なぜ人は人を殺してはならないか

たしか、1997年、神戸で児童殺傷事件が起きたときのことだったと思います。テレビでは連日連夜特番が組まれ、ジャーナリストや教育者や政治家や芸能人が事件について様々なことを言いました。

そうした番組の中で、「一般の人」の声として、「そもそもなぜ人は人を殺してはならないのか」という発言が出て、学者もジャーナリストも返答に詰まる、といったことがありました。

この発言は当時の大人達を愕然とさせ、論争を生みました。

大江健三郎は「私はむしろ、この質問に問題があるとおもう 。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ」と述べました。私は大江のこの発言の意味が未だに飲み込めません。

飲み込めないのでコメントもしませんが、他の多くの識者は、「人は他者の命を尊重することで、自分の命も尊重されるようにしてきた」という説明をしました。

ホッブス的な「万人闘争」から、ルソー的な「社会契約」へ、というわけです。たしかに、穏当な見解ではあります。

しかし、私はこの説も半分しか信じていません。

たとえばの話です。船が難破して、無人島に流れ着いたとします。人数は……そうですね、3人としましょうか。あなただけがピストルを持っていて、他の2人を殺そうと思えばわけもなく殺せます。法によって裁かれる恐れもありません。

殺しますか?

常日頃から恨みを抱いていたならともかく、普通は殺さないと思います。それどころか、かけがえのない仲間として助け合うことでしょう。でも、疑い深い人は、「無人島では助け合う必要があるから殺さないだけ」と言うかもしれません。

それならば、人里離れた場所に監禁されている人質同士ならどうでしょう。映画などで偶に見かけるように、テロリストがあなたに他の人質を「処刑」するように命じたら?

これなら殺しますよね?

やはり殺しませんか……。少なくとも殺したくはないですよね。

結局のところ、人間は殺さない動物、ということではないでしょうか。社会契約以前に、「殺さないこと」は生物としての人間にDNAレベルでインプットされた習性なのです、たぶん。

ニヒリストは言うでしょう、「殺さない動物などとは笑止。人類の歴史は戦争の歴史だ」と。

それは、「道具」のせいです。

またも思考実験ですが、あなたに怨敵がいるとします。殺人罪で罰せられることなくヤツを殺すことが出来ますが、素手でやらなければなりません。やりますか?

なにしろルール無用の徒手格闘ですから、噛みつきアリ、首締めアリのそれは凄惨な闘いになるはずです。かなり躊躇するのではないでしょうか。

では、日本刀を使って良いならどうでしょう。素手よりはかなり容易であるにしろ、まだ血なまぐささは避けられません。

しかし、遠くから鉄砲で狙って撃つということなら、負担は激減します。

これこそが、「戦争の歴史」のメカニズムです。

究極的には人が人を殺してはならない理由はない。それはその通りでしょう。しかし、「殺すなかれ」は昔の人が思いつきで作った戒律では決してなく、生物としての人間の習性に基づいているということは言えそうです。

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