もっとKYであって良い

朝日新聞の、(ソーシャルA)「若者恐れる痛いキャラ」原田曜平氏という記事を興味深く読みました。

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まずこの見出し、「若者恐れる」が「痛いキャラ」に係っているようにも見えます。最初は、「近頃の若いもんは分からん」と嘆きつつ、心中彼らを恐れる痛いおっさんのことかと思いました。そう、私のような(笑)

そうではなく、今の若者は「痛いキャラ」と思われることを恐れている、という話ですね。

これについては言いたいことがあります。

中心我と周辺我

自我、つまりエゴには二種類あります。中心我と周辺我です。中心我は「わがまま」、周辺我は「見栄」のたぐいと考えると分かりやすいでしょう。

例えば、昔、自動車のエアコンが普及し始めた頃、エアコンもないポンコツ車に乗っていると思われたくなくて、真夏に窓を閉め切って走る人がいました。これ即ち周辺我が強すぎるのです。逆に、駐車場で白線を跨いで駐めるような人は中心我が強すぎるのです。

健全なる精神を保つには両者のバランスが重要です。

自らを省みて、どっちの我が強いのかを知っておく必要があります。大抵の日本人は周辺我の方が勝っているので、もうちょっとわがままになってみると均衡が取れるはずです。

空気など読むな

空気を読めない、KY という言葉が流行りました。それに対するアンチテーゼとして「若者よ、空気など読むな」という声も聞かれます。

私は後者に与する者ですが、察しの文化そのものを否定するわけではありません。電車の中で目の前に立った人がしんどそうな顔をしている、だから席を譲ってあげるというのは大変結構です。問題は、その人のことを案じて譲ったのか、周りの目を気にして譲ったのか、ということです。

ついでに言うと、席を譲るなどということは「ええかっこしい」であって、痛い、という倒錯した観念を持つ人もいるでしょう。しかし、それでも論点は変わりません。周りの目など気にせず、譲りたければ譲れば良いし、嫌なら譲らなくて良いのです。要は自分がどうしたいかです。他人がどう思うかではありません。

キョロ充の方がよっぽど痛い

友達が多く、異性にもてて、手帳(最近ではスマホか)はスケジュールでいっぱい、そういうタイプを、近頃では、「リアル」が充実しているという意味で「リア充」と呼ぶことは、若者には説明するまでもないでしょう。

そして、リア充の一員と見られたいがために、無理をして外見だけ取り繕う人のことを「キョロ充」というそうです。学食でひとりぼっちなのを人に見られてはリア充じゃないとバレてしまうので、キョロキョロと知り合いを探すからキョロ充。

あるいは常に人の目を気にしてキョロキョロしているから、とも言われます。いずれにしろ、あまりかっこ良いものではないですよね。

「人と違う」を目指そう

人と違う、ユニークというのは欧米では褒め言葉です。「欧米では」と言うと、すかさず「ここは日本だ」と反論する人がいますが、欧米であれどこであれ、良いことは取り入れてきたからこそ今日の日本の発展があるのです。

若者は、人と違うことを恐れるのではなく、むしろ人と同じであることを恐れるべきです。そして、もっとわがままであって良いと思います。

大事なのは中心我と周辺我のバランスです。

ただ、若者はもっと KY であって良いと思うのですが、朝日新聞の KY だけはいただけませんね(笑) ―― いや、笑い事じゃないですね。

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