黒子のバスケ脅迫犯は将来有望かもしれない

少し前に黒子のバスケ脅迫犯の渡辺被告について、かなりボロクソに書きました。別にフォローするわけではないのですが、若干追加したいことがあります。

彼は「実刑判決の量刑の長さを『自殺権を剥奪され、自殺をお預けにされる期間』」などと、しきりに自殺をほのめかしています。いや、ほのめかすというより宣言に近い。

しかし、冷静に考えると、彼は誰一人殺めたわけでもなく、決して凶悪犯ではありません。死ぬ必要はないし、「死ぬ、死ぬ」と言えば言うほど周囲の気を惹きたくて言っていると見なされるのがオチです。

どんな悪人でも、刑務所の中で規則正しい生活を送るうちに幾分かは精神も健全になると言います。まして根っからの悪党というわけでもないであろう渡辺被告(そのときには「受刑者」)は、たぶん憑き物が落ちたようになるはずです。

刑期を終え、もし澄み切った心境になれたとしたら。

それでも死ぬのでしょうか。どうしても死にたいというなら仕方ありませんが、少しでも「生きてみようかな」という気持ちが湧いたら、ぜひ生きるべきです。

それも、ただ生きるのではなく、自殺防止の活動をするのです。本を書いたり講演したり。

一切の甘えを捨てて真剣に取り組めば、何十年も死ぬことばかり考えて生きてきた人間の言うことだけに説得力があるというものです。頭は良いのだし。

無論、とやかく言う人はいるでしょう。「犯罪者のくせに」とか「おや、死ぬんじゃなかったの?」とか。そういった言葉を聞き流す強さが必要ですが、それは全ての人に言えることです。

腹さえ括れば、渡辺被告の将来は有望です。

利き目、利き脳と小保方博士

最近買ったカメラを弄っていて改めて思ったのが、私には左目でファインダーを覗くクセがあるということです。一般的には右目で覗くのが良いとされているのでそうしようとすると、非常に見にくいのです。視力に問題はないはずなのに。矯正は容易ではなさそうです。

このように、人間には利き目があることは経験からも明らかですが、では利き脳はどうでしょう。

左脳は論理を司り、右脳は創造を司る。そして、左右どちらが優位かによって左脳人間と右脳人間に分けられる。……という説が巷間に流布しています。

また、視神経は交差しており、右目から入った情報は左脳に、左目から入った情報は右脳に送られることから、利き目と逆の方が「利き脳」であるとも言われます。この理論に従えば、私は左目が利き目なので右脳人間ということになります。

しかし、「利き脳などない」という説も強力に主張されており、我々素人には判断しかねるところです。どちらの説が正しいにせよ、一般人には科学的な検証など不可能であり、要するに、信じたい説を信じているに過ぎません

今話題の小保方博士のSTAP細胞に関してもそうです。「そう簡単に万能細胞ができるはずがない、俺はSTAP細胞がインチキだと分かっていた」と、したり顔で言う人が居ますが、本当に分かっていたのか怪しいものです。素人に分かるくらいなら、「ネイチャー」の査読を(何度か却下されたにせよ最終的に)突破できるはずがありません。

もっとも、小保方氏には博士論文の剽窃疑惑も持ち上がっているので、極めて「疑わしい」のは確かです。

もし剽窃が事実なら博士号は剥奪されるでしょうが、しかし、それとSTAP細胞の研究の正当性とは一応区別して考えなければいけません。

「博論はパクリだけどSTAP細胞は本当」ということだってありえますからね。

まあ、ないでしょうけど……。

黒子のバスケ脅迫犯の気持ち悪さ

漫画「黒子のバスケ」の原作者及び関係各所を脅迫した事件の被告人意見陳述の全文が公開されています。

なるほど、渡辺被告の知能は平均以上ではあるのでしょう。しかし、それほど賢いとも思えません。ある部分では「ろくに努力もせず怠けて過ごして来た」と認めているにもかかわらず、

自分の人生と犯行動機を身も蓋もなく客観的に表現しますと「10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして『人生オワタ』 状態になっていることに気がついて発狂し、

別の部分では格差社会を嘆いたりしています。

グローバル経済体制の拡大により、一億総中流の意識が崩壊し、国民の間の格差が明確化して久しい昨今です。日本は東西冷戦下の高度成長期のようなケインズ型の経済政策を採用する体制にはもう戻れないでしょう。

「グローバル経済」だの「ケインズ型の経済政策」だのといった「ご高説」に失笑させられるのはさておき、上に引用した2つの文は論理的に矛盾しています。

「ろくに努力もせず怠けて過ごして来た」のならば、現在の不遇もまさに「身から出た錆」であり、「格差社会」を嘆く筋合いはないはずです。

「こんなにも努力してきた」のに「格差社会」のせいで不遇、ならば筋は通りますが。

高い自意識

渡辺被告に限らず、自分がいかに努力していないかを力説する人間はたくさんいます。「自分は本当は高い能力があるんだけど、努力していないからこの程度なんだ」というわけです。

渡辺被告の高い自意識は、臨床心理士から「間違った」プロファイリングをされたことを憤る部分にも垣間見られます。

どこかの臨床心理士が新聞紙上で「好きなキャラ云々」などと真相にかすりもしないプロファイリングを披露して悦に入ってましたが、そんなしょぼい話ではないのです。

この後の文でも、件の臨床心理士を「自身の能力への懐疑と謙虚さが完全に欠如した恥の上塗り的な強弁を平然と新聞紙上にできる人物」などと強く非難しています。

この男、事ここに至ってもまだ「自分のことを正しく理解して欲しい」ようなのです。

自殺をお預けにされる期間?

自分は下されるであろう実刑判決の量刑の長さを「自殺権を剥奪され、自殺をお預けにされる期間」と理解します。

そして、一番情けないのが、ことあるごとに自殺を口にしている点です。そんなに死にたいなら脅迫行為などせずにさっさと死んでおけば良かったのです。それを「本当は死にたいんだけど、自殺をお預けにされている」などと、よく言ったものです。

そもそも、被害を弁償せずに「自殺」によって責任を取りたいというのもふざけた話です。

「年収が200万円を超えたことは一度も」なく、全額支払うのは無理だからというのがその理由ですが、逆に言えば、必死になって働けば少なくとも一部は弁償できるのです。

それをせずに自殺など、許されることではありません。

どうも渡辺被告は、自分が社会に受け入れられなかったのは「顔がブサイク」で「学歴がない」からだと思っているようです。

しかし、現実は違います。世間の人は他人の、しかも男の顔などには大して注意を払っていません。学歴も然り。

彼の周囲が冷淡であったとすれば、その理由は「彼が自分のことをやたら大層なものと思っていて気持ち悪いから」に相違ありません。「刑期を終えたら自殺する」とか、「(プロファイリングに対して)そんなしょぼい話ではない」とかいった発言は、渡辺被告がいかに自分のことをスゴい人間だと思っているかの証左です。

彼の場合、平均より頭が良いだけに、「本当のオレはこんなものではない」という気持ちも、それだけ強かったのでしょう。

このように、空想上の自己像と現実の惨めな自分との乖離に苦しむ人間が増えています。これこそ、単なる経済的な格差より数等深刻な、現代の病理と言えましょう。

中国に対してPM2.5排出の責任を問え

26日は西日本各地でPM2.5の濃度が高い値を示しました。大部分は中国から飛来したものと思われます。

昔からあった黄砂はありがたくない贈り物ではありますが、どうにか許容範囲内でした。春霞などと言って風流なものとする考え方もあったほどです。ですが、PM2.5となるともう迷惑以外の何者でもありません。2.5とは、およそ2.5μm以下の小さな粒子からなるという意味で、なかなか地面に降りてこず、長期間空中を漂うので厄介です。しかも、小さいので人間が吸い込むと肺胞まで届いて、PM10などに比べて害が大きいのも問題です。

PM2.5
NASA, Credit: Dalhousie University, Aaron van Donkelaar

新興国ではどこも粒子状物質の濃度が高く、特にアフリカ北部から中国へと伸びるベルト状の地帯の汚染が目立ちます(図)。とりわけ中国の汚染は深刻で、偏西風に乗って運ばれるため、東に位置する韓国・北朝鮮、そして日本が強い影響を受けます。

中国のPM2.5排出を低減させるために日本は技術支援すべし、との意見もあります。

それはそれで結構なことですが、現に発生している被害の賠償を請求するのが先ではないでしょうか。どうも我が国の指導者たちは、中国に対して及び腰というか、賠償を請求されこそすれ、こちらから請求するなどハナから頭にないようです。

少なくとも、他国が迷惑していることを彼らに分からせる必要があります。難しいことですが。

それをせずに技術支援だけしても、思ったよりPM2.5が減らないのは日本のせい、それどころか中国の大気汚染は全て日本の責任などと、いつのまにか話がすり替わってしまうのがオチです。

天麩羅だのカツカレーだの

先日来の関東甲信越地方の大雪により各地で被害が相次ぎました。そうした中、「安倍総理は都内で優雅に天ぷらを食べていた」と三宅雪子・前衆議院議員を始めとした人々があげつらっています。

 

またか、という思いです。

政府の災害対策に落ち度があるのなら、率直にそれを書けば良いはずです。

例えば、総理は会食を取りやめにして災害救助の指揮を執るという選択もあったでしょう。それならそう書けば良いのです。

しかし、世間は相変わらず天ぷらがどうのこうの、なわけです。要は、多くの人が雪に閉じ込められて寒い思いをしているのに! と感情に訴えるやり口です。

以前は安倍さんがホテルのカツカレーを食ったことが、なぜか非難されていました。

カツカレー

これって、兵隊さんは戦地で苦労しているのにパーマをかけて着飾っているのは怪しからん、とそっくりです。三宅氏は自分のことをリベラルだと思っているのでしょうが、上記の発言はむしろファシズムに近い。

果たして我々は「パーマネントはやめませう」の時代から何ほどか進歩したのでしょうか。どうもそうは思えません。

必要なのは脱原発ではなく、福一事故の収束

「脱原発」が流行しています。都知事選挙では、元首相の細川護煕が「脱原発」を掲げて立候補し、ある程度の支持を得ています。東京に原発などないのに奇妙なことです。

脱原発派の主な論拠になっているのが、「現在全ての原発が止まっているが、特に支障がない」という事実です。

もともと日本の電力会社の発電能力は、一年のたいていの日の需要を上回っています。ただ年に数回ある猛暑の日、それも午後の1,2時間だけ、みんながエアコンを付けるので消費電力量がピークに達し、そのピークに対応するために過大とも言える発電能力を保持しているのです。

だから、原発無しでもある程度までは対応できるのですが、ただでさえ石油や天然ガスの価格は乱高下しやすい上に、「日本は原発を動かせないなら、石油・天然ガスを買うしかないですよね」と諸外国から足下を見られ、割高の燃料を買わされることになります。

勘違いしがちなのは、原発というものは止めたからといって安全なわけではない、ということです。停止しても冷やし続けなければいけません。現在全ての原発が運転停止していますが、それによっていかほども安全になったわけではないのです。

福島の事故による被害は甚大で、原発の安全性に疑いが投げかけられているのは当然のことです。しかし、原発を止めるだけでは意味がないし、完全な廃炉を目指すのは無意味ではないとしても、我々が負担しなければならない費用は現在の比ではありません。

交通事故に喩えると、「事故を起こしてしまったのでもう自動車には乗らない」というのも一つの考え方ですが、「敢えて乗り続けて金を稼いで、被害者に賠償する」というのもまた一つの考えです。

脱原発するか否かは二次的な問題であって、現在の福島第一原発事故の収束と被害者の救済こそが喫緊の課題と言えるのではないでしょうか。

農薬混入事件に思う

冷凍食品への農薬混入事件の容疑者が捕まりました。ビッグスクーターに乗るコスプレおじさんだったそうで、私も二輪にハマっているオタクなので若干シンパシーを感じています。

しかも、報道によると、容疑者の勤務していた工場では最近「能力制」を導入し、彼の給料は月あたり4,5万円も減らされたのだとか。もともと10数万しかない給料を4,5万も減らされてはグレるのも無理ありません。

そもそも、工場の流れ作業で「能力制」というのがふざけています。人件費カットの方便であることは明らかです。会社側はそうではないと言うでしょうが、人件費の総額を「能力制」導入以前と比較すれば、必ず減っているはずです。

資本家による労働者の搾取は、学生運動などで共産主義が流行った時代よりも、非正規労働という形でむしろ苛烈さを増しています。左翼の皆さんは、オスプレイを監視したり原発廃止を求めて座り込んだりする暇があるなら、容疑者のような「虐げられしもの」を助けるために活動するべきです。

毒でも、「毒」はいけませんね。「毒」だけはいけません。しかも、不特定多数の消費者、つまり我々がターゲットにされているわけですからね。

毒物の混入は卑劣極まる犯罪であって、容疑者がどれほど悲惨な境遇であったとしても、この点は全く同情できません。無論、まだ容疑の段階なので動機を含めて確定的なことは何も言えませんが。

どういう理由があるにせよ「毒」を盛るのだけはダメです。「ああ美味しかった、ごちそうさま」と食べ終わって、うぐぐっと苦しみ出すなんてイヤすぎます。

やはり、社会への不満はゲバ棒を振り回すことによって表明するのが一番(?)です。

誰しも目の前の札束には抗いがたい

札束猪瀬直樹氏の辞任に伴う東京都知事選が行われます。

去年は忙しくて書きそびれていましたが、氏が問題の渦中にあるときにはあまりの集中砲火の凄さに、つい気の毒に思ってしまったりもしたものです。判官贔屓と言いますか。

だいたい、「賄賂を受け取った」みたいな印象で報道されていましたが、借りた金を政治資金収支報告書に記載していなかったという政治資金規正法違反の疑いに過ぎません。しかも、同法は会計責任者を罰する法律であって、猪瀬氏自身が罪に問われることはないはずです。

もちろん、会計責任者が猪瀬氏の意向を無視して勝手に記載しなかった、ということは考えにくく、結局のところボスである猪瀬氏には道義的責任があるとは言えるでしょう。

でも、考えてもみて下さい。いやがる相手から無理やり金を巻き上げたんじゃないんです。向こうから頼むから貰って下さいと言って持ってきた金なのです。私なら迷わず貰います(笑)

通常の感覚からすると、やってはいけないこと(≒犯罪)とは、相手のいやがることですよね。ところが、この場合、相手の希望通りに金を受け取ったことが罪に問われているわけです。

この点が、(広義の)収賄が罪の意識を伴いにくい原因です。

繰り返しますが、だから金を受け取ってもしかたがないというわけではありません。一見被害者は誰もいないようですが、実は「政治的な公正」が失われているからです。

猪瀬氏も頭では分かっていたのでしょうが、目の前の札束に抗いきれなかった時点で、都知事としては失格でした。

悪ふざけ投稿の従業員に損害賠償請求はやりすぎか

飲食店等の従業員が冷蔵庫に入って遊びつつ、その姿をネットにアップロードする事件(?)が相次いでいます。このようなことが頻発する理由の一つは、言い古されている感はありますが、やはり、SNS に対する認識不足でしょう。そして、もう一つ、後で詳しく述べますが、学校教育、とりわけ校則の定め方にも問題があります。

炎上のメカニズム

ネットに上げたら全世界に公開したのと同義、ということを理解していない人はまだまだたくさんいます。特にSNSの場合、自分がフォローしたりされたりしている数十人しか見ていないと誤解しがちです。

実際、いつも見ているのは数十人どころか数人でしょう。ただし、それはあくまで平常時の話です。たった一回のツイートが「炎上」するやいなや過去のツイートまでほじくり返され、大丈夫だと思っていた発言が改めて問題視されます。しかも、文脈から切り離され、人間のクズと決めつけられた上でです。

世の中には暇人がいて、炎上した人の個人情報を調べまくったり、わざわざその人の自宅に行って嫌がらせをする輩までいます。

このような「炎上」のメカニズムについては、荻上チキ氏の『ウェブ炎上 ネット群衆の暴走と可能性』に詳しく載っています。氏の考え方には同意できない点も多々ありますが、歪んだ正義感と群集心理が根底にあるという指摘は的を射ています。

「ブロンコビリーが店舗の閉鎖を発表、店員に対して賠償請求も検討」というニュースについて、ドワンゴの川上会長と目されている @kawango38 さんが

悪ガキのおふざけにお灸を据えるのに、彼の人生を台無しにさせることで世間に責任を果たしたつもりのクソ経営者。 そして他人の不幸を見て悦に入りながら、社会正義を執行した気分にひたる賛同者。

とツイートしたのも、そういった「歪んだ正義感」に対する嫌悪からに違いありません。

他にも、「安い賃金でこき使われているバイトに損害賠償を請求するなんて」とか「いたずらも許されない社会では息が詰まる」という意見が多く聞かれます。

賠償請求は当然

しかし、バイトであることは損害賠償を免れる理由にはなりません。冷蔵庫に入って遊ぶのは業務ではないからです。

従業員の不始末は会社が責任を負うべき、というのはその通りですが、それは業務遂行中のことです。例えばウエイトレスが誤ってコーヒーをこぼし、客の服を汚したとしましょう。客は店にクリーニング代を請求するでしょうし、店は払うでしょう。ウエイトレスが普通に仕事をしていたのなら、店からクリーニング代を求償されることはありません。(使用者責任【民法第715条第1項】は使用者の労働者に対する求償権を妨げるものではない【同第715条第3項】が、労働者が通常求められる注意を尽くしている場合、過失がないとみなされる)

一方、冷蔵庫に入って遊ぶのは業務ではないし、過失どころか故意にやっていることは明らかです。この行為によって店側が損害を被ったのならば、賠償請求は当然です【民法第709条】。

ただ、このように理屈では店は損害賠償請求できますが、実際上はやはり、企業と個人とでは力関係に差がありすぎるということで、使用者の被用者に対する請求権は大幅に制限されるのが普通です。

逆に言えば、件のバイト君が店から幾ら請求されるか(あるいはされないか)分かりませんが、(裁判になれば)認められるのは大した額ではないでしょう。

これは消費者にとって「甘受すべきリスク」ではない

気になるのは「安い労働力を使うことで安く提供しているサービスなのだから、客もそのリスクを甘受すべき」という意見です。「安い飲食店では何を喰わされるか分かったものではない、まともなものが喰いたければ高級な店に行け」というわけです。

こう述べることは自分は高級な人間だと言っているようなもので、気分が良いのでしょう。「安いんだから我慢しろ」論を展開する人は少なくありません。

なるほど、コンビニの店員に一流ホテルのレセプションのような物腰を求めるのは無理があります。しかし、最小限の「誠意」は期待しても良いはずです。

髪を染めていても、鼻にピアスをしていても、言葉遣いがなっていなくても構いません。これらは単なるマナーの問題です。

しかし、冷蔵庫に入って遊ぶのは不法行為です。

過保護な校則のせいで、本当に悪いことが見えにくくなっている

やって良いことと悪いことの区別がつかない人間が増えているのはなぜか。私は学校の教育に問題があると考えています。

語弊を恐れずに言えば、喫煙はやって良いこと、万引きはやってはならないことなのです。

未成年者の喫煙が禁じられているのは、パターナリスティックな理由からです。本来、少なくとも自宅では誰でも自己責任で自由に喫煙して良いのが原則ですが、未成年者は思慮浅薄でタバコの害についてきちんと判断できないとして、保護するために禁じているのです。

一方、万引きは他人の権利(財産権)を侵害する行為であり、犯罪です。自己責任もへったくれもありません。

両者を同じように扱っていることが、日本の学校教育の問題点です。

極言すれば、タバコを吸うことによる害、即ち健康を損ない、お金がかかり、人から嫌われ、生命保険の加入で不利になる、といったことを受け入れるなら未成年でも喫煙して良いのです。バイクに乗ったり、髪を染めたり、ピアスをしたりも同様です。校則では禁じられているかもしれませんが、人として絶対にやってはならないことではありません。

もっと分かりやすく言うと、自分が困るだけのことならやって良い、他人に実害を与えることはやってはいけない、ということです。

この考え方は未成年者には少し高度すぎるのではないか、との懸念は理解できます。実際、「ああ、タバコは吸って良いんだ」「バイクに乗って良いんだ」と早合点する子供もいるでしょう。

だからこそ、辛抱強く「なぜダメなのか」を説明する必要があるのです。「とにかく禁止」では、是非弁別能力が育ちません。

冷蔵庫に入った若者たちは、一様に校則を破って得意になっている子供のような顔をしていました。こういう甘えを育んだのが、「とにかく禁止」式の学校教育です。

「他人の権利を侵害してはいけない、もし侵害すればそれなりの責任を負う」という教育に変えていくべきです。

誰も言わない生活保護制度の本当の目的

芸能人の母親による生活保護の不正受給疑惑が問題になっています。

福祉事務所の怠慢

恐らく、保護を開始した時点ではこの母親も芸能人の息子も本当に貧乏で、受給資格を満たしていたのでしょう。それが、息子が急に売れだすという「想定外」のことが起きて、途中から「息子の扶養にかかるべき」ケースに変わってしまったわけです。

そういう意味では、福祉事務所の怠慢が大きな原因の一つ、と言えます。

「何を言うか、息子に多額の収入がありながら、保護を辞退しなかった親子が悪い」とお思いでしょうか。確かに悪いのですが、私は、ある程度やむを得ない面があったと考えます。

以下は、誤解を生みやすいので注意して読んで下さい。

刑事事件の被告人は、裁判でウソをつくと偽証罪に問われるでしょうか?
答えは否。ウソをついても罪に問われることはありませんし、言いたくないことは言わなくても構いません。なぜかというと「どうせ本当のことを言うわけないから」です。

頗る語弊がありますが、生活保護受給者もこれに似た立場にあります。もちろん、生活保護を受けることは犯罪ではありませんし、収入があるのにないと偽って保護費を騙し取れば詐欺罪になります。一視同仁に語ることは出来ませんが、「正直な答えが期待できない」という意味では両者は似ています。
ですから、福祉事務所は受給者本人(及び扶養義務者)の言い分をあまり信用せずにしっかりと調査をしなければなりません。

生活保護は刑事政策

さて、「犯罪」というキーワードが出ましたが、実はこれが本エントリの核心でもあります。
生活保護法は憲法25条の生活権を具体化したもの、ということになっていますが、本当の本当は、これって刑事政策ではないのか、と。

言い換えれば、包丁を持って今にも牛丼屋に押し入ろうとしている人に、「これで牛丼を食え」と金を渡しているようなものではないのか、ということです。
生活保護制度には保護から抜け出すインセンティヴが殆どなく、たいていが一度貰ったら一生飼い殺しであることもそれを裏付けています。

実にうまい方法です。なにしろ、犯罪者予備軍が自分から窓口を訪れて住所氏名を申告してくれるのですから。

そう考えると、外国人に対して、率にして日本人の倍近くも支給されていることにも合点がいきます。
これは、日本人に対する逆差別でもなんでもなく、外国人に対する差別そのものです。要するに彼らは犯罪者となる可能性が高いので金でおとなしくさせておけ、というわけです。

これは決して穿ちすぎた見方ではないでしょう。
今までの日本にはこのように生活保護をシットダウンマネーとしてばらまくだけの財力がありました。しかし、これからはそうもいかなくなります。
単純にお金が足りないことだけでなく、国民の不信・不満も限度を超えつつあります。上では犯罪を予防する「うまい方法」と述べましたが、制度を悪用する手法は年々高度化し、闇社会を肥え太らせることによって、却って表の社会を危険に晒しています。

ここは一つ、生活困窮者の救済という本来の趣旨に立ち返り、現金支給をやめてフードスタンプなど不正が起こりにくい方法を模索するべきです。

大変なのは分かります。フードスタンプにしても決して完璧な制度ではないことも承知しています。しかし、変えていかなければ何も変わりません。