セクハラヤジ問題についてもう一つ。
別にセクハラかどうかに限らず、ヤジというものは誰が言ったか分からない、少なくとも分かりにくいという性質があります。現に今回の鈴木都議もなかなか名乗り出ませんでした。もちろん、故浜田幸一氏のようにまる分かりで敢えてやってる人もいますけどね。
多くの場合発言の主が分からない、匿名に近いという意味で、2ちゃんねるなどの掲示板での発言に似ています。
このような言語の使用法は、果たして言論と言えるのでしょうか。
結論から言えば、私は言論に含まれると思っています。
確かに、誰が言ったか分からないとなると無責任で下劣な発言になりやすい。しかし、そうでないこともあります。例えば裁判官が政治的な意見を発表したい場合。あるいは、組織に属する人間が内部告発をする場合。
歴史を紐解けば、二条河原の落書のように匿名による言論が社会へ影響を与えた例は枚挙にいとまがありません。
考えてもみて下さい。「発言するときは氏名・住所・職業・年齢を明記してから! それ以外の発言は禁止!」みたいな社会では息が詰まると思いませんか。
匿名で下劣な発言をしているのを見かけたら、単に「下劣だな」と思っていれば良い。匿名での発言を禁止しよう! などと息巻く必要はないのです。
ただし、前にも書きましたが、発言によって民事・刑事上の責任を負うことがあるのは匿名であっても同じです。匿名であることによってそれらの責任から逃れやすくなる、ということはあるかも知れませんが。
しかし、ネットでの発言はほぼ確実に個人を特定できるものだし、ましてや議場でのヤジは録音されているのですから、最後にはバレるに決まっています。匿名性に乗っかって下劣なことを言うやつは捨て置けば良いし、看過できないような悪質な奴は捕まえれば良いだけです。
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中国の全人代や北朝鮮の最高人民会議ではヤジは見られません。ヤジにはヤジの意義があるのです。