離島の郵便局員失踪に思う

鹿児島県の離島・竹島の簡易郵便局でただ1人の職員が失踪し、住民の生活に影響が出ているそうです。もっとも、犯罪に巻き込まれたわけではなく、既にその職員とは連絡が付いているとのことです。

この「事件」に関する世間の声を要約すると、どうやら

「こんな辺鄙なところでただ一人で勤務させられてかわいそう」
「そりゃ逃げもするわ」

といったところのようです。この島では郵便局が休みになる土日には船便がなく、ずっと島から出られない状態だったそうで、相当なストレスだったことは想像するに余りあります。

そんなに過疎地が悪いのか

ただ、気になるのはこういったことが起きるたびに「これだから田舎は」「こんな島、滅んでしまえ」といった地域差別的発言や、「年寄りが若者をいじめたのだろう」「村八分にされたのだろう」といった粗雑な推測が横行することです。

確かに過疎化と高齢化は表裏一体の現象であり、件の島も高齢者が多いに違いありません。「田舎特有の濃厚な人間関係が嫌だ、自分だったら耐えられない」というのも分かります。しかし、人口減少は我が国にとって避けられない現実です。過疎地を、高齢者を悪し様に言うだけでは問題を解決するどころか見失うことになります。

社会のお荷物

今日、限界集落は放棄してコンパクトシティを目指すといったことがさかんに論じられています。確かに、現実的には一部でそういった施策を採らざるを得ないでしょう。しかし、移住を求めることは居住移転の自由の制限に他ならず、自由主義の原理に悖ることを忘れてはなりません。

過疎地や高齢者を役にたたないもの、目障りなものとして排除しようとする風潮には憂慮すべきものがあります。特に「悪辣な年寄りどもが若者を搾取し不正な富を蓄えている」といった言説は、年寄りをユダヤ人に若者をドイツ人に置き換えれば驚くほどナチスのそれに似ています。なるほど、あくどいユダヤ人もいたのでしょう。現代日本にもあくどい年寄りはいます。しかし、だからといって年寄り全般を敵視し排除しようとするのは間違っています。

簡易郵便局

竹島の郵便局は従来、鹿児島中央郵便局の分室として本土から日本郵便の職員が来ていたものが、今年の7月に簡易郵便局となり業務を受託した役場の職員が働くように変わったのだそうです。失踪したのはこのときに雇われた嘱託の県外出身の職員です。この人が無責任だったとは私は思いません。むしろ、慣れない土地で過重な労働に良く耐えたほうでしょう。

では、ワンオペさせた役場が悪いのでしょうか。そうだとしても、一方的に非難する気にはなれません。税金で運営する以上、最小限の費用で済ませるのは納税者に対する義務でもあるからです。彼らもまた板挟みだったに違いありません。

希望は、ある程度技術的に解決できる余地があることです。ATMを導入すれば職員の負担は大きく軽減できるでしょうし、オンラインバンキングは過疎地こそ活用すべきです。ややSF的ですが、ドローンによる小包配達も研究されています。

未来を暗示している

恐らく、日本のどこに住んでいても高い水準の公共サービスが受けられる時代はもうそう長くは続かないでしょう。しかし、だからこそ居住移転は自由であるという原則を明らかにしつつ、最低限これだけは維持すべきというラインを探っていかなければなりません。竹島で起きたことは、我が国の未来を暗示する出来事でもあります。

 

共謀罪に反対するやつは左巻きなのか

テロ等準備罪、いわゆる共謀罪法案が衆議院を通過し、近く成立する見通しです。

あなたはこの共謀罪に賛成でしょうか、反対でしょうか。それとも特に関心はないでしょうか。中には「取り立てて賛成はしないが、反対!反対!と騒ぐ左巻きの連中にはうんざりする」という人も居るかもしれません。

私自身は若干の危惧を抱いています。

刑法はいくつかの重大な犯罪(殺人、身代金目的拐取、強盗、内乱、外患、私戦、放火、通貨偽造)について、その予備行為を実行行為とする「予備罪」を設けています。新設される共謀罪はこの予備罪の考え方を大幅に拡張するものです。

予備罪にしろ共謀罪にしろ、巷間言われるような「内心を処罰する法律」ではありません。「人殺ししようかな」と思うだけでは決して罪にはならず、「これで人を殺そう」と思って包丁を買ってきて初めて殺人予備罪と言えるのです。

では、濫用の恐れは一切ないのでしょうか。残念ながらそうとは言い切れません。「準備」という概念はどうしても広範にわたるものだし、「包丁は買ってきたが殺人のためではない」と証明するのは困難です。

無論、現実には包丁を買ってきただけで捕まることはあり得ないし、殺人を企図していたと分かる客観的証拠も必要ですから、警察は片っ端からしょっ引けるわけではありません。

共謀罪によって拡張されてもそれは同じです。しかし、一抹の不安は残ります。仮に現在の政権は共謀罪を濫用することはないとしても、未来の政権もそうであるという保証はないのです。右か左かという問題でもありません。将来、人権抑圧的な左翼政権が成立する可能性は皆無ではなく、そのときには共謀罪が弾圧の武器として活用されるに違いないのです。

どうも、「俺は右派(左派)だから原発の再稼働に賛成(反対)」だとか「共謀罪に賛成(反対)」といった風に、それぞれのイシューについて自らの属する(あるいは属したいと考える)陣営をもとに機械的に態度を決める人が少なくないのには愕然とさせられます。さらには「こいつは共謀罪に反対(賛成)している、敵だ!」とばかりに相手を攻撃するのです。

もういい加減にそういった敵・味方思想から脱却すべきです。

なるほど、共謀罪が成立したとしても直ちに恣意的な運用がなされる可能性は低く、冤罪や不当逮捕が続出するわけではないでしょう。むしろ、恐るべきテロ計画を未然に摘発し、世間をして「やはり共謀罪があって良かった」と言わしめるかもしれません。

しかし、だからといって手放しでこの法律を肯定するわけにはいきません。人は皆、正常性バイアスによって「自分が共謀罪で捕まることはない」と思うものだし、公正世界仮説にとらわれがちで、「捕まったからにはテロリストなのだろう」と考えます。

まさにそれゆえに計画段階での摘発には慎重でなければならないのです。


私とてテロリストが野放しになることを望むものではないし、現場の警察官のもどかしさも分かります。しかし、テロを阻止するために必要なことの第一は捜査力の向上であって、警察権力の拡大ではないはずです。

今後、共謀罪がどのように運用されるか、注目していきたいと思います。

「日本死ね」について、今一度考える

「保育園落ちた日本死ね」が今年の新語・流行語大賞候補にノミネートされたそうです。ひどい話です。まさか大賞に選ばれることはないでしょうが、現在の日本の状況を、恐らくは発言者の意図とは違った形で照らし出した言葉ではあります。

確かに保育園の不足は深刻です。子供の数は減り続けているものの、共働きの世帯数は増加しており、サザエさんのような大家族制はとうに消え去った今、親や親戚に預けるといったことも困難です(もっとも、サザエさんは専業主婦ですが)。一方、保育園を経営する側から見れば今は一時的に供給不足なだけで、将来にわたって需要が伸びる見込みはないのですから、事業を拡大する動機はありません。

加えて、業者の方が客を選ぶという、不満を招きやすい構造になっています。クレジットカードの審査などと同じで、何度も落ちると人格を否定されたような気分になることでしょう。

思わず「死ね」という言葉が口をついて出たのかもしれません。

しかし、「死ね」の前に「日本」をつけたことで、このフレーズは我々に微妙な(あるいは強烈な)感情を引き起こしました。

マジョリティ、マイノリティ

「日本死ね」がヘイトスピーチであるか否かについて議論が巻き起こったことで明らかになったのは、皮肉にもその境界が分明ではないということです。一応、マジョリティからマイノリティに向けられていることがメルクマールとなるという考え方がありますが、そうだとすると、ではどういう集団をマジョリティ(あるいは支配的)とし、マイノリティ(被支配的)とするのかという問題に突き当たります。

例えば高齢者は個人資産の6割を占め、代議士や企業の重役も多いという意味で支配的集団ですが、身体や精神が衰え、施設で虐待されるなど尊厳を奪われかねないという意味では弱者です。同じように民族についても、場所によって、あるいは観点によって強者と弱者が入れ替わることは十分にあり得ます。とは言え、日本において日本人がマジョリティであることは確かでしょう。日本人による外国人に対するヘイトスピーチの方がその逆よりも多く発生するであろうことは蓋然性としては成り立ちます。

しかし、だからと言って日本や日本人がいかようにも侮辱されて良いということはないはずです。

ヘイトスピーチの根源

ヘイトスピーチとは単なる悪口雑言ではなく民族的憎悪を煽る言説であるとされています。「日本死ね」は形式的にはその要件を備えていますし、私も一人の日本人として非常に不快ですが、恐らくこのフレーズは社会に対する不満の特異な表現として発せられたもので、日本及び日本人を憎悪するわけではないのでしょう。であれば、少なくとも狭義のヘイトスピーチには該当しないようにも見えますが、問題はその先にあります。

既に述べたとおり、ヘイトスピーチとその他の言説との境界は我々が思っているほどにはハッキリとしていないのです。仮に民族名や国名が入っていたらアウトというような基準を設けたとしても、「韓国」ではなく「キムチ」といったように暗喩を用いることも含めたらその範囲はいくらでも拡大してしまいます。一方で「日本死ね」のように明確に国名が入っていてもヘイトスピーチではないと主張される場合もある。論者の恣意によるとしか言いようがないこともしばしばです。

結局、他者を人間として尊重しない精神、「死ね、クズ、お前なんか生きていても仕方ない」とでも言いたげな心のありようがヘイトスピーチの根源なのです。こう書くと、ヘイトスピーチの意味を無理に押し広げて希薄化・無効化しようとしているように見えるかもしれませんが、そうではありません。むしろ、「単なる暴言」とされる言葉の中にヘイトスピーチの萌芽があることに注意を向けて欲しいのです。

「日本死ね」は甘えの産物

ここに甘やかされて思い上がった子供がいると想像してみて下さい。この世に生んでくれた親に向かって「死ね、クソババア」などと悪態をついています。みっともないですよね。件の「保育園落ちた」氏の口吻はそれに似ています。

誰しも親を選んで生まれてくることはできませんし、ほとんどの親は完璧とはほど遠い人間ですが、それでも子は親を愛するものですし、もしそうでないとすれば育て方が間違っているのでしょう。

国も同じです。縁あってこの国に生まれてきた人間が平気で「日本死ね」などと言い、マスコミまでが流行語としてもてはやすのは何かが間違っています。悲しいことです。

小保方氏への罵詈雑言に思う

STAP 細胞が存在するかを検証する実験は打ち切りとなり、小保方晴子氏は理研を辞職するそうですね。

税金を使った研究がインチキだったことは国民としては怒るべき事で、彼女への同情はありません。

しかし、巷での罵詈雑言には釈然としないものがあります。いえ、別にきれい事を言うつもりはありませんが、たまたま小保方氏が女性であっただけで「これだから女は……」という人があまりに多いのには微妙な気分になります。まるで論文を捏造したことのみならず、女であることも罪の一つであるかのようです。

たまたま女性であったと書きましたが、世間では女だからこそこういうことが起きたと言っている人が大勢います。つまり、女の魅力で理研の上司を籠絡したのではないかというわけです。そういう人は何のことはない、自分が同じ立場なら魅力的な女性を依怙贔屓すると告白しているようなものです。

女性の時代と言われる割に、目立ったことをした女性への風当たりはかくも強い。彼女の場合、悪いことで目立ったのだから仕方のない面もありますが、似たようなことをやらかした森口尚史氏はここまでは叩かれませんでした。

もう少しほとぼりが冷めたら、当初のマスコミによる「リケジョ」などという奇妙な持ち上げ方も含めて、一連の出来事を女性差別の視点から検証する必要がありそうです。

田んぼのライトアップねえ……

うーむ、やっちゃいましたね、石川県輪島市。

白米千枚田

10月18日の読売新聞の記事より。田んぼのあぜ道を紫色のLEDでライトアップしたのだそうです。

ライトアップの是非については以前に小倉城について述べました。私は基本的にはライトアップに賛成なのですが、これはさすがに不自然な感じがします。せめて、白色光なら良かったのですが。

人を集めてナンボとはいえ、もう少しやりようがあるように思います。

朝日は「叩かれすぎ」か

朝日新聞の従軍慰安婦に関する「誤報」問題で、一部に「朝日は叩かれすぎ」という論調が見られます。

私は別に現在の状況を「叩かれすぎ」とは思いませんが、もし叩かれすぎだとして、だから何だというのでしょう。

叩かれすぎだったということなら、姉歯一級建築士もそうだったし、最近ではスノーボードの国母選手など、別に罪を犯したわけでもないのに「態度が悪い」というだけで叩かれていました。

そういうときには屁もひらなかったマスコミが、なぜ朝日に限って「叩かれすぎ」などというのか、理解に苦しみます。

問題の本質は叩かれすぎかそうでないとかいうことではなく、「本当に単なる誤報なのか」です。冒頭で「誤報」問題と括弧書きしたのは伊達ではありません。

吉田某の「証言」が疑わしいと分かっていて記事にしたのではないか。私はそう思っています。

もうしそうであるなら、誤報ではなく捏造であると言えます。

どうも、朝日も他のマスコミも「知らなかったんです、私たちも騙されたんです」という線で事が収まると思っているようですが、仮に「証言」が出た当初はそうであっても、その後研究者の指摘により「証言」の信憑性が失われた時点で何らの措置もとらなかったことは、「騙されていた」とする主張と矛盾します。

この点が明らかにならない限り、朝日が信頼を取り戻すことはないでしょう。

アメリカの世界の警察離れ

Covert Terror Cell Emerges as Leading Target of the U.S.

–The New York Times, September 25, 2014

昨日のニューヨークタイムズの見出しです。ある人から、この文の意味が取れないと言われたのでちょっとレクチャーしてみます。

covert terror cell は「隠れたテロ組織(細胞)」、emerge は「(突然)姿を現す」、target of the U.S. は「合衆国の標的」。ここまでは分かると思います。

問題は leading で、これを動詞だと思ってしまうと emerges と leading で動詞が2つあることになってしまってわけが分からなくなります。

ここでは、leading は target に掛かる形容詞なのです。

よく、リーディング・カンパニーなどと言いますよね。あれです。leading target は「主要な標的」とでも訳せば良いでしょう。

従って、「隠れたテロ組織がアメリカの主要な標的としてにわかに注目されている」という意味になります。

記事を読んでみると、隠れたテロ組織とは、シリアで活動する Khorasan というグループだそうです。

少し前まではアルカイダ、現在はイスラム国が注目を集めていますが、あまり知られていない組織の中にも、危険なものがあるということでしょう。

もっとも、アメリカの指導層は世界の警察を以て任じているとはいえ、世論調査によれば、国民はその政策に懐疑的になりつつあるといいます。確かに、「テロとの戦い」はアメリカの安全に寄与するどころか、「標的」とされた人々の恨みを買っているだけのようにも見えます。

世論に鑑みればアメリカは今後、軍事介入にもっと慎重にならざるを得ないでしょう。

ヤジにはヤジの意義がある

セクハラヤジ問題についてもう一つ。

別にセクハラかどうかに限らず、ヤジというものは誰が言ったか分からない、少なくとも分かりにくいという性質があります。現に今回の鈴木都議もなかなか名乗り出ませんでした。もちろん、故浜田幸一氏のようにまる分かりで敢えてやってる人もいますけどね。

多くの場合発言の主が分からない、匿名に近いという意味で、2ちゃんねるなどの掲示板での発言に似ています。

このような言語の使用法は、果たして言論と言えるのでしょうか。

結論から言えば、私は言論に含まれると思っています。

確かに、誰が言ったか分からないとなると無責任で下劣な発言になりやすい。しかし、そうでないこともあります。例えば裁判官が政治的な意見を発表したい場合。あるいは、組織に属する人間が内部告発をする場合。

歴史を紐解けば、二条河原の落書のように匿名による言論が社会へ影響を与えた例は枚挙にいとまがありません。

考えてもみて下さい。「発言するときは氏名・住所・職業・年齢を明記してから! それ以外の発言は禁止!」みたいな社会では息が詰まると思いませんか。

匿名で下劣な発言をしているのを見かけたら、単に「下劣だな」と思っていれば良い。匿名での発言を禁止しよう! などと息巻く必要はないのです。

ただし、前にも書きましたが、発言によって民事・刑事上の責任を負うことがあるのは匿名であっても同じです。匿名であることによってそれらの責任から逃れやすくなる、ということはあるかも知れませんが。

しかし、ネットでの発言はほぼ確実に個人を特定できるものだし、ましてや議場でのヤジは録音されているのですから、最後にはバレるに決まっています。匿名性に乗っかって下劣なことを言うやつは捨て置けば良いし、看過できないような悪質な奴は捕まえれば良いだけです。

中国の全人代や北朝鮮の最高人民会議ではヤジは見られません。ヤジにはヤジの意義があるのです。

セクハラヤジより野蛮なもの

世間で、ある人や組織が酷く叩かれているとき、「だが、ちょっと待って欲しい」とばかりに、異論を唱えるのはブログではありがちなスタイルです。この迥寞録にもそんな記事が幾つかあります。

先日の「そもそも『早く結婚した方がいい』はセクハラか」もその一つで、おっちょこちょいな人はセクハラを擁護していると思うことでしょう。

しかし、読んでもらえば分かりますが件の発言がセクハラかどうかということと、発言を支持ないし容認するかどうかは別の問題です。発言が議場におけるヤジであることからすれば、当然侮辱の意図があるのだろうし、言われた方は不快だったでしょう。

ですから「このおっさん、いらんことを言ったなー」とは思います。それだけです。でもこの発言だって、もし、鈴木氏に面と向かって言ったら、彼も「おっさんとは何だ、おっさんとは!」と不快に思うかもしれません。快不快という主観に基準を置く限り、キリがありません。

だから、言論は自由市場であるべきだと思うのです。

よくない発言をしたら評価が下がり、議員であれば落選の危険が増す。企業人であれば株価が下がったりする。それで良いではないですか。

言論に「触れてはならない領域」を作って、うっかり触れると袋だたきに遭って社会的に抹殺される。ファシズムそのものです。

鈴木氏のヤジが下品だ下劣だ野蛮だと言われていますが、私に言わせればその袋だたき現象こそが野蛮なのです。

そもそも「早く結婚した方がいい」はセクハラか

例のセクハラヤジ問題は、「犯人」の鈴木章浩都議が白状して一応の落着を見ました。この件に関しては色々な人が色々なことを言っていますが、しかし、根本の部分への言及は誰もしていないように思えます。

根本とは、「早く結婚した方がいい」との発言はセクハラといえるのかどうか、です。

セクハラは民事上の不法行為であり、場合によっては刑事上の強要や侮辱、名誉毀損になることもあります。刑事、つまり「犯罪」まで行ってしまうと逆に問題は簡単になります。ある行為が犯罪であるかどうかは厳密に定義されているからです。

「早く結婚した方がいい」との発言が犯罪ではないことは明らかです。では、民事上の不法行為でしょうか。言われた人、今回の場合塩村文夏都議が精神的な苦痛を受け、賠償を請求するというならそうなのでしょう。しかし、そういうわけでもないようです。

要するに、犯罪でもなければ不法行為でもなく、道義上問題となっただけと言えます。

それをまるで凶悪犯罪であるかのような「犯人捜し」が行われ、世界に向けて「日本ではこのような女性差別が行われています!」と触れ回るメディアまである始末です。不用意な発言を攻撃するのは政治の常とはいえ、決して良い風潮ではありません。

強いて言うならば、今回、発言の主(鈴木氏)が名乗り出るのが遅きに失したということはあるでしょう。

とっとと名乗り出るべきでした。そして、この発言が許せないと思う都民は次からはこの人に投票しなければ良い。それが民主主義であり、本来それだけで済む話です。