イスラム過激派の自爆テロと特攻隊とを同一視する言説ほど、日本の保守派を憤慨させるものも珍しいでしょう。
しかしながら、両者がどう異なるのかを突き詰めて考えていくと区別は必ずしも明瞭ではなくなります。七生報国、八紘一宇の信念は、一神教と多神教の違いはあれどイスラム教に劣らず宗教的ですし、戦争、即ち集団による闘争の一部として行われる点、攻撃を行った者が英雄視ないし神聖視される点でも同じです。
違うとすれば、イスラム過激派の自爆テロがしばしば民間人を標的とすることです。
以前の論争でも、私は特攻と原爆投下を対比して後者を民間人に対する攻撃であるとして厳しく指弾しました。米国の言い分によれば日本軍は上海や重慶を無差別爆撃しており、抗議する資格が無いとのことですが、それによって原爆投下が正当化されるというのもおかしな話です。
原爆にしろ、焼夷弾あるいは通常の爆弾による爆撃にしろ、米軍の空爆は民間人を標的としていました。このことはいずれ歴史によって裁かれねばなりません。
私の見るところ、欧米人の、特攻や自爆テロに対する嫌悪感と、2つの原爆を含む日本空爆に対する罪悪感の希薄さは、黄色人種に対する差別意識という一つの線で繋がっています。自分たちよりも劣った命と見るからこそ、特攻が、あるいは自爆が、「卑劣」であるという発想が生まれるのです。
もう一つ、言っておかなければならないことがあります。それは我々が「特攻とイスラムの自爆テロは違う」とムキになるのも、結局は彼らに対する差別意識に淵源しているということです。
特攻隊員に対しては、我々は時代は違っても自分と同じ顔で同じ言語を喋る同じ日本人だという意識があり、だからこそ「貴い犠牲」と感じるのです。イスラムの自爆テロに対して何ら共感せず、むしろ嫌悪するのは、彼らの肌が褐色であり、異なる言語を喋り、異なる神を信じているから、というのが全てではないにしろ大部分と言えます。
そして、このように他国民、他民族の命を自分たちのそれより劣ったものと見なす心理こそが、憎悪の発生源であり、且つ憎悪そのものなのです。
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特攻から少し話がそれました。次回は書籍『「知覧」の誕生』の感想を述べます。