ、筆名・仮名であれ、同じ名前を名乗り続けることを指して「顕名」という語を使う人がいますが、これは全く違う意味で使われる法律用語ですし、上に述べたとおり実名に近いものもあれば匿名に近いものもあり、少なくとも「匿名」の対義語として用いるのは避けた方が良いでしょう。

もう一つ、仮名よりもさらに匿名性の高い「名無し」があります。2ちゃんねるでおなじみですが、普通の掲示板でも「通りすがり」だとか「あああ」など、明らかにその場限りの名前を使うならば「名無し」と同じことです。

発言者にとっての実名・匿名

まとめると、

1.本名
2.有名人が本名以外を名乗る場合(筆名、芸名など)
3.有名でない人が本名以外を名乗る場合(仮名、ハンドルなど)
4.名無し

の4つ。数字が若いほうが実名性が高いと言えます。

まず問題となるのが 2 と 3 の区別ですね。有名か否かという非常に曖昧な要件でしか、両者を分けることが出来ません。
が、ここはそれをひとまずおいて、発言者にとっての実名ないし匿名のメリット・デメリットについて考えてみましょう。

良くある誤解の一つが、実名の発言の方が信憑性が高い、というものです。確かに、実名で言うくらいですから真剣な発言ではあるでしょう。しかし、実名だと、誰かに取り入ろうとお世辞を言ってしまったり、自分を良い人に見せようと心にもないことを書き連ねたりしてしまいがちなのも事実です。巧言令色少なし仁、というやつです。
その点、匿名の場合はそのようなインセンティブはありませんから、誰かが匿名であなたを賞賛していれば、それは言葉通りに受け取って良いわけです。ただし、どこまで本気なのかはわかりません。気まぐれで褒めただけなのかも知れません。
逆に、実名で罵倒された場合は、発言の内容はともかく、少なくとも相手があなたを深刻に憎悪していることだけは間違いありません。また、匿名で罵倒されても気にならない、と言えば嘘になるでしょうが、相手にしない方が良いのは確かでしょう。

このように考えると、実名であることのメリットは、発言の信憑性を増すというよりは、真剣さを伝えることが出来る点にあるといえます。
逆に、匿名であることのメリットとして思いつきやすいのは、先ほども述べたように発言の責任を負わずに済むということです。しかし、発言者が何者であるかではなく、発言それ自体を受け止めてもらえるというのも大きなメリットです。

制度としての実名・匿名

さて、これらは個としての発言者から見たメリット・デメリットですが、ある集団に於けるコミュニケーションの型として見ると、また別の視点が生まれます。

実名のみが許されるコミュニティがあるとします。そこでは各自が発言に責任を持ち、過去にまで遡って整合性を保とうとするでしょう。少なくとも慎重にはなります。

一方、匿名だと無責任発言のオンパレードになるのは2ちゃんねるを見ると分かるとおりです。

一見、実名主義の方が良質なコミュニケーションができそうに思われますが、そうとも限りません。先ほども述べた阿諛追従の弊害や、世間体を慮って言いたいことも言えない、という状況が考えられます。
それに、インターネットがすべて実名制になれば話は別ですが、当分は実名のみのコミュニティと、匿名OKのコミュニティが混在するはずです。
嫌な言い方ですが、実名のときはさも善人のような顔をして、裏では匿名で誹謗中傷しまくる、といった人が出てくるのは避けられません。

結局、場合による

上で実名性(ないし匿名性)によって四つのカテゴリーに分け、実名性が高いほど真剣な発言である、と述べました。
そして、毀誉褒貶のうち、誉・褒については匿名の方が、毀・貶については実名の方が信用できるとも述べました。
これらを掛け合わせると、次のようなマトリックスが出来上がります。

毀・貶 誉・褒
実名 信憑性 信憑性
匿名 信憑性 信憑性

いかがでしょう。さきほど、有名人とそうでない人との区別をひとまずおいて話を進めましたが、結局両者の差は程度の問題で、実名性の高低として捉えると良いことが分かります。

無論、価値判断を含まない言説、例えば数学的証明などは匿名だろうと実名だろうと正しいものは正しいし、間違っているものは間違っているわけで、上記の考察は当てはまりません。それ自体が価値を持つ(あるいは価値を志向している)言説、例えば小説・詩歌などにも当てはまりません。(但し、その小説・詩歌に対して評価を下す発言には当てはまります)

このように考えると、少なくともインターネットにおいては、性急な実名制の導入は不要と言えます。
ただ、実名で、十分に説得的な議論を積み重ねていけば、自ずとその人の発言は重みを持つのは確かです。こればかりは匿名派が「誰が言ったかではなく、発言の内容こそが大事」と言ってみたところで仕方ありません。
将来の自分の発言に説得力を持たせようとするならば、この点を良く考慮すべきかも知れません。

Google は分割されるべき

Google の独占で良いのかの続きです。

私が Google を危険視する最大の理由は、彼らが広告事業によって資金の流れを支配し、検索事業によって情報の流れを支配していることです。

現在、インターネットに流入するリアルマネーは、ほとんどが広告費です。Googleはネットのカネの入り口を押さえているわけです。
ちなみに Google AdSense には、「同じサイトに他社のコンテンツマッチ広告を貼ってはいけない」という規約があります。以前は同じ「ページ」に貼らなければOKだったのですが、同じ「サイト」へと変更になりました。

凄いですよね。「絶対に競合他社を潰してやる」という強い意志が感じられます(笑

それはさておき、このように、ネットにおける資金の流れと、情報の流れを両方とも押さえているのが Google の強さの本質です。

一方、前回、Google 以外で勢いのある企業の一つとして挙げた Apple には、ジョブズ氏一人にあまりにも多くを負っているというアキレス腱があります。製造を中国の安い労働力に頼っているという弱点もあります。
Microsoft は PC の利用率の相対的低下により元気がありませんし、Yahoo! に至っては Google から検索エンジンを提供されるようになってしまいました(現在、Yahoo! Japan の検索結果は Google とほぼ同じです)。

Apple も Microsoft も、iPhone や iPad、Windows PC といった「形のあるもの」を扱っており、それらが陳腐化し飽きられてしまう可能性が常につきまとっています。
Google は違います。Google は、ほとんど純粋に情報という「形のないもの」を扱っており、死角が見当たりません。

Google の一人勝ちは今後も続くのでしょうか。

Google 凋落の日は来るのか?

Google が弱みらしきものを持っているとすれば、それは「顧客軽視」の風潮でしょう。
一度 AdWords に出稿してみると分かります。入金を済ませると、「オンライン キャンペーン アクティビティのお支払いが承認されました」なる文言が表示されます。

「承認」ですよ、承認。
「よろしい、お前の金を受け取ってやろう」という態度なのです。普通ならば「確認いたしました」と書くところです。

うん、まぁ、これは言いがかりかも知れませんね(笑
好意的に見れば、無事クレジットカードが使えましたよ、という意味に過ぎず、さらに言うと、英文からの翻訳がこなれていないだけなのでしょう。
が、客にそういう雑な訳を見せることからして、日本 Google の「驕り」のあらわれに思えてなりません。

また、Google は、問い合わせに応じる体勢が貧弱で、たいていは木で鼻をくくったようなテンプレメールが返ってきます。肝心の知りたいことが書かれてなかったり、書かれていても核心から微妙にズレていたりで、彼らの意図を解読するのは骨の折れる作業です。

Google は、設立してからまだ12年、挫折を知らないために、確固たる企業文化を形成するに至っていないように見えます。なにしろ、創業者からして30代の若者です。

分割されるべき

とはいえ、冒頭に述べたように、ネット上のカネと情報の流れを押さえているGoogleは、やはり強力です。いや、強力すぎると言えましょう。

思うに、ますます拡大を続けるインターネットの世界で、資金と情報というライフラインを共に一つの会社が握っているというのは、望ましいことではありません。

我が国では、金融コングロマリットは優越的地位を濫用する虞が強いために、さまざまな規制を受けます。例えば、「金を貸してやるかわりに、当行が指定する会社と取引しろ」などといったことは禁止、みたいに。

ネットにおける Google の地位もこれに近いものがあります。確かに、Google はそういう邪悪なことは「まだ」やっていませんが、これからどうなるかは分からないことは、先週、縷々述べた通りです。

私見ですが、インターネットに於ける広告事業と検索事業を一つの会社が行うことを法律によって禁止し、Google 等は、広告部門と検索部門とに分割されるべきではないかと思います。
無論、Google のみというわけではなく、規模など、一定の要件に当てはまる企業を対象とします。

もっとも、Google はアメリカの企業なので、アメリカの立法府、ひいては有権者の判断次第ということになります。彼らは、Google がアメリカに利益をもたらしているうちは、多少の弊害には目をつぶるかも知れません。

難しい問題です。

Googleの独占で良いのか

かつて Microsoft 叩きが国民的娯楽のようになっていた時期がありました。当時の批判者たち曰く、「M$は悪の帝国」、「M$のせいでITは10年停滞した」などなど。

今、PCの普及が一巡どころか二巡、三巡し、次はタブレットPCだ、いやスマートフォンだと言われるようになってようやく Microsoft への風当たりも弱まってきました。

かわりに勢力を伸ばしつつあるのは、iPhone や iPad を大ヒットさせた Apple、検索事業で一大成功を遂げ、広告やクラウドサービスなどで寡占状態を築きつつある Google などです。

特に Google の勢いがめざましいのは皆様ご存じの通りですが、私はこの状態に一抹の不安を感じています。

Google の人気の秘密

いろいろな人と話していて感じるのは、Google の好感度の高さです。その最大の理由とされるのが、検索精度の高さ検索結果の公正さです。
技術の高さもさることながら、検索結果を特定の国家、企業、団体の有利なように操作することがないのは大変立派です。かの、「邪悪にならない(Don’t be evil)」という社訓の賜です。

しかし、素晴らしいサービスを供給しているという点では、Microsoft だって同じです。Windows7 は、控えめに言って「よく出来て」います。では、なぜ Microsoft は Google と同じように賞賛されないのでしょうか?

答えは決まっていますね。Windows は有料であり、Google のサービスのほぼすべては無料だからです。高い金を払っているのだから Windows や Office はそこそこ使えて当たり前、一方、無料の Google 検索がこんなに便利とは、「ああ、ありがたや、ありがたや」というわけです。
もっとも、Googleは広告から莫大な利益を得ており、広告主は商品の価格に広告代を転嫁しているので、結局は我々が少しずつ払っているようなものなのですけどね。

もう一つの理由は、Google が紛れもなく「強者」であるということです。
人は強者に憧れ、強者に従います。毎日 Google 検索を利用しているというだけで、自分もその強者の一員であるかのように感じている人さえいます。

Google はプロメテウス

ただ、一つ釈然としないのは、Google は現に存在している情報に到達するための巧妙な仕組みを提供しているだけで、情報そのものを生み出しているわけではない、ということです。
Google が映画を撮ったでしょうか? Google が絵を描いたでしょうか? Google が小説を書いたでしょうか?

いいえ、Google はプログラム以外に何も生み出してはいません。

無論、そのプログラム自体、先に述べた通り賞賛に値するものですが、そのプログラムによって到達した情報にもし価値があるとすれば、それに対する賞賛は、Google ではなく、その情報を生み出した者に対して与えられるべきです。その点を誤解している人が多いのです。

ギリシャ神話に登場するプロメテウスは天の竈から火を盗んで人間に与えました。

prometheus.jpg「盗んで」と言うと穏やかではありませんが、Google のやっていることはそれに近いように思えます。今まで人目に触れることの無かった数多の情報を白日の下にさらすことによって、我々に計り知れない便益を与えました。が、それと同時に情報の提供者に対して一定の態度をとるように迫りました。

分かりやすいのが、新聞社のニュースです。新聞社は莫大な費用を投じて記者を雇い、取材させ、あるいは記事を買い取っています。一方、私たちはちょっとぐぐればいろいろなニュースに行き当たります。本当に便利です。しかし、これは新聞社の望んだ形ではないはずです。
もっとも、彼らに選択肢はありません。Google 検索に表示されない情報は「この世に存在しないのと同じ」だからです。存在し続けるためには、少なくとも、Google に自社の配信する記事が拾われることを認めなければなりません。それどころか、なんとか上位に表示してもらおうとして汲々とすることになります。

ゼウスはいない

どうあれ、火を与えてくれたのだから、人間はプロメテウスに感謝すべきという考え方も一理あります。世の Google 批判者に対する批判も、この一点に掛かっています。「お前は、Google から受けた恩を忘れたのか」と。
しかし、Google がプロメテウスと異なるのは、それを罰する者がいないということです。これこそが、私が Google の寡占を憂慮する所以です。

杞憂だとお思いでしょうか。

確かに、現在の Google はそう邪悪なことはしないでしょう。例えば、このサイトにも Google AdSense の広告が貼ってあります。彼らを批判するこの記事を理由に私の Google アカウントが剥奪されるようなことは絶対にないと確信するからこそ、こうやって書いているわけです。検索順位を下げられることもないはずです。

しかし、将来となると全く分かりません。
Google の「公平さ」は、絶対王政の道徳的水準が専ら君主の高潔さに依存するのと同じように、経営者の高潔さ以外にそれを担保するものがないのです。
その昔アクトン卿が述べたように、絶対的権力は必ずや腐敗します。残念なことに。

腐敗の兆候

Google の名誉のために言っておくならば、過去及び現在におけるこの企業のモラルは、 IT 産業は言うに及ばず、あらゆる業種を含めたとしても、かなり高い部類に入ります。

それでも、腐敗の兆候は見られます。
エリック・シュミットCEO が、「ストリートビューに写るのがいやならば、引っ越せばいい」と言い放ったのは記憶に新しいところです。この発言を傲慢と言わずに何と言うのでしょうか。

もう一つ気になるのが、我が国の北方領土をロシア領であるかのように表示していた事実です(もっとも、この点はさすがに猛抗議を受けたのでしょう、現在確認できる限り、Google Earth 日本語版では、国境線は引かれていません)。
日本海の呼称問題についてもそうですが、このようなデリケートな問題に関して、Googleに判断を求めるのは酷とも言える反面、もし仮に一定の判断が示されると、それが固定化してしまう恐れがあります。
もし、「面倒なので、声が大きい方の意見を取り入れておくか」などと安易に決められてはたまったものではありません。

真実は壊れやすい

本来、いち営利企業に過ぎない Google が、このような途方もない影響力を持つことは実は大変危険なことなのです。
想像してみてください。五年後、十年後、Google が、他の検索エンジンをすべて淘汰し尽くした世界を。どこかの団体が「(こっそり)百億ウォン払うから、日本海を東海と表記してくれ」と言ったとき、それを断る理由は、モラル以外になにもありません。

繰り返しますが、Googleが金に転んで検索順位等を操作する恐れは、今のところ皆無です。しかし、将来にわたってそうあり続ける保証は何もありませんし、殊に独占状態にあっては企業のモラルが著しく低下するのは歴史が示す通りです。
あるいは、金銭ではなく、誤った信念に基づいて、真実がゆがめられることもあり得るでしょう。上記の例で言えば、ある Google の幹部がたまたま韓国人で、本人は正しいと信じて「東海」表記で統一してしまうかも知れません。

そのときになって「あれ? おかしいぞ」と思っても手遅れです。誰かが、新しい、真に公平な検索エンジンを作ったとしても、暗黒面に墜ちた Google は(笑)、その競争相手を検索結果に表示しないでしょう。「Google に表示されなければ、この世に存在しないのと同じ」なのです。

疑いの目を持とう

ただ、「じゃあ、どうすればいいの?」と問われると、答えに窮してしまいます。
Yahoo! はもう半ば Google の軍門に下っていますし、Microsoft の Bing はまだ精度で劣ります。何より困るのは、Yahoo! も Bing も、Google より余程信用ならないということです。かく言う私も、これからも Google を使い続けるでしょう。

Googleは確かに有能です。確かに良くやっています。もし、あなたが Google に対して「忠誠心」のようなものを感じていたとしても不思議はありません。
しかしながら、今後も永遠にそうである保証は何もないのです。専制君主制よりも合議制の方が優れており、合議制の中でも一党独裁よりは多党制の方が優れているのは、理の当然です。

我々はまず、過度の Google 依存を自覚し、彼らに疑いの目を向けることから始めなくてはなりません。

アイスケーキだとどうなる

明けましておめでとうございます。

ice-cake.jpg
© Gelato Gelato

去年の暮れに書いた、ケーキの切り方と公平の観念の続きです。
あの記事では、「分けるのに時間をかけすぎると、ケーキが劣化してしまう」と書きましたが、頗る観念的で、現実味の乏しい話でした。例え1時間かけたとしても、普通のケーキはそのくらいでは劣化しませんよね。

ですが、アイスケーキだとどうでしょう。
これだと、「交渉にかかる時間」を、無視しがたいコストとして認識できると思います。

このアイスケーキ、n 分後には溶けてしまうものとします。
あなたは、利己的な実業家のA氏とケーキを取り合っています(笑)。じゃんけんで勝った方がまず希望する取り分を提示し、相手が承諾すればその通りに分け、拒否すれば、今度は相手が取り分を提示します。1回の交渉には1分かかるものとします。提示できる取り分は n を超えない整数分の 1 です。両者が自分の取り分が最も多くなるように行動したとすると、

まず、n = 1 の場合、
先手が、取り分 1 (全部)を提示し、後手が拒否して終わるでしょう。 アイスケーキは溶けて無くなってしまいます。この場合、交渉のコストは100%で、両者の取り分はゼロになってしまいます。(まぁ、しかし、1分で溶けるケーキというのも無理がありますね)

n = 2 の場合、
先手が仮に 1 を提示すると、後手は必ず拒否するので、2回目の提示で今度は後手から 1 / 2 を提示され、この場合、拒否しようと応諾しようと先手の取り分はゼロになってしまいますから、1 を提示するのは誤りです。結局、先手は最初から 1 / 2 を提示し、後手が応諾して、仲良く半分こすることになります。

n = 3 の場合、
先手が仮に 1 を提示すると、後手は必ず拒否し、2回目の提示で後手から 1 / 3 を提示されることになるでしょう。なぜなら、1回目の提示でケーキはすでに 2 / 3 に減っており、残り2分、すなわち交渉回数2回ということは、n = 2 の場合と同じ事になるので、( 2 / 3 ) * ( 1 / 2 ) = 1 / 3 を提示せざるを得ないからです。
結局、先手はこれを先読みして、最初から 2 / 3 を提示し、後手が応諾することになります。

n = 4 以上の場合も同様に、先手が仮に 1 を提示すると n – 1 の場合と同じになることから、両者が十分に賢ければ、n が偶数の時は文字通り半分こ、奇数の時は、先手が ( n + 1 ) / ( 2 * n ) を提示し、後手が応じる( 取り分は ( n – 1 ) / ( 2 * n ) )ことで決着します。

n が奇数の時は、先手が 1 / n だけ得することになりますが、n が十分に大きければ、結局、正解は、「最初から半分こ」に限りなく近くなる、というわけですね。

 

参考文献: Avinash K. Dixit, Barry J. Nalebuf
The Art of Strategy: A Game Theorist’s Guide to Success in Business and Life

JavaScript の undefined のナゾ

JavaScript では、ある識別子が未定義の場合、undefined という特殊な値を持ちます。
最近気づいた(遅い)のですが、引用符付きの “undefined” と、引用符無しの undefined では意味が異なるんですね。
まず、宣言前の識別子を undefined と比較しようとするとエラーになります。
ただし、typeof演算子を使って “undefined” という文字列と比較することはできます。

一方、宣言後は 引用符無しの undefined と、直接比較することが出来ます。

まとめると、次のような感じです。

//----------------宣言前-----------------------------------
alert( variable == undefined ); // -> エラー

alert( typeof variable == undefined ); // -> false
alert( typeof variable == "undefined" );  // -> true

var variable;  // 宣言する

//----------------宣言後-----------------------------------

alert( variable == undefined ); // -> true

variable = 0;  // 値を代入する

alert( variable == undefined ); // -> false

ややこしいですね~

ケーキの切り方と公平の観念

またも頭の体操です。

ここにケーキがあります。まん丸い奴です。
二人の兄弟でこのケーキを分けるのですが、もっとも公平な分け方はどのようなものでしょう?

cake.jpg

手続きの正当性

多くの人が真っ先に考えつくのは次のような方法だと思います。

まず、じゃんけんでも何でも良いので、「切る人」と「分ける人」を決めます。例えば、兄が切ったら、弟が好きな方を取って良いわけです。
切り方が不揃いだと、大きい方を弟に取られてしまいますから、兄はできるだけ同じ大きさになるように努めることでしょう。

ほぼ同じ大きさの二切れのうち、弟が小さい方を選んだとしても、それは本人の判断ですから問題ありません。

この方法は公平さを担保する手続き、いわゆるデュー・プロセスを志向していると言えます。

権威に依る

別の考え方もあります。
上記の方法では、兄弟の取り分がほぼ同量になることが予測されますが、果たしてこれで本当に公平と言えるのでしょうか?

例えば、弟が小学校一年生、兄が六年生だとします。半分こでは、体の大きさに比して、弟には多すぎ、兄には少なすぎるかもしれません。

あるいは、年の離れた兄弟で、弟は小学校六年生、兄は二十五歳だとどうでしょう?
甘いものが食べたい盛りの弟に多く与える方が公平かもしれません。

下手に手続きを固定化するよりは、一定の権威を持つ裁定者に従う(例えばお母さんに切ってもらう)、と定めた方が合理的であるという考え方もあります。(でも、二十五歳の兄が「お母さん、切って~」とか言ってたら、マザコンっぽくて嫌ですね(笑))

長引くと価値が目減りする

イソップ物語に、小熊の兄弟がパンの分け方で争う話があります。狐が割って入って、大きい方のパンを少しかじる、っていうあの話です。
結局、「まだ、こっちの方が大きい」「今度はこっちが大きくなった」と言って小熊が争いを続けているうちに、大半が狐に食べられてしまうわけですが、人間界にもこの狐とそっくりなのがいます。そうです、弁護士ですね(笑)

この寓話は、紛争が長引けば弁護士料を初めとしたコストが掛かる、という教訓を与えてくれます。

仮に、悪い狐に上前をはねられることが無かったとしても、時間が経てば、パンやケーキは幾分劣化し、最後には食べられなくなってしまいます。

いろいろな考え方がある

私を含めて、自分では賢いつもりの石頭に限って、最初に挙げた、一方が切って他方が好きな方を取るという方法を思いついて、そこで思考停止してしまいがちです。
実際には、単に大きさが同じならば公平というわけではないし、切り分ける際のコストも考慮に入れなければいけません。
中には、「大きさにはこだわらないが、いちごだけは譲れない」という人もいます(女性に多い)。上に乗っている砂糖菓子が好きな人もいます。

現実の社会にはこのような主観的要素が多々あり、定量的に把握できる要素、例えばケーキの体積や重量しか考慮に入れずにぶった切るのは、実は公平とはほど遠いのです。