映画監督の宮崎駿さんが「iPadをいじってる姿は自慰行為のよう」と述べて話題となっています。
一刻も早くiナントカを手に入れて、全能感を手に入れたがっている人は、おそらく沢山いるでしょう。あのね、六〇年代にラジカセ(でっかいものです)にとびついて、何処へ行くにも誇らしげにぶらさげている人達がいました。今は年金受給者になっているでしょうが、その人達とあなたは同じです。新製品にとびついて、手に入れると得意になるただの消費者にすぎません。
あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい。
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これに対して2chでは、「新しいもの(iPad)についていけないとは宮崎も耄碌したな」という意見が大勢を占めています。
が、果たしてそうでしょうか。
上の引用をよく読むと分かるように、宮崎さんはiPadが下らないとは言っていません。iPadにとびついて得意になっている消費者が下らないと言っているのです。
筆者も全くの同感で、iPadのハードウェア及びソフトウェアの開発に直接関わった人たちは尊敬に値しますが、iPadを買って使っているというだけなら、「ふーん」ってなものです。
要するに、只の消費者より生産者の方が偉いという価値観です。
スラドではこの点に噛みついている人が多いようです。
曰く、「人はあるときは生産者であり、あるときは消費者となる。生産者が常に消費者より偉いというのはおかしい」。
しかし、これもちょっとズレた議論です。宮崎さんが言っているのは文化的な生産であって、家具や家電、食品、自動車など、実用品の生産ではないのです。
確かに、何を以て「文化的」とするかは、容易には決められません。ニューヨークのグッゲンハイム美術館では、オートバイのデザインを「芸術」として展示しました。自動車の生産は宮崎さんの言う文化的な生産ではない、と言いましたが、もしかすると違うかも知れない。
ともあれ、文化的領域に於いては、常にほんの僅かの生産者と、圧倒的多数のただ消費のみを行う者たちがいることだけは間違いありません。
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宮崎さんの発言で、もう一つ注目したいのが「全能感」です。
赤ん坊は、泣きさえすればおむつを替えて貰え、あるいはおっぱいを飲ませて貰え、げっぷがしたくなったら背中を叩いて貰えるという風に、母親が至れり尽くせりの世話をしてくれるので、「全能感」を持っている、と言われます。
しかし、成長するに従って、世の中は全て自分の思い通りになるとは限らない、と徐々に思い知らされることになります。
精神の発達とは、全能感からの脱却に他なりません。
一方、iPadは宮崎さんの言うとおり、全能感をもたらすツールです。
一般に、ユーザーインターフェースを設計する際には使いやすさを志向します。当たり前の話ですね。そして、使いやすさとは結局の所、ユーザーが「こうしたい」と思ったことがその通りに出来る、ということです。
例えば、Windowsでは商業アプリのほとんどが”ドラッグアンドドロップ”に対応しています。ファイルメニューから”開く”を選択する代わりに、開きたいファイルをドラッグしてアプリケーションに持って行くだけで良いのです。
この機能を使う人も居れば使わない人も居ますが、もし使う人だった場合、アプリが”ドラッグアンドドロップ”に未対応でドロップしても何も起きなければ、その人の「全能感」は傷つけられることになります。ユーザーはそうやって世間の厳しさを知るのです(笑
逆に言えば、ユーザーインターフェースが洗練されればされるほど、ユーザーの全能感が維持強化されるというわけです。
つまり、IT技術の進歩は、宿命的に精神の発達を阻害する要因を孕んでいると言うことが出来ます。
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ひところ「ゲーム脳」という言葉が流行りました。テレビゲームばかりやっていると脳に悪影響を与えるという説です。今日、これが誤りであるということは少なくとも若い人の間では共通認識となっています。確かに、この言葉を生み出した森昭雄教授の言説には俄に首肯しがたい点が多々ありますが、ではいくらでも好きなだけゲームをして構わないのかというと、そんなことはないはずです。
目が悪くなるし、勉強や仕事の時間もなくなります。いろいろな人と出会って見聞を広めなければならない時期に、家にこもってピコピコとゲームばかりやっていては人格に偏りが出ても不思議はありません。
ただ、「全能感」との関わりから考察すると、ゲームは「簡単すぎてはつまらない」のであり、プレイヤーの思い通りに行かないことがむしろ普通であることから、それほど問題とならないように思われます。クリアするにはちょっとは苦労をしないといけないわけです。もっとも、その「苦労」は実社会のそれとは比べものにならないほど少ないのは言うまでもありませんが。
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世の大人は「ゲームばかりやっている若者はけしからん」と言う一方で、「仕事でIT機器を使いこなしている人は立派だ」と賞賛しますが、上に述べたような理由でビジネス用アプリの方が精神に悪影響を与える恐れが高いのです。
このように書くと、「お前は便利なものを否定するのか? IT機器が使いやすくなっちゃいかんのか?」と言われるかも知れません。
ですが、それはちょっと違うのです。筆者も便利なものは好きです。
ただ、iPadのような最新機器のもたらす全能感が、グロテスクなものであることを自覚しなければならない、と言いたいだけです。
それは、自動車の普及が運動不足をもたらし、運動不足によって肥満した人間がグロテスクなのと同じです。自動車を否定して江戸時代のように徒歩で移動しろというのではありません。
少し多めに歩くようにするだけで良いのです。