「日本人はいつも模倣性が強く、西洋人が立派なトースターを作ると、日本人はもうすぐそばに模造トースターを持っていたが、美術でも同じことをやって忙しがっているにすぎない」(『ニューヨーク・タイムズ』佐藤愛一郎訳/『模倣と創造』池田満寿夫 より)
あけましておめでとうございます。
カントリーブルース・ギターを学ぶ際にどうしても避けて通れないのが模倣という行為です。「オレは他人のマネっこはイヤだ!」と言って、過去の偉大なブルースメンのプレイを研究せずに、いきなり自分のスタイルを確立しようとする人がいますが、まずうまくいきません。個性あるプレイではなく、単に下手なプレイで終わってしまう場合が多い。マネの段階を経ることはどうしても必要です。
しかし、他人のマネというのは、する側される側双方にとって抵抗が強いですね。特にアメリカでは、「日本人は何でも真似する」という決めつけが横行しています。冒頭の引用は美術に関するものですが、音楽についても同様の偏見は今なお想像以上に根強い。やはり、物まねではなく独自の音楽を追究した方がいいのでしょうか?
私の考えは、「それでも、模倣すべし」です。思うに、音楽とは模倣によって成り立つ芸術なのです。
ピカソに対する通俗的な理解の一つに「彼は、コンベンショナルなテクニックに通暁した上で、抽象画に進んだ」というものがあります。もっと有り体に言えば、「ピカソは普通の絵も巧かった」と。
より本質的に考えれば、抽象画はそれ自体として評価されるべきで、それを描いた人が「普通の絵」も描けるかどうかは関係ないかも知れない。確かにそうです。しかし、例えば絵を全く学んだことがない私が、カンバスに絵の具を叩きつけて「これが私の芸術だ!」と叫んだところで誰も相手にしてくれないでしょう。
上に述べたようにいきなり自分独自のギタープレイをしようとするのは、それに近いのではないかと思うわけです。
画家の卵がまず石膏像のデッサンをするように(それが無駄だという人も居ます。例えば池田満寿夫)、私たちも、マンス・リプスカムやミシシッピ・ジョン・ハートの演奏を学びましょう。テクニックがしっかりしてくれば、個性は自ずから出てきます。
今年の抱負は、「マネっこ上等!」です(笑)
日本人は模倣したトースターを更に改良して、
小型化、高性能化したりするから凄い。
これも一種の創造だね。
やっぱり、基本に基づいて作られたものって美しいというか自然な感じがするね。
音楽の場合、一音間違えただけで不自然に聴こえたりする場合があるから特にそう感じる。
だよね。
特にポップミュージックでは基本をおろそかにして変な個性ばかり発揮しようとする人が多くて困る。もっとも、基本に忠実なだけで全く個性がないのもダメだけど。
人間の関係
この本には、何も特別な事が書かれているわけではない。歳を重ねていけば、自ずと分かってくる事。五木寛之が読者に何かを与えてくれるわけではない。「人間の関係」という言葉の意味するところは広大だ。読者がこの本を触媒にして考えたらいい。この本から何かを得ようとしない事です!レビューアーにとっては「心の通う