べき思考で何が悪い

近頃、「~であるべき」や「~すべき」といった「べき思考」をやめようという話を良く聞きます。ドン・キホーテのように思い込みが強い私(笑)には耳が痛い話です。確かに一般的には、思い込みは少ないに越したことはなく、べき思考が自分や他人にストレスを与える蓋然性は高いと言えます。

しかし、敢えて問いたいと思います。この世に「べき」は一つもないのか、と。

そうは思えません。約束は守るべきだし、税金は支払うべきです。人を殺すべきではないし、人のものを盗むべきではありません。

このように言うと、「それらは当然のことであって、べき思考とは違う。べき思考とは間違った思い込みで物事を決めつけることだ」との反論があるかもしれません。では、何が間違った思い込みで、何が正しい信念なのでしょうか。

生産性がないといけない?

ある論者が「べき思考は生産性がない」と述べているのを見たことがあります。「生産性がないからやめるべき」と言わなかったのは誉めてあげても良いのですが、結局はそう言っているようなものです。つまり、「生産性はあって然るべき」という価値観の表明です。

そのこと(生産性を重んじる価値観)自体は別に構いません。私も基本的に同じ考えです。問題なのは他人に「それは『べき思考』ですよ、思い込みを捨てなさい」などと言いながら、実は自分も「べき思考」なことです。

人は自分の価値観は正しく、他人の価値観は間違っていると思いがちです。あなたが「くだらない思い込み」と感じているのは、彼にとっては「枉げることのできない信念」なのかもしれません。

議論するなら価値観の相違を認めた上で

誤解して欲しくないのは、「だから他人の価値観に触れるな」と言いたいわけではないということです。自分と異なる価値観を持つ人がいたら、「それは私の考えとは違う」とはっきり言えば良いのです。ただ、「それは『べき思考』だからやめろ」とだけは言ってくれるなと、そう言いたいのです。

自分が「べき」と思っていることは本当に「べき」なのか絶えず点検するのは結構なことです。しかし、それが他人に向けられると話が変わってきます。「べき思考の排除」が、ややもすると他人の信念を尊重しないための方便と化すことには注意を要します。

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