元英大尉墓参に思う

スラバヤ沖海戦で乗艦が沈められ、漂流していたところを日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」に救助された元英国海軍大尉サムエル・フォール氏が来日し、「雷」艦長だった工藤俊作・元海軍中佐の墓前を弔ったとのことです。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081207-OYT1T00499.htm

考えてみると、私たち日本人こそ、フォール氏以上に故工藤俊作氏に感謝しなければならないのかも知れません。日本の良いイメージを世界に広めたわけですから。今時の人のように「なんとかしてイメージアップするぞー」と色々と策を弄しても決して出来ることではありません。工藤氏の身体に染みついたシーマンシップのなせる技であったことでしょう。

矢内原忠雄は、かの『武士道』を通じて欧米の知識人に日本道徳を宣揚した新渡戸稲造を評して、「三軍の将に匹敵する」と述べました。工藤氏を含め、数多くの模範軍人の方々が現代に生きる我々に与えて下さった恩恵もまた同じように大きいように思います。日本軍が、一部の人々がふれ回っているように「血に飢えた殺人鬼の集団」であった、とされてしまうのと、「いや、工藤氏のように立派な人も居た」というのでは大きな違いです。

ところで、冒頭に引用した読売新聞の記事では、「昭和戦争」という言葉が使われていますが、これって一般的な言い方なのでしょうか。確かに、よく使われる「太平洋戦争」では、中国・インドシナ・ミャンマーなどでの戦いを無視するような形になるし、「大東亜戦争」は、当時の軍部が大東亜共栄圏を標榜していたことから戦争賛美に繋がるといった批判があります。
その点、「昭和戦争」という言い方は分かりやすいかもしれません。ただ、日本独特の年号ということで外国人には通じないのが難点ですね。筆者としては「大」をとって「東亜戦争」が一番良いのではないかと思うのですが。

不正乗車ってそんなにいけないこと?

25歳の会社員がmixiで不正乗車の体験を綴って問題となっているそうです。ただ、不正乗車といっても、記事を良く見るとこの会社員の行為は所謂100円旅行であって、極めて軽微な犯罪です。
100円旅行とは何かというと、最寄りの駅までの切符を買い、ぐるーっと遠回りをして最後に出発地の隣の駅へと戻ってくることを言います。(従って現在では100円以上かかります)
もちろん、不正は不正です。良くないことです。それをいけしゃあしゃあとmixiに書くとは本当に大馬鹿野郎です。

でも、ですね。そんなに大騒ぎするようなことなんでしょうか。100円旅行というのは、キセル行為や乗車券の偽造・変造に比べて経済的意味が殆どありません。なにしろ、途中で降りることはできず、常に最後は出発地の隣の駅で降りることになるのですから。無論、そいつのせいで電車が多少混むということはあり得なくはないですが、現実には空いている時間・路線を選ぶでしょうから実質的影響は極めて少ないはずです。

要するに暇人のイタズラの域を出ない行為なわけです。
以前問題になった、チューリップの茎を傘でちょん切った奴に似ていますね。あまり誉められた行為ではない。しかしながら、一々報道するようなことではないだろう、と言いたいのです。
無論、ブログやSNSで自分の犯罪を披露して炎上を招いてしまう人が後を絶たないのはなぜか、という問題意識を持つことは悪くはありません。が、上記の記事のように社会学的視点を欠いたまま「罪の意識はなかったようだ。」などと非難するだけに留まっていては無意味です。

もう随分前の事件ですが、バレーボールの全日本監督が海外遠征の際に2億円ほど携行したことが問題となったのを思い出します。新聞には「○○監督、2億円不正に持ち出し」という見出しが躍りました。不正に、というと横領か何かをしでかしたように見えますが、実は、外為法で一定以上の金額を海外に持ち出すときは届け出が必要だったのにそれを怠った、というだけの話でした。自分の金を持っていっただけなのです。形式的には違法行為に違いありませんが、わざわざ新聞が書き立てるようなことではなかったはずです。

どうもマスコミは、本当に報道すべきことは脇に置いて、このようにどうでも良いことばかり取り上げるような気がしてなりません。
人の年金を横領した社保庁の職員は放っておいてチューリップ荒らしだの100円旅行だのを厳しく指弾して社会の木鐸気取りとはいい気なものです。そんなことは余程世間が平和で書くことがないときに書けばよろしい。

最後に一つ謝罪を。釣りっぽいタイトルですみません!

中国のメダル獲得数が示すもの

北京オリンピックが開催中です。現時点(2008年8月23日)で日本のメダル獲得数は、金9、銀6、銅10の計25だそうです。立派なものです。
開催国中国はなんと、金49、銀18、銅28の計95(現時点)。予想通りの大量獲得ですね。

スポーツについて考えるとき、よく思い出すのが知り合いの韓国人に聞いた話です。終戦後、朝鮮半島にも連合軍が進駐しました。将校たちがテニスをしているのを見て、朝鮮の人達は口々に言ったそうです。

「何をしているのか知らないけど、あんなに汗を流してお気の毒に」

テニスという競技を知らなかったというより、スポーツという概念自体が殆ど無かったのだそうです。私にこの話をしてくれた人は、朝鮮の後進性を示す逸話として半ば自嘲的に言ったのだと思いますが、この話は実は別の面白い視点を提供するのです。

つまり、スポーツとは必ずしも人類普遍の概念ではない、ということです。
例えば、「知のヴァーリトゥード」の庄内さんも言っておられますが、11億もの人口を擁するインドではスポーツは全然盛んではなく、今オリンピックでの金メダルは現時点でたったの1個です。(インド、人口11億人で金メダル1個

思うに、権威ある団体によって結果を測定・記録し、たえずその更新を図るという近代スポーツの精神は優れて西洋的なものであって、オリンピックに参加することは取りも直さず西洋中心の秩序に組み込まれることなのです。

世界システムと華夷システム

世界システム論とは、アメリカの歴史学者イマニュエル・ウォーラステインが提唱した理論で、簡単に言うと歴史上見られる周縁国(植民地・属国)の経済的余剰を中央国(宗主国・覇権国家)に移送する仕組みです。もっと簡単に言うと、トランプの「大富豪」における大富豪と奴隷の関係みたいなものです。中央国になれるとお得なのです。

一方、華夷システムは字面を見てお分かりの通り東アジアにかつて存在した中国を中心とする冊封体制のことです。世界システム論によれば華夷システムも世界システムの一つなのですが、ここでは便宜上、世界システムと言えば、産業革命以降のイギリス・第二次世界大戦後のアメリカが覇権を握ってきたところの近代世界システムを指すことにしましょう。

日本は昔から、あるときは華夷システムの周縁国となり、またあるときは華夷システムから距離を置いてきたわけですが、明治以降、華夷システムから完全に離脱しました。要するに崩壊寸前の華夷システムに見切りをつけて、イギリスを中心とする世界システムに組み込まれることを敢えて望んだわけです。

中国は世界システムの中心を目指すのか

さて、何が言いたいかと言いますと、オリンピックとはつまりそのような世界システムの価値観を支える装置の一つではないか、ということです。通俗的な言い方をすると「国威発揚の場」というやつです。
「参加することに意義がある」とはクーベルタン男爵の言葉ですが、オリンピックに参加したいと考えることは、世界システムに参加したいと考えることにとても近いのです。仮に、世界システムに無関心ならば、オリンピックにも無関心なはずです。おそらく、西太后もオリンピックというものをやっていることは知っていたと思いますが、西戎の奇習として顧みなかったのではないでしょうか。

世界システムの中核を巡る文化体同士のせめぎ合いは、時に極めて熾烈です。かつて日本を含めた列強は覇権を求めて凄まじい争いを演じ、弱国に対して非情に接しました。世界システムに参加し遅れた国、そもそも参加したくなかった国は、植民地として過酷な収奪の対象となりました。
その中で、植民地が欧米列強に対抗するための武器としたのは皮肉にも西洋の思想であり制度であり文物でした。
今日の中華人民共和国が、本質的に西洋思想である共産主義を掲げているのも、そういった文脈によって理解されるべき事柄です。共産主義で理論武装し、しかし改革開放によって資本主義の利点も取り入れつつ、オリンピックを開催してメダルを取りまくる。これらは全て、かつて世界システムに参加するのを拒んで損をしてきた中国が、いよいよ世界システムの中央を目指す意思を明確にしたものと言えます。

中国は東洋思想を復興せよ

中国が国際社会に於ける地位向上を図るのは自然なことです。しかし、かつての日本が巻き込まれた、世界システムの覇権を巡る争いの野蛮な側面を思うとき、今後の中国の動向に強い危惧を抱きます。全体主義という前世紀の亡霊が、13億の民を擁する空前の巨大国家に取り憑いているのですから。

老子や荘子の深遠なる哲理は欧米列強及び日本からの侵略に対して無力でした。儒教も役に立ちませんでした。だから、中国人は共産主義によって対抗しようとしたのです。しかし今や、戦いのための理論は捨て去り、東洋思想を甦らせる時期です。

中国人が孔孟の教えを今ひとたび思い出し、中国が覇道によらず王道によって真に偉大な国となるよう願って已みません。

プールで飛び込み禁止?

またも、教育界が事勿主義の弊害を露呈しましたね。
福島県のとある高校で生徒がプールに飛び込み、頭を打って死亡する事件が起きたことから、県教委はなんと、県立学校のプールでスタート台から飛び込む行為を全面禁止にしたそうです。水泳部員も全てです。あきらかにやりすぎです。「やっぱりパンがもったいない」でも書きましたが、この度を超した事勿主義は、彼らが保身に汲々とするあまり如何に生徒のことを忘れているかの証左です。 まぁ、飛び込み禁止は事件の真相が解明されるまでの暫定的な措置だそうで、これが恒久化されることはないようですが、それにしても訓練を受けた水泳部員まで一律に禁止とは異常です。こんな非常識なことを言い出した教委の理事の顔が見てみたいものです。

さらに言うならば、大分県の教員採用に係る不正事件とも考え合わせて、「教育委員会の民主化」が必要な時期なのかもしれませんね。民主化といっても自称民主主義者なだけのサヨクを教育委員長にしろということではありません。有権者が投票で罷免できるように、ということです。

言うまでもなく、教育は我々の未来に関わる一大事です。そして、その教育に於いて指導的役割を果たすべき教育委員長が、なんら民主的基盤を持たずして(それぞれの自治体の議会の承認は経ているようですが)、委員の互選によってなんとなく決まる、そして、大分県のように警察沙汰にでもならない限りやめさせることが出来ない、というのは何とも変です。

福島県の水泳部員諸君が心置きなく練習に励むことが出来るようになることを希望します。

 

端居して父祖の育てし庭眺む

水に落ちた犬と毎日新聞は叩くべし

ネットで注目を集めている割にはリアルワールドではあまり話題になっていないことの一つに、毎日新聞の変態記事問題があります。変態記事って何? 隠語? と思われるかもしれませんが、れっきとした事実なのです。本当に変態なのです。どんなふうに変態かをここでご紹介するのが筋なのでしょうが、あまりにも変態的、変質的でおぞましいので書きたくありません……。詳細は毎日新聞の英語版サイトがひどすぎる まとめ@wikiを御覧ください。

問題の記事一覧には信じられないような下劣な見出しが続いています。
単に下劣であるだけでなく、日本人への偏見に満ちています。これは、奇を衒う内にエスカレートしたなどといったものではありません。明白に、悪意に基づいています。これらを書いたライアン・コネルなる人物が、最悪の部類の人種差別主義者であることは疑いようもありません。

ただ、コネルとやらの弁解によると、これらは全て日本の雑誌に載っていた記事を翻訳したに過ぎず、自分には責任はないといいます。そう言われると、「日本の雑誌が変態的だからいけないのかな?」と、騙されそうになってしまいますが、よく考えてみてください。どこの国にも下らないエロ雑誌が多少はあるものです。むしろ、そういう雑誌が無い国の方が怖い。しかし、そういうカストリ雑誌に載るのと、権威ある全国紙に載るのとでは全く意味が違います。後者の方が遙かに社会的影響力が強いのです。現に、海外にはこの記事が真実だと信じる者が大勢いるとのことです。たまに、「いくらなんでもこんなことはないだろう」という意見が出ても、「有名なマイニチの記事だから真実に違いない」と、一蹴されるそうです。本当に酷い話です。

今日(2008/07/20)、毎日新聞は、ようやく変態記事が載ってしまった経緯を報告し、関係者を処分するとともに、読者に謝罪しました。人の良い方々は、「今後は毎日もまともになるだろう、謝っているようだし、これ以上追及することもあるまい」と思われるでしょう。しかし、私は、それは甘いのではないかと思っています。件の「おわび」を仔細に読むと、結局の所、悪かったのは問題の記者(コネル某)とそれを見過ごしていたチェック体制であり、当の自分らは悪くない、と言っているに等しいからです。

魯迅は「水に落ちた犬は叩くべし」と言いました。頗る動物愛護精神に欠ける表現ですが、魯迅が言っているのは犬は犬でも「権力の犬」です。水に落ちた犬(飼い主が失脚した犬)は、一見弱っていて同情を引くけれども、なんのことはない、すぐにブルブルッと水をふるってまた人を噛むに違いないのです。マスコミが第四の権力と言われるようになって久しく、その走狗に噛み殺された人も実に多い。今回は「日本人は変態」というデマを広めることによって日本国民全部を噛み殺そうとしていたのです。

今のところ毎日は自らの非をしぶしぶ認めたようですが、「水に落ちたのは運が悪かった」程度にしか思っていないかもしれません。
少なくとも、「チェック体制に問題があった」などと言っているうちは真摯な反省とは程遠いと言わざるを得ません。
単なるチェック体制の問題ではなく、社内の(全部とは言わないまでも)一部に、なんとかして日本を貶めたいという勢力がある。それが7年の長きにわたって変態記事が掲載され続けた理由です。彼らが自らそこにメスを入れるまでは、私たちは、毎日新聞に対して疑いの目を持ち続けなければならないでしょう。
(と言って、新たに毎日を購読して監視する必要はありません。むしろ、今購読なさっている方は解約しましょう。それが彼らにとって一番の薬です)

井山七段挑戦権獲得

囲碁の井山裕太七段が名人戦の挑戦者となったそうです。
確か入段されたとき、張栩九段(当時)との記念対局が行われたのをおぼろげながら覚えています。井山初段(当時)がコミ無しの先で打っていたかと思います。

追記:
記憶違いだったようです。今思い出したのですが、確か逆コミ五目半でした。やはり、プロに成り立てとトッププロとではそれだけの差があるということでしょうか。

結果は張九段の勝ちでしたが、井山初段は奇想天外な作戦で果敢に戦い、一時はあわやというところまで行きました。

普通、碁というものは、特に強い人同士となると先の先まで読んで実に微妙な戦いをしているので、素人には何をやっているのかよく分からないことが多いです。
ところが、プロは、魅せる碁と言いますか、見ている者を驚かす奇想天外な手を時として打つのですね。繊細微妙というよりは豪快な手を。お金を取って人に碁を見せるのが仕事である以上、ただ強いだけではなく、そういう才能が必要なようなのです。プロ野球で、バントばかりして勝っても観客を楽しませることが出来ないのと似ています。

井山初段もそういう意味で年は若いけど(たしか当時13歳でしたか)プロだなぁと感嘆しながら見ました。

さて、比べるのもおこがましいですが、私は20代の初めから34のこの歳まで割と碁に熱中してきたのですが、まったく強くなりません。(近所の碁会所では二段で打っています。アマ二段というのはほんの初心者のレベルです)

いやもう、本当に比べるような次元じゃないのですが。
考えてみると、人生、86歳くらいまで生きるとしてもたかだか3万日しかないのです。私の場合、もうそのうち1万2千日は過ぎてしまいました……。
何かの道で上達するというのは実に難しいこと、そして、そのための時間はあまりにも短いことを痛感します。

井山七段はまだ19歳。あの歳でタイトル戦という高みに登ったことは驚嘆に値します。おそらく、我々には想像もつかないほどの「濃い」人生を生きておられるのだと思います。

井山七段はつい先日(11日)八段に昇段されたそうです。私は井山裕太八段を応援しています。

 

遠雷を夢うつつに聞く夜更け哉

やっぱりパンがもったいない

聞くところによると、最近小中学校では、給食のパンを持って帰らないように指導しているのだそうです。
廃棄してしまうのはもったいないではないか、という苦情が数件あったというニュースに対して、2ちゃんねるでは「もったいないなどというのは貧乏人の価値観」、「どうせ、傷んだパンで腹をこわしたら学校を訴えるんだろ」という意見が散見されます。本当にびっくりです。まあ、「事勿れ主義もたいがいにせい」というごく普通の意見も多いですけどね。

そう、事勿れ主義が最大の問題なのです。確かに、給食のパンは防腐剤を使っていないので腐りやすいのかもしれない。子供のすることだから、日の当たるところに放置したりするかもしれない。食べてしまえば、パンがどういう状態だったかは分からなくなってしまうので、「学校のパンで腹をこわした」と訴えられると反論の材料がない。それならば、持ち帰り一切禁止、全部廃棄してしまえ、ということなのでしょう。

しかし、防腐剤など入っていなくても、パンが半日くらいは持つのは常識です。もちろん、季節によっても違うし、個体差もあるでしょう。が、そういうことも含めて、「このパンは食べられるかな? 悪くなってないかな?」と判断するのは、あくまで食べる人です。古くなったパンを食べてお腹をこわそうが、運悪く死のうが、その人の自己責任。そんな当たり前のことが通用しない世の中なのでしょうか。

実は、余った給食のパン全廃棄は何と97年からずっと続いているそうです。冒頭の2ちゃんねるの人も、こういった事勿れ主義で真剣に教育する気がない連中のせいで、吝嗇と倹約の区別さえ教わらずに育った被害者なのでしょう。

もちろん、この程度の無駄は社会全体では微々たるものです。野菜がとれすぎて潰したりだとか、スーパーやコンビニで賞味期限切れの食品が大量に廃棄されたりなど、たしかに世の中もっともったいないことはたくさんあります。しかし、教育の場で、給食時間を過ぎたら全部捨てさせる、というのはあまりに非教育的です。

一事が万事と言います。保身のためにパンを全廃棄させるような場では、おそらく、他のいかなる事に対してもまず自分の身が第一、生徒のことは二の次、三の次なのでしょう。教員の方々は、自分の退職金の心配も結構ですが、少しは生徒のことも考えて欲しいものです。

そうめんは古いものほどおいしいが

またもや食品不祥事です。奈良県桜井市の森井食品がそうめんの賞味期限改竄とのこと。中元商戦を前に、業界では風評被害が懸念されているそうです。
解せないのが社長のコメント。

「そうめんは古ければ古いほどおいしいという世界で育ってきた。しかし、昨今の食をめぐる不祥事を考えると、業界の常識は通じなかった」。

全く以てなぜ責められているのか理解していないようです。消費者は”嘘”に対して怒っているのです。そうめんが古かったから怒っているわけではないのです。
そもそも、そうめんは古い方がおいしいというのは常識であって、わざわざ食品会社の社長から講釈してもらうほどのことではありません。仮に、このことがあまり世間で知られていない、従って古いそうめんが売れない、と感じているのならば、周知徹底に努力すれば良いだけのことであって、賞味期限の改竄などに手を染める理由にはなりません。

この種の問題に対して、「賞味期限切れの製品が大量に廃棄されるのはもったいない、だから、ちょっとの改竄にまで目くじらを立てないほうが良い」などと見当違いのことを言う人がいます。
確かに、そうめんはともかく、一般に食品は古ければ古いほど価値が下がります。だから、昨日作ったものを今日作ったと偽ればその価値の差額を騙し取ることができる。これが、偽装の端的な動機です。その方が儲かるからやっているだけのことです。それを「もったいないから」という別の道徳を持ってきて正当化しようとするのは欺瞞に他なりません。

件の社長の言は、泥棒が「貨幣経済の矛盾を是正するために、お金を払わずに商品を取ったのだ」と言い訳するくらい滑稽なものです。
あるいは、泥棒がたまたま○○人であった場合に、「○○人に対する差別が原因」などと言い訳するのにも似ていますね。
それに対しては「○○人差別は確かに由々しき問題だが、あなたは泥棒したんだから、そのことを真摯に反省しなさい」としか言いようがありません。

現代日本で、大量の食品が廃棄されているのは確かに由々しき問題ですが、賞味期限改竄がその解決策であるとしたら、あまりにお粗末な話です。

とはいえ、むやみに新しいものをほしがる私たち消費者にも問題はありますね。スーパーマーケットでも、棚の前の方は古いものが置いてあるから敢えて奥から取る、などといったことを皆当然のようにやっています。同じ値段ならちょっとでも新しい方がいいですもんね。
これは素人考えなのですが、古くなるに従って安くする、という当たり前のことをもっと徹底してやると良いのではないでしょうか。賞味期限を現在よりも長めに設定し、古くなればなるほど安くなっていって、期限ぎりぎりともなると9割引くらいになる。痛んでいるかもしれないけれども、買った人の自己責任。表示が正しい限り、文句は言わせない。どうでしょう。

ああ、この制度だと我が家は古いものばかり食べることになりそうです(汗)

ミズノはオフィシャルサプライヤーを辞退せよ

北京オリンピックが近づいていますが、speedo社の「レーザーレーサー」なる水着が話題を呼んでいます。なんでも、試しにその水着を着用してタイムを計ったところ、かなりの好感触で、自己新を記録した選手が複数いたとか。
しかし、日本ではミズノ、アシックス、デサントの三社が北京オリンピックのオフィシャルサプライヤーとなっていて、レーザーレーサーを使うことができないそうです。そこで、水連では、三社に水着の改良を要請するとともに、違約金を払ってでもレーザーレーサーを使うことも検討しているとのこと。

三社の中でも肝煎り的地位にあるミズノ社としては、違約金など払われては末代までの恥と、意地になるのも無理はありません。実際、ミズノの現行バージョンの水着は非常に高性能だと言われており、開発者たちは、今までの日本競泳陣の好成績は我々の水着によって支えられてきた、という自負心を持っていることでしょう。

だがしかし、です。speedo社の水着に性能面でハッキリ差をつけられた今回に限っては、ミズノは下手に政治力を発揮して無理に自社の水着を使わせようとしない方が、長い目で見ると絶対に得だと思います。
このままでは、北京で日本選手が惜しくも敗れた場合、「妙なしがらみで性能の劣る水着を使わされて、負けた」、と世間から言われることは目に見えています。
それよりも、「どうぞ、speedo社の水着をお使い下さい」と、度量を見せた方が、ミズノ社の好感度は絶対にアップする筈です。(見出しにはオフィシャルサプライヤーを辞退せよと、ちょっと過激なことを書きましたが、実際には辞退までする必要はなく、他社の水着の使用を認めれば済むことですね)

たしかに、ミズノにとっては癪なことでしょうが、ここは臥薪嘗胆、この屈辱をバネに、腰を据えてspeedo社のものよりも優れた水着を開発し、次のオリンピックでこそ名実共に世界最高の水着として日本のみならず世界各国の選手に使ってもらえるようにした方が遙かに会社にとってプラスになります。

と、断言してしまうのは「プロジェクトX」の見過ぎとしても(笑)、変な根回しでspeedo社の水着を排除しようとすればするほど、ミズノのブランドに傷がつくのは間違いありません。

ミズノ社にはぜひ賢明な判断をして欲しいものです。

全面禁煙とな?

歩き煙草の禁止条例が全国に広がっていますが、神奈川県ではついに人の集まる場所全てに於いて禁煙という条例案が出ているようですね。

私自身は煙草をやめて丸三年、いくら禁煙が広がっても特に困ることはありませんし、むしろ有り難いのですが、全ての場所というのはいささか行き過ぎではないでしょうか。

唐突ですが、私の好きな詩です。
生命はげに尊し
愛情は猶値高し
されど 自由のためとあらば
二つながら抛つもよし

魯迅と親交のあったという青年文学者の遺作だそうです(ちょっと記憶が曖昧です。原文はドイツ語だったかもしれません)。彼は自由のために戦い、官憲に虐殺されました。この詩を読むまでもなく、自由の大切さ、尊さは誰もが知るところです。(列強や袁世凱政府によって自由を脅かされていた中国人が、いまやチベットを弾圧しているのは皮肉ですが、それはまた別の話)

さて、「自由」というものを考えるときに、「危害原理」ということがよく言われます。要するに他人に危害を加えない限りは何をやっても自由、ということですよね。(確かに、危害は受けてないけどなんかイヤだなぁ、やめて欲しいなぁという場合もあります。が、それはお互い様。あくまで「やめてください」、と話し合いで解決すべき範疇です)
喫煙であれ何であれ、いやしくも人の自由を制限しようというならば、誰かが危害を受けている、といった明確な理由がなければならないわけですが、この点をいい加減にしたままの議論が多すぎるように思われます。「とにかく煙草の臭いが嫌いなんじゃ、不快だから規制しろ」、などと言う人が多い。このように自己の「不快」を理由として他者を律しようとする、言わば「不快原理」が蔓延していますが、これは極端に言えば、ユダヤ人との雑居が不快だからゲットーに押し込めよ、というのと変わりありません。行きすぎた嫌煙がファシズムと類似する所以です。嫌煙に限らず、自己の好悪をそのまま他人に押しつけるのは昨今の風潮ですね。

もっとも、最近の研究によれば、副流煙による被害は従来の想像以上であり、もはや単なる迷惑を越えて「危害」ともいえる程であるという主張もあります。その立場によれば確かに煙草の全面規制は正当化されることになります。このへん(喫煙被害の定量的解析)は自由がどうのというよりは専門家の意見を傾聴すべきであって、愛煙家も謙虚に受け入れなければなりません。

確かに、自由の意味を履き違え、なんでもやりたい放題で周囲に迷惑をかけても恥じない人もいます。そう言う人に限って非難されると「人権」の二字を口にする。なので、世間は「人権」アレルギーを起こしており、「人権もへったくれもあるか、○○なんかどんどん規制しろ」という分かりやすい意見が好まれがちです。
しかしながら、本当の本当は、人権はやっぱり大切なものであり、とりわけ自由権は可能な限り尊重されなければいけません。

人間は本来自由。どうしても必要があって自由を制限するならば、慎重の上にも慎重を期さなければならないのです。