できることを全て実際にやってみたら、文字通り自分でも驚くだろう
トーマス・エジソン
再び「努力」について。
少し前に「努力すれば成功するとは限らない」という為末さんの発言に疑問を呈しました。
彼に同調する人の意見でかなり説得力があるのが、「努力すればできるというのは、できないのは努力が足りないからだ、となる」というものです。
十分努力してる人に向かって「努力が足りない、もっと努力しろ」と言うのは酷いと。
確かに酷い。
しかし、前回書いた通り、そういう例をあまり見たことがないんですよね。「どうせ無理だ」と諦めてしまっている人ばかりです。
努力しないのは才能がないことを知りたくないから
思うに、努力して、やっぱりダメだったとき、自分に才能がないことが明らかになるのを恐れているのでしょう、彼らは。何もしなければ、少なくとも「才能があるかもしれない」というポテンシャルだけは保ち続けることができますから。
こういうメンタリティを醸成したのが、昨今の「個性尊重」教育です。
とにかく、個性が大事だと言う。しかし個性とは何かは誰も教えてくれない。個性とは(何かの)才能のことだろう、となるのです。
そして、才能がないことは個性がないことなので、現代の教育で植え付けられた価値観からすれば、存在を否定されたに等しいわけです。だから、「才能がない」と言われることを極度に恐れる。「努力が足りない」と言われる方がマシだと。その行き着く先がニートです。
必要なのは才能ではなく努力
才能なんかなくても、何の取り柄もなくても、ただこの世に存在しているだけで個として尊重されるのが本当の個人主義です。個性尊重です。
その上で、各人は何かに向けて努力する。何かとはつまり幸福追求です。まずは着て食って住むためのものを手に入れる努力。それ以上は、お金が欲しい人は稼げば良いし、ギターが上手に弾けることが幸福なら練習すれば良い。これこそが、個性の尊重だと思うのです。
我々が克服しなければならないのは、「努力信仰」ではなく「才能信仰」の方です。
努力すれば成功するとは限りません。努力など不要なほど恵まれた境遇ならそれも結構。しかし、努力によって得られるものは、世間の人が思っているより大きいのです。