「日本死ね」について、今一度考える

「保育園落ちた日本死ね」が今年の新語・流行語大賞候補にノミネートされたそうです。ひどい話です。まさか大賞に選ばれることはないでしょうが、現在の日本の状況を、恐らくは発言者の意図とは違った形で照らし出した言葉ではあります。

確かに保育園の不足は深刻です。子供の数は減り続けているものの、共働きの世帯数は増加しており、サザエさんのような大家族制はとうに消え去った今、親や親戚に預けるといったことも困難です(もっとも、サザエさんは専業主婦ですが)。一方、保育園を経営する側から見れば今は一時的に供給不足なだけで、将来にわたって需要が伸びる見込みはないのですから、事業を拡大する動機はありません。

加えて、業者の方が客を選ぶという、不満を招きやすい構造になっています。クレジットカードの審査などと同じで、何度も落ちると人格を否定されたような気分になることでしょう。

思わず「死ね」という言葉が口をついて出たのかもしれません。

しかし、「死ね」の前に「日本」をつけたことで、このフレーズは我々に微妙な(あるいは強烈な)感情を引き起こしました。

マジョリティ、マイノリティ

「日本死ね」がヘイトスピーチであるか否かについて議論が巻き起こったことで明らかになったのは、皮肉にもその境界が分明ではないということです。一応、マジョリティからマイノリティに向けられていることがメルクマールとなるという考え方がありますが、そうだとすると、ではどういう集団をマジョリティ(あるいは支配的)とし、マイノリティ(被支配的)とするのかという問題に突き当たります。

例えば高齢者は個人資産の6割を占め、代議士や企業の重役も多いという意味で支配的集団ですが、身体や精神が衰え、施設で虐待されるなど尊厳を奪われかねないという意味では弱者です。同じように民族についても、場所によって、あるいは観点によって強者と弱者が入れ替わることは十分にあり得ます。とは言え、日本において日本人がマジョリティであることは確かでしょう。日本人による外国人に対するヘイトスピーチの方がその逆よりも多く発生するであろうことは蓋然性としては成り立ちます。

しかし、だからと言って日本や日本人がいかようにも侮辱されて良いということはないはずです。

ヘイトスピーチの根源

ヘイトスピーチとは単なる悪口雑言ではなく民族的憎悪を煽る言説であるとされています。「日本死ね」は形式的にはその要件を備えていますし、私も一人の日本人として非常に不快ですが、恐らくこのフレーズは社会に対する不満の特異な表現として発せられたもので、日本及び日本人を憎悪するわけではないのでしょう。であれば、少なくとも狭義のヘイトスピーチには該当しないようにも見えますが、問題はその先にあります。

既に述べたとおり、ヘイトスピーチとその他の言説との境界は我々が思っているほどにはハッキリとしていないのです。仮に民族名や国名が入っていたらアウトというような基準を設けたとしても、「韓国」ではなく「キムチ」といったように暗喩を用いることも含めたらその範囲はいくらでも拡大してしまいます。一方で「日本死ね」のように明確に国名が入っていてもヘイトスピーチではないと主張される場合もある。論者の恣意によるとしか言いようがないこともしばしばです。

結局、他者を人間として尊重しない精神、「死ね、クズ、お前なんか生きていても仕方ない」とでも言いたげな心のありようがヘイトスピーチの根源なのです。こう書くと、ヘイトスピーチの意味を無理に押し広げて希薄化・無効化しようとしているように見えるかもしれませんが、そうではありません。むしろ、「単なる暴言」とされる言葉の中にヘイトスピーチの萌芽があることに注意を向けて欲しいのです。

「日本死ね」は甘えの産物

ここに甘やかされて思い上がった子供がいると想像してみて下さい。この世に生んでくれた親に向かって「死ね、クソババア」などと悪態をついています。みっともないですよね。件の「保育園落ちた」氏の口吻はそれに似ています。

誰しも親を選んで生まれてくることはできませんし、ほとんどの親は完璧とはほど遠い人間ですが、それでも子は親を愛するものですし、もしそうでないとすれば育て方が間違っているのでしょう。

国も同じです。縁あってこの国に生まれてきた人間が平気で「日本死ね」などと言い、マスコミまでが流行語としてもてはやすのは何かが間違っています。悲しいことです。

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