先年他界した父がいつも言っていたことがあります。
「前払いはするな」。
もっとも、私の方としては言われなくても分かっているつもりでした。
例えば、こんなことがありました。
近所の家電量販店でレーザープリンターのトナー(のカートリッジ)を買おうとした時のことです。店員が、「取り寄せになるので、先に金を払って欲しい」と言うので、深く考えることもなく払いました。確か5千円くらいだったと記憶しています。
ところがそれが大失敗で、1週間たっても届きません。電話であとどのくらいかかるか聞いても、分からないの一点張り。結局2週間くらいかかりました。
さて、そのころはプリンターを酷使していたので半年も経たずして再び同じ店で同じカートリッジを買うことになりました。前回で懲りているので注文時には金を払わず、「品物が届いてから払います」ときっぱりと言いました。するとどうでしょう。翌日には「ご注文の品が届きました」と電話がありました。
金を払った後よりも、払う前の方が明らかに対応が良いのです。
これは考えてみれば当たり前のことです。業者は金を貰うために仕事をしているのです。言い換えれば、金を貰うまでが仕事、ということです。1度目は、店員にとって「金は既に受け取っているので適当にあしらっておけば良い」客だったのです。2度目に注文したときは、店員はまだ金を受け取っていませんから、私の機嫌を取る必要があったのです。
父の遺訓を忘れる
このような世間の「現金さ」を少しは分かっているつもりだった私は、基本的には前払いを拒否してきました。
ところが、今年に入ってついやらかしてしまいました。
先日もご紹介した「EZTimeline」のデザインをデザイナーに依頼する際に「前払い」してしまったのです。
正直言って、前払いしてしまうと手抜きされるかもしれないな、とは思っていました。しかし、金だけ取って一切なにもしてくれないというのは想定外でした。納期を過ぎると相手は電話にも出なくなりました。
仕方がないので、内容証明郵便で契約を解除する旨通知し、その後、少額訴訟を提起しました。現在、裁判所からの連絡待ちです。
信用はプライスレス
このような仕儀に至ったことは残念ではありますが、良い勉強になったとも思っています。一つは上に述べたとおり前払いはいけないということです。ただ、単純な売買契約と違って、デザインのような「請負契約」の場合は、後払いでは逆に請負人(デザイナー)が極端に不利になってしまいます。結局のところ、「前金としてまず半分、残りは仕事が完成してから」というのが妥当でしょう。いずれにせよ、全額前払いなどというのは非常識だということです。
実は、今回「前払いでも良いですよ」と言ったのは私の方です。と、言いますのも、相手のデザイナーはそれなりに有名な人で、著書も多数有り、多忙な人だからです。たぶん断られるだろうと思っていたので、つい父の遺訓も忘れて「前払い」をちらつかせてしまったのです。
ですから、今でも私はその人の才能を高く買っているし、欺されたとは思っていません。むしろ、「前払いするから」などと無理に仕事をやらせようとして悪かったなと思っているくらいです。恐らく、フリーランスのデザイナーは、キャパを超えて仕事を入れてしまいがちなのでしょう。それでも、お得意様の仕事や高額な案件はなんとか完遂しようとするでしょうが、私のような素人の一見さんの仕事、それも金は既に貰っている仕事は、後回しになって当然です。
しかし、しかしです。
後回しだろうと手抜きだろうと、引き受けたからにはプロフェッショナルの誇りにかけてやり遂げてくれる、と信じていたのですが……
今回、一番勉強になったのは、前払い云々よりも、約束を守らないことがどれだけ損なことかと気づかされたことです。
そう、損なのです。彼(デザイナー)は「仕事をせずに金だけ取れてもうかった」わけではありません。逆です。信用という観点からすれば大損しているのです。現に私の信用を失っただけでなく、裁判沙汰になったことでこれからもっと多くの人の信用を失う可能性が高いのです。
一事が万事と言います。彼はそうやって少しずつ約束を破っては自分の可能性を狭めていってしまう、そういうタイプの人なのでしょう。折角の才能を持ちながら。惜しいことです。
季布の一諾
その昔、楚の項羽の配下に季布という武将がいました。季布は子供の頃、「自分は頭も良くないし、何の取り柄もない。これからどうやって世に出ようか」と考え、「よし、自分は『正直』でやっていこう」と決めたそうです。それからというもの正直一路、約束したことはどんな些細なことでも守り抜き、季布が引き受けたなら絶対に大丈夫だという意味で、世に「季布の一諾」と言われました。
楚が滅んで漢が興ってからも重く用いられ、河東郡の太守に任ぜられたということです。
約束を守る。
この、本来当たり前の事柄は、しかし、突き詰めていけばそれほどの価値があるのです。何があっても約束を守る。一時的に損をすることがあっても、守り続けていれば、積み上げた信用は千金万金にも値するのです。
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件のデザイナーは、このような信用の大切さに気づいていないのでしょう。私は彼の姿を反面教師として、約束だけは守ろう、そして、無理なことは引き受けまい、と肝に銘じることが出来たぶんラッキーです。