全面禁煙とな?

歩き煙草の禁止条例が全国に広がっていますが、神奈川県ではついに人の集まる場所全てに於いて禁煙という条例案が出ているようですね。

私自身は煙草をやめて丸三年、いくら禁煙が広がっても特に困ることはありませんし、むしろ有り難いのですが、全ての場所というのはいささか行き過ぎではないでしょうか。

唐突ですが、私の好きな詩です。
生命はげに尊し
愛情は猶値高し
されど 自由のためとあらば
二つながら抛つもよし

魯迅と親交のあったという青年文学者の遺作だそうです(ちょっと記憶が曖昧です。原文はドイツ語だったかもしれません)。彼は自由のために戦い、官憲に虐殺されました。この詩を読むまでもなく、自由の大切さ、尊さは誰もが知るところです。(列強や袁世凱政府によって自由を脅かされていた中国人が、いまやチベットを弾圧しているのは皮肉ですが、それはまた別の話)

さて、「自由」というものを考えるときに、「危害原理」ということがよく言われます。要するに他人に危害を加えない限りは何をやっても自由、ということですよね。(確かに、危害は受けてないけどなんかイヤだなぁ、やめて欲しいなぁという場合もあります。が、それはお互い様。あくまで「やめてください」、と話し合いで解決すべき範疇です)
喫煙であれ何であれ、いやしくも人の自由を制限しようというならば、誰かが危害を受けている、といった明確な理由がなければならないわけですが、この点をいい加減にしたままの議論が多すぎるように思われます。「とにかく煙草の臭いが嫌いなんじゃ、不快だから規制しろ」、などと言う人が多い。このように自己の「不快」を理由として他者を律しようとする、言わば「不快原理」が蔓延していますが、これは極端に言えば、ユダヤ人との雑居が不快だからゲットーに押し込めよ、というのと変わりありません。行きすぎた嫌煙がファシズムと類似する所以です。嫌煙に限らず、自己の好悪をそのまま他人に押しつけるのは昨今の風潮ですね。

もっとも、最近の研究によれば、副流煙による被害は従来の想像以上であり、もはや単なる迷惑を越えて「危害」ともいえる程であるという主張もあります。その立場によれば確かに煙草の全面規制は正当化されることになります。このへん(喫煙被害の定量的解析)は自由がどうのというよりは専門家の意見を傾聴すべきであって、愛煙家も謙虚に受け入れなければなりません。

確かに、自由の意味を履き違え、なんでもやりたい放題で周囲に迷惑をかけても恥じない人もいます。そう言う人に限って非難されると「人権」の二字を口にする。なので、世間は「人権」アレルギーを起こしており、「人権もへったくれもあるか、○○なんかどんどん規制しろ」という分かりやすい意見が好まれがちです。
しかしながら、本当の本当は、人権はやっぱり大切なものであり、とりわけ自由権は可能な限り尊重されなければいけません。

人間は本来自由。どうしても必要があって自由を制限するならば、慎重の上にも慎重を期さなければならないのです。

「全面禁煙とな?」への1件のフィードバック

  1. 貴殿の書き込みを拝見してから一週間禁煙しております。今日明日がやまです。
    よいキッカケを作っていただいてありがとうございます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

*